幸村は愛用のヘアバンドをいつものように額にあて、緩く波打つ自身の髪を押さえた。
 そして、決意したように光差す歓声の沸き起こる方へと向かいながら思う。
 いま、自分は幼い頃より望み続けた舞台に立っている。一度は行き止まりに行き当たってしまった夢。その壁を壊し、今へと繋いだのは遠いあの日の決断だ。白い巨塔の中で一人、固めた決意。
 光の方向へと踏みしめて歩く幸村の脳裏を、追憶のあの日が照らしつけた――。


「うぃっス! 幸村部長」
「具合はどうだ? 精市」

 病室にノックが響いたあと、挨拶とともに二人の少年がドアの先から顔を出した。
 一人はキツい天然パーマの黒髪を遊ばせて調子のいい声を唇に乗せ、もう一人は年相応とは言い難い落ち着いた容貌で柔和な声を響かせた。
 迎える幸村はいつものように穏やかな笑みを浮かべる。
「赤也、それに柳も。どうしたんだい?」
 姿を現したのは後輩の切原赤也と同級生の柳蓮二だ。共に立海大附属中のテニス部であり、レギュラーでもある。
「どうしたもこうしたも、お見舞いっスよ」
「それと直に結果報告だ。県大会優勝のな」
 言われて幸村は、ふふ、と笑った。
「ああ、すまない。しかし練習は良いのかい?」
「都大会開け直後だからな。今日の練習は午前のみにしようと弦一郎と話し合い、決めた」
 そうか、と日曜だというのに制服で現れた二人に納得しつつ幸村は瞳を閉じた。
 ――原因不明の病に倒れたのが先の冬。
 容態は一向に回復の兆しを見せず、季節は既に夏へ向かおうとしている。にも関わらず病院の窓から外を眺めているしか出来ない幸村は、歯がゆい気持ちをどうにか抑え込んで自身のまとめるテニス部を副部長である真田弦一郎に預けている状態だ。
 常勝立海。王者立海。その名に恥じずに県大会優勝を決めた皆の活躍は心強いが、その舞台に自分が立っていないと思うと、やはりもどかしさはどうしようもなく飛来してしまう。
 しかしながら、時折こうして学校から遠いにも関わらず病院に顔を出してくれる部員に励まされていることも事実で、幸村は柳の抱えていた県大会優勝の賞状を見やった。
「城成湘南にストレート勝ちしたのは当然として、赤也」
「はい……?」
「あの若人に随分と苦戦したようだね?」
 報告は受けてるよ、と切原に向かって言えば、ゲ、と切原は表情を崩し、直後に青ざめてぶんぶん首を振るっていた。
 城成湘南とは今年の神奈川の準優勝校であり、若人は決勝のシングルス3で切原と対戦した選手だ。
 プリテンダー戦法と呼ばれる、まるで本人さながらにトッププロの技術を写し取った変幻自在のプレイスタイルが特徴で、対処が厄介なことで知られている。
「だって部長、いきなりアガシとかサンプラスが出てくるんスよ?」
 ちょっと混乱してしまった、と言い訳がましい切原に幸村の口から出てきたのは溜息だ。
「アガシはアガシ、サンプラスはサンプラス。そして若人は若人だ。それ以外の何者でもないよ」
 すると柳が横から口を挟んだ。
「若人は中学に入って頭角を現した選手だからな。俺の取ったデータもあまり充実しておらず申し訳ない」
「関東大会でまた彼らとあたることはまずないと思うけど、次は6−0で勝つつもりでやってもらうよ赤也。それから、関東には六角の天根がいるよね? 赤也と同じ二年という点で関東で最も怖いのは彼だろう。赤也も立海を担う一員として――」
 部長故の厳しさか、その場で指導できなかった反動か。
 それとなく助け船を出した柳のフォローなど鮮やかにスルーしてダメ出しを続ける幸村からまるで逃げるように、切原は病室内に視線を巡らせた。
 そして幸村の座るベッドの上に彼の瞳は吸い寄せられるように止まった。そこに置いてあったのは額縁に丁寧に収めてある一枚のモノクロームの花の絵。普段は病室の壁に飾ってある絵でもあった。
「あのー、部長」
 淡々と立て板に水を流すごとく続く幸村の声を遮って、切原は幸村に声をかけた。当然、幸村はピクリと眉を動かす。柳も微かに驚いたに違いない。普段は閉じられている瞼が軽く持ち上がった。
「前から気になってたんスけど、何スかそれ?」
 いつもの幸村なら「人の話は最後まで聞くものだよ」と静かながらも圧倒的な迫力で言い放っていた場面であるが、切原のふった話題は幸村の興味を引くことに成功し、幸村は一端口を噤んで、ああ、と自分の隣に置いていた額縁に手をやった。
「この絵のことかい?」
「絵……つーか、鉛筆描きっスよね? 部長が描いたんスか?」
 切原が顎に手をやり、額縁の中の絵を覗き込むようにすると幸村は「まさか」と笑った。
「こんなに上手かったら、俺はテニス選手ではなく画家を志したかもな」
 冗談めかして額縁を丁寧に幸村が撫で、ふむ、と柳も唸る。
「カサブランカだな。凛としていて美しい」
