肌寒い風が、頬を撫でる。
 春はもう目前とは言え、寒さは今が底かもしれない。

 あと数日で15歳だ――、そしてまた春が巡れば、学園の規定通り高等部へと進学することとなる。

 あれから――彼女がフランスへと旅だってもう一年か、と鳳は中等部の校庭から空を見上げた。するとスッと一筋の飛行機雲が瞳に映って思わず目を細める。
 あの白線の先はパリへのものなのだろうか? 彼女はどうしているだろう? 
 きっと元気でやっていると思う。でも――。
「先輩……」
 こうして彼女のことを考えてしまう自分に苦笑いをしてしまう。一年経ってさえ、まだ忘れられない。けれども、自分とて彼女に負けじと頑張ってきたつもりだ。
 テニス部では副部長として、部長の日吉とともに部を引っ張り皆を全国へと連れて行けた。との、"今年こそ関東大会優勝"という約束こそ果たせなかったものの、日吉とシングルス1を競い合い、それなりに氷帝テニス部に貢献できたつもりだ。
 この一年間、当たり前の日常がただ過ぎていった。ただ、その日常に彼女だけがいなくて――けれども、気持ちは少しも風化の兆しさえ見せておらず。今も、無意識に探していた。いつかまた、彼女と再びどこかで巡り会えるのではないか、と。もし、運命というものが存在するならば――。