「ふふ、なかなか見る目あるね、柳」
 さっきまでの厳しさは一転、穏やかな雰囲気に戻った幸村が上機嫌で微笑み、切原は上手く話題がそれてくれたことにホッとしたのだろう。ふぅ、と息を吐いてから改めて絵を見つめた。あまり絵画などに興味のない切原からすれば、絵自体の技術的な巧さは何となく理解できたが、鉛筆描きの絵をわざわざ丁寧に額縁に入れている幸村の意図は理解しがたいものだったのか、ムム、と考え込む仕草を見せた。
「なんつーか、美術の時間に画用紙に描いたみたいな感じっスよね。まさか、それで実はメチャクチャ高い絵だったりするんスか?」
 幸村は、ふ、と穏やかに浮かべていた笑みを消すとほんの少し目を伏せた。その先に映る、カサブランカのスケッチ画。――二年ほど前の大切な思い出。脳裏にその時の光景を浮かべつつ、ふふ、と幸村は試すような自慢するような笑みを漏らす。
「ちょっとね、ある女の子からもらったんだ」
 幸村の感情の流れを読みとったのか、ほう、と柳は喉を鳴らし、切原は幸村の言った台詞があまりに意外だったのか、まるでオモチャを手にした子供のようにヘヘッ、と悪戯っぽく笑った。
「なんスか部長〜、水くさいっスよ! 彼女がいたんなら黙ってないで教えてくれりゃいいのに」
「残念ながら、彼女じゃないんだ」
「またまたー。ファンからの贈り物ってわけでもないんでしょ〜?」
 切原に肘で突かれても怒らないのは本来の穏やかな性格故か。相変わらず柔和な笑みを浮かべたまま、幸村はしみじみと言った。
「ファン、か……。どちらかというと逆だね」
 そこでピンと来たらしき柳が口を挟む。
「成る程な……。分かったぞ精市、お前が読んでいる美術雑誌によく出てくる子だな。確か……今は氷帝の三年だったはずだ」
 幸村は伏せていた瞳を微かに見開いて目線をあげ、柳を見やった。
「さすが……。よく知ってるね」
 柳はというと背負っていたカバンからノートを取りだし、パラパラと捲ってどことなく楽しそうに薄く笑っている。
「立海大附属の部長のデータ。これ以上に興味をそそられるものはないからな」
 話が見えないだろ切原は、困惑気味に幸村と柳の顔を忙しなく交互に見て首を捻る。
「ど、どういうことっスか? 幸村部長、あのおかしな部長のいる氷帝なんかの生徒と付き合ってたんスか?」
 すると、ピク、と自身の膝に置いていた幸村の手が撓った。
「確かに跡部はちょっとおかしいけど、それは偏見だね赤也」
 穏やかな幸村の口調に凄みが増したのは、彼女の通う氷帝そのものを色物扱いされたからだ。
「跡部がおかしいというのは否定しないのだな」
「キミは否定するのかい?」
「……む……」
 口を挟んだがためにとばっちりを受けた柳は返事に窮したように押し黙り、切原はハハハ、と頬を引きつらせて頭を掻いた。
「あの……俺、話が見えないんスけど、柳先輩」
 そして助けを求めるように柳へと視線を送る。すると、ああ、と柳は気を取り直したように広げていた自身のノートに視線を落とした。
 そこに書かれていたのは絵画鑑賞を好む幸村が贔屓にしている同い年の女の子がいるらしい、ということ。そしてその子は今は氷帝学園へ通っている、ということだった。
 それをサッと切原に伝え、柳は首を捻る。
「しかし、俺のデータには精市と彼女に面識があったとは記されていないな」
「だろうね」
 ふふ、と幸村は笑みを零した。
「偶然ね、会ったんだ。二年前に東京の小さな美術館で。この絵はその時に彼女に貰ったものなんだよ」
 一連の話を聞いた切原が、へぇ、とまたも悪戯っぽい声を出す。
「要するに部長の片思いってやつっスか! 氷帝の三年ねぇ、どんな人だったんスか?」
 すると幸村は「片思い」の部分はサラっと受け流し、そうだね、と呟いた。
「写真で見てたから顔は知ってたんだけど、実際に会ってみると凄く話しやすくて感じのいい、可愛い子だったよ。でも、自分の取った最優秀賞の絵を見つめる瞳は厳しくてね……俺と似てるな、なんて勝手な親近感を覚えたものだ」
 そして幸村はその時の光景を思い出しながら、傍目には分からない程度に瞳に後悔の色を浮かべた。彼女に自分の名を告げられず、悔いた思いも蘇らせたからだ。
 柳はというと、ノートにペンを走らせながら、ふむ、と唸っていた。
「つまりその額縁に収められた絵は、彼女がその時に持っていたスケッチブックから精市が気に入った一枚を譲り受けた……という確率80%。といった所だな」
「さすがは我が立海の参謀だ、正解だよ」
 穏やかに幸村が微笑み、切原は幸村の隣の額縁を再度マジマジと見つめて、成る程ねぇ、と呟いた。
「要するに……だ」
 そして彼は今度はこう言い放った。
「つまり、将来その人が出世してすんごい画家とかになっちゃったら、部長のその絵メチャクチャ値打ち出たりするってことっスよね?」