 卒業が近いせいだろうか? 我ながらひどく感傷的になっている、と首を振るって前を見ると、ふと見慣れた人影が映って鳳は目を瞬かせた。

「あれ……?」

 女生徒だ。だが氷帝の制服とは違っている。長い黒髪に、凛とした大きな瞳。かなり人目を引く美人である。が、どこか不審を煽るようなコソコソした態度で――、あ、と思いついた鳳は思わず声をあげていた。
「椿川学園のマネージャーさん! ……かな?」
 去年、全国大会で氷帝と対戦し、今年も全国で顔を合わせた学校のマネージャーを務めていた女性である。おそらく。
 鳳が声をかけると、彼女はビクッと肩を揺らして鳳の方を凝視し、しまった、というような顔色を浮かべた。
「あー……、見つかっちまっただか。おめぇ……鳳、長太郎君、だべ?」
「あれ、覚えててくれたんだ?」
「そりゃ、氷帝の副部長で全国一のサーバーなんだ。オイラが知らないはずねえべ」
「あはは、ありがとう。えっと……君は……」
「北園寿葉だ。椿川の敏腕マネージャーとはオイラのことだべ」
 夏の大会ぶりに見る彼女は、強気な視線で、フ、と不適に微笑んだ。それを見て、鳳は微笑みに少し苦いものを混ぜた。
「その北海道のマネージャーさんがどうして氷帝に? まさか、偵察かい? 君は……確か俺と同級生だったよね……去年の夏で部活は引退してるはずだろう?」
「う……」
 聞いてみると寿葉は、しまった、という表情を再び浮かべつつ逡巡したのちに観念したのか「実は……」と口を開いた。
「オイラ、受験してきたんだ。氷帝の高等部……」
「え……!? あ、そういえば今日って外部生の受験日だったっけ……。でも、どうして? ご家族の転勤とかかい?」
 驚いた鳳がなお訊いてみると、寿葉は再び口ごもり、少々うつむいてうっすらと頬を染めた。
「? 北園さん?」
「……に、いたいからだ」
「え……?」
「だから、侑士さんのそばにいたいからだ!!」
「え――!?」
 鳳が心底驚愕した声を出すと、むぅ、と彼女は頬を膨らませた。鳳はなお驚愕して、あたふたと慌てふためく。
「え、侑士って……えっと、忍足先輩のこと……だよね?」
 こくりと寿葉がうなずく。
 なんでも忍足を追いかけて氷帝を受験し、受かっていれば春から氷帝の高等部に通うこととなるという。むろん住まいは北海道であるため、学園の持っている寮に住まうこととなるということだったが、思ってもみなかったことに鳳はとても反応が追いつかない。
「そ、それで……ご家族と離れて、一人で東京で?」
「だって、この一年ずっと考えてたんだ。オイラ、侑士さんのこと本気なんだ。やっぱり北海道と東京じゃ遠いべ。少しでもそばにいたくて……だから……。あ、けど……オイラが勝手に追いかけてきただけだけどな」
 寿葉の話にあっけにとられながら、鳳は少しばかり目を見張った。構わず寿葉は言葉を続ける。
「ま、バレちまったらしょうがねぇ。春から同級生だ。よろしくな」
「あ……うん。こちらこそ」
 なんとか頷きながら、どうにか頭の理解が追いついてきた鳳は小さく「そっか」と呟いた。
「忍足先輩を追ってきたんだ……君は」
「んだ。だってオイラ、侑士さんのこと大好きなんだ。ずっと氷帝の生徒がうらやましくて……氷帝に受かるために勉強だって頑張ったべ」
「そう、なんだ……」
 力説する寿葉を横に鳳はちらりと空を見た。先ほどの飛行機雲はすでに散りつつあり、薄ぼんやりと何とか空路の形跡が確認できる程度となっていた。その雲の先に――鳳はどうしてもの姿を探してしまう。自分だって、できることなら彼女を――と拳を握りしめつつ肩を竦めてみせる。
「すごい決断だね。でも、ちょっと羨ましいよ」
「え……?」
「あ、いや。俺は……君みたいなことは、できなかったから」
 鳳はひどく寂しげな笑みを浮かべ、寿葉は少しばかり目を見張る。
「鳳君も、好きな人が遠くにいるだか……?」
 鳳は笑顔に寂しさを増すことで、その問いを肯定した。寿葉は、うーん、と口元に手をあてる。
「好きなら、追いかけていけばいいべ。鳳君、背も高くて男前だし、モテるべ? 普通の女の子ならぜったい嬉しいぞ」
 あ、オイラは別だけどな。侑士さん一筋だ。と、付け加えて寿葉が笑い、鳳もつられて少しだけ笑った。
「ありがとう。そう上手くは……なかなかいかなかったけど。でも、君を見て少し自信をもらったよ」
「そっか。――ところで、せっかく会ったんだ。テニスコートに案内してくれねぇか?」
「え……? あ、でも忍足先輩なら高等部の方のコートだと思うけど……」
「そうじゃなぐて、一度じっくり見ておきたいんだ。侑士さんが去年まで使ってたコート、それから学園も」
 言われて鳳も別に断る理由もなかったため、快く寿葉をテニスコートに案内した。
 美貌で有名な彼女が現れれば後輩たちが色めき立ち、さらには高等部に彼女が入るという情報を得て騒ぎ始めた後輩たちに鳳は苦笑いを禁じ得なかった。が、彼女は高等部でテニス部のマネージャーを続ける気は今のところないという。どうしても忍足を贔屓してしまいそうだから、ということだった。
 鳳にしても「それは残念だな」と答え――、一通り彼女を案内してからそのまま北海道へ帰るという彼女と再び校庭で別れた。 