 瞬間、ペンを走らせる柳の手が予想外の発言に硬直したことは見間違いではないだろう。
 切原の台詞を受けた幸村の口から漏れてきたのは叱咤でも怒声でもなく、先程よりも乾いた笑みだった。
「そうだね、恐らくこの絵が将来凄く値打ちものになるのは確定だろうね。でも……赤也」
「ハイ?」
「俺は例えこの絵に耳を疑うほどの高額な値が付けられたって、絶対に手放さないよ」
 口元には笑みを湛え、瞳ではしっかりと切原を見据えた幸村の迫力に切原が口を噤まざるを得なかったのは言うまでもない。
「ま、まあしかし、だ。良い絵であることは間違いないな。孤高のオリエンタル・リリー――王者立海の部長に相応しい」
 柳の声にハッとした切原が慌てて取り繕う。
「そ、そうそう! そうっスよね! 俺も部長にピッタリだと思ってました!」
 そう切り返した切原に、相変わらず調子がいい、と普段の自分なら強く思っただろうと幸村は感じた。そして「柳に感謝するんだね、赤也」くらいの釘差しはしているところだが、例えただの言い逃れだとしても「自分にピッタリ」と言われたことは嬉しく、幸村は微笑んで柔らかな視線を再び額縁の中の絵に向けた。
 そんな幸村の様子に、柳も切原も彼が本当にその絵を大事にしていることを悟っただろう。
 氷帝の女生徒にもらった絵――、というのが切原にどのような印象を与えたかは分からない。が、彼は優しげに絵を見つめる幸村を見据え、しばし考え込んでから再びニマッと笑って幸村を肘で小突いた。
「やーっぱ部長……」
「ん?」
「好きなんでしょ? その人のこと」
 幸村はその切原の行為には少しも憤りを見せず、今日で一番幸村らしい、穏やかな笑みを浮かべて言った。
「ヒミツ」
 そして一頻り雑談も終わり、帰っていった二人の背を見送ってから幸村はふっと息を吐いた。
 シンと静まりかえった病室の中で、そっと自分の手を、まるでちゃんと動くことを確かめるかのごとく握りしめてから、ゆっくり額縁の中の絵を見つめる。
 カサブランカ――オリエンタル・リリー。日本産のユリが異国に渡り、これほど素晴らしい花となって今に有り続けるその生命力の美しさ。気高さ。描かれた絵はそんな威厳ある高潔さに溢れ、今も幸村の心を捉えて離さない。
 しかし、唯一昔と違うのは、この絵を見つめる自分の身体が健康を損なったという点だ。
 こうありたい、と強く同調した二年前のあの日の思いは、こうありたい、と渇望する気持ちへと今は変化している。同時に不安さえ芽生えた。ひょっとしたら自分はもう二度と外の世界に出られず、ラケットを握ることさえ出来ないまま、この白い巨塔で朽ち果ててしまうのではないか、と。
 白い巨塔――この外界から隔離された、病院のベッドの上で――。
 そう考えてしまうたびに幸村はこの白い花を見つめ、自身を奮い立たせた。
 もう一度テニスがしたい。テニスは――自分の全てだ。自分からテニスを取ったら何も残らないではないか――。皆と誓った全国三連覇という目標も果たせていない。何より、自分のテニス人生はまだ始まったばかりだったというのに。
 だが――恐ろしい。
 この手も、この身体も、鉛のように重く鉄のように動かなくなってしまうかもしれないという恐怖が常に脳裏に張り付いて離れない。
 仮に病が完治し復帰できたとしても、何ヶ月というブランクを抱えた自分は恐らく以前のようにはプレイできない。今、この瞬間も感じている筋力の衰え。以前の自分を取り戻すまでには気の遠くなるような時間とリハビリを有するだろう。
 そんな錯綜する思いを抱えたまま、もう何ヶ月もこの白い巨塔で孤独な夜を過ごしてきた――。過ぎ去った思い出だけがやけに輝いて脳裏に浮かび、いよいよ耐えられないのではないかと思ったことも一度や二度ではない。
 しかしながら、中体連が幕をあげ、公式戦で活躍する仲間達の報告を受けるたびに思い知らされることがある。
 胸に飛来する熱い思い。
 自分もあのテニスコートに再び立ちたい、という願い。
 戸惑うほどに激しく胸中を巡る情熱の渦に、既に自分を誤魔化せない程に飲み込まれつつあることもまた幸村は感じていた。
「関東、か……。青学の手塚……それに良いルーキーが入ったって噂だったな」
 今日も柳や切原が見せてくれた県大会優勝の賞状を見て、頼もしく思うと同時に心底羨んだ。皆と同じ瞬間を味わえなかったこの辛さは、恐らく誰にも分からないだろう。
「俺は……幸村精市」
 ふと、幸村は額縁を握りしめて自分の名を呟いた。
「立海大附属の、幸村精市だ」
 二年前のあの日、少女に告げられなかった自分の名――、彼女に貰ったこの絵は"二度と後悔はしない"という自戒も幸村に告げ続けてくれている。
 そう、後悔はしたくない。
 全国三連覇――、皆と一緒に達成したい。