『椿川のマネージャーさん、すっごく美人だったね! ふふ、テニス部のみんな色めき立ってたもん』
『忍足くんのファンが大騒ぎしちゃうかもしれないね』

 ふ、と無意識のうちにの声が過ぎって――鳳は思わず苦笑いを漏らした。
 どうして、こんな些細なことさえ彼女との思い出を呼び起こしてしまうのだろう? それはおそらく、いつだって彼女に一番に話をしたいと思っているからに違いない。たとえば今日、道ばたで綺麗な花を見かけたとか、そんな些細なことだって何だって――。
「好きなら追いかければいい、か……」
 はは、と鳳はなお苦笑いを浮かべた。
 寿葉の大胆な行動は賞賛に値するとして。高校はともかくも、大学を機に上京する人間はそう珍しくはないだろう。だから――寿葉のケースも先を見据えた現実的な選択であり、自分とのケースには全く当てはまらない。
 仮に自分がを追いかけてパリに行ったとしてどうなるというのだろう? 何をしに来たのだ、とかえって彼女を失望させるに違いない。それに――、彼女だってもう恋人の一人や二人、あっちで既に作っていないとは言い切れない。何も始まっていない自分とのことなど――既に過去のできごととなっている可能性の方が現実には高いだろう。でも。
 どうすればいいのだろう?
 自分はいったい、何がしたいのだ?
 春から高等部にあがるとは言え、もういつまでも子供ではいられない。その先のことも、そろそろ考えなくては――。
 自分はのように幼い頃から明確に将来の目標を定めていたわけではない。いや――、ピアニストになるという夢を持っていたこともあったが、それは向いていないと既にあきらめた道だ。だからといって、テニスも高等部までと決めているし。しかし、父親の家業を――弁護士を継ぐというのはピアニスト以上に無理な話だ。父親の方も絶対的に向いていないと悟っているのか、端から期待すらしておらずむしろ姉の方にラブコールしている状態だ。姉が無理でも、今度は姉の結婚相手に継がせるという裏技でも使うのだろう。少し後ろめたくもあるが、自身の未来は比較的自由である。
 とはいえ当面の目標は、氷帝学園高等部テニス部の全国制覇であるが――、その先を、ただなんとなく、で過ごしていきたくはない。せめてに、胸を張って堂々と会えるように。例えこの先、気持ちが風化してしまって、一生会うことがなくても。

「先輩……、俺ももう卒業です。でも、歳だけは去年のあなたに追いついても、自分の将来はまだ決まらないなぁ……」

 消えた飛行機雲に向かってそっと呟き、鳳は校庭に背を向けた。
 そうして高等部へと進学した鳳は、同じようにテニス部に入ってほぼ三年前と同じメンバーとの顔合わせとなった。
 唯一、中等部の時と違う点は「新入部員その1」ではなく「期待の一年生」扱いされていることだろうか。

「侑士さーん、差し入れだべ!!」

 そして無事に寿葉も氷帝に合格し、なにかにつけては忍足のところへ押し掛けている様子を目にして鳳は微笑ましく感じていた。
 いきなり現れた外部生の彼女が、女生徒に人気の高い忍足を追いかけ回しているという図はあまり女生徒には好ましくないらしく、鳳としてもヒヤリとする場面を何度か目にしたが、さすがに元とはいえ「敏腕マネージャー」を自称するだけあってうまくかわしているようだ。なにより、彼女の美貌と華やかさに敵う女生徒はそうはおらず、誰も文句を言えない状態が既に作り出されつつある。

「長太郎ー、この後あいてるか? 自主練の相手、頼みてぇんだけど」
「はい、宍戸さん、もちろん」

 懐かしい光景に新しい風が加わって、こうしてまた新しい日常が始まり続いていく。

 ――人は、「忘れる」生き物だ。だから生きていけるのだ。

 そう、誰かが言っていた気がする。
 事実、と最後に話をした時の――あの卒業式での絶望に似た苦しみは、既にもう過去のこととなってしまっている。
 だが、それは単に苦しさを風化させただけで、への気持までは風化させてはくれず、残ったのは彼女への想いだけ。
 ただ――あの苦しみを繰り返すのは、ごめんだ、と鳳は高校生活にも慣れたある日の放課後、空を見上げて声をあげずに叫んでいた。飛行機雲を目に宿して、強く拳を握った。
 告げることさえ叶わなかった、彼女への想い。告げることの許されなかった、あの頃の状況。もしも「次」があれば、今度は自信を持ってちゃんと告げたい。例え、その相手がでなくても――と過ぎらせて鳳はきつく眉を寄せた。
 今はただ、前を向いて歩くのみだ。いま、やるべき事を精一杯やって、自分はこれだけ頑張ってきたのだと胸を張れなければきっと次もダメに違いない。
 頑張っていれば――、神様が奇跡を起こしてくれるんじゃないか。なんて甘い期待をしているわけではないが――でも。

 ――この飛行機雲の先には、彼女がいるんだ。

 同じ空の下、きっと彼女も頑張っている。
 今はただ、それだけを頼りに頑張るのみだ。
 よし、と一度拳を握りしめると鳳は空を切るようにしてその場を掛けだし、緩い癖毛の髪をふわりと風に遊ばせた。



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