 強くなりたい――、と幸村は自身の中の恐怖に打ち勝つように強い目をした。

 瞳に映るカサブランカのように、強く、誇り高く、威厳に満ちた幸村精市でありたい。

 その為には決断しなければならないのだ、と幸村は一度深呼吸をした。
 決して成功率は高くはないと医者に告げられた、それ。

「俺は必ず勝ってみせる。――手術を、受けるよ」

 そうして誰に告げるともなく、強い決意を持って孤独な病室で一人、宣言した――。


「セイイチ・ユキムラ――フロム・ジャパン!」

 脳裏に流れる追想を終え、歓声に沸く光差すコートへ幸村は静かに歩いていった。
 遠いあの日の決断は、こうして自分に再び光を与えてくれた。
 いや、以前よりも確かに強い光だ。
 あの白い巨塔での日々は、より強く、より大きく自分を作り替えてくれた。いつどうなるか分からない自分の人生を悔いなく生きていこうという誰にも負けない強さを手に入れた。

 そして今、遠い異国の地でこうしてテニスコートに立っている。

 まるで異邦へと渡り、姿を変えて凛然と咲き誇ったカサブランカのように――高潔に、美しく。

 それはこれからも続いていく道のり――。
 今はまだようやくスタートラインを出たばかりだ、と熱気を肌で感じながら幸村は昂ぶる心のままにラケットを握りしめた。



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