『春になったら……私の絵を見てくれる?』


 卒業式の日、彼女と別れたあの日。彼女が言った言葉。
 一番いい場所に飾ってあるはずだから。と言い残した彼女の言葉を、彼女の希望通りに確認するために、鳳はもう何度も時間を見つけては上野の美術館に足を運んでいた。
 既に桜は散り――瑞々しい新緑が枝から顔を覗かせて、季節の移ろいを見るものに告げている。
 そんな四月下旬の日曜の心地よい午前中。鳳は既に今月に入って片手で足りないほどに通い詰めた場所へと足を運んだ。
 ――少しでも、彼女を感じられる場所にいたい。
 などと思うのは未練がましいのだろうか? けれども、彼女が残してくれた絵を見て、自分も少しは前へ進めたと思っている。自惚れかも知れないが、きっと彼女の想いも自分と一緒だったと信じていたい。いや――信じている。
 そうして、いつかまた出会えたら――その時こそは。と考えながら美術館を歩いていくと、ふと彼女の絵の前に佇む人影が映り、ハッと鳳は足を止めた。
 自分よりは背も低いが、すらりとしていて、どこか儚げで――でも凛とした、引き締まった雰囲気の少年だ。あ、と気づいて鳳は思わず声をあげた。

「幸村さん……?」

 鳳がそう呼びかけると、幸村、と呼ばれた少年は一度瞬きをして鳳の方を振り返り、しばし逡巡するようなそぶりを見せた。
「あれ……、キミは……。あ、氷帝の鳳君……かい?」
「あ、はい。そうです、鳳長太郎です」
 鳳はやや緊張気味に姿勢を正した。幸村――幸村精市。神奈川の立海大附属中学テニス部部長を務めていた少年である。
 全国優勝の常連である立海において彼は一年の頃からレギュラー入りし、当時一年であったにも関わらずに団体メンバーの中心として立海を二年続けて全国優勝へと導いた男でもあり――ライバル、というにはいささか恐れ多いほど関東の、いや全国のテニス選手の中であまりに有名な存在だった。
 しかしながら幸村本人は輝かしい戦績とは裏腹にどちらかというと弱々しい、儚げな印象で、あの外見からどうしたらあれだけのプレイが出来るのかと不思議に思ったことも一度や二度ではない。
「偶然、ですね……。こんなところでお会いするなんて」
 憧れ。――というわけではないが、やはり、鳳にとっては「立海の幸村」に対して抱く感情は尊敬以外のなにものでもなく。彼が自分を知っていてくれたことに嬉しさを覚えて少しだけ逸り気味に声をかけると、こちらに目線を流した幸村が、ふ、と微笑んで鳳は少しだけ目を見張った。
 穏やかな物腰と、緩い天然パーマの髪がどことなくを思い出させて、そんな自分に動揺してしまう。
 重症だな、と内心自嘲していると意外なことに幸村はこんなことを聞いてきた。
「もしかして、キミも、彼女……この作者のこと好きなのかな?」
 あまりに唐突で、直球過ぎる台詞だ。不意打ちをくらったように鳳としては目を丸めるしかない。
「え……!?」
「だって、彼女は氷帝の先輩だろう? それにこの絵――”Human Touch”ってキミたち氷帝テニス部をモチーフにしたものだよね。驚いたよ、まさか風景画や静物画専門だった彼女が、こんなに人物画も上手いなんてね」
 さも当然のように幸村は語り、鳳としては返事に窮してしまった。おそらく幸村の「好き」に他意はなく「画家として」などそういう意味合いのものであることは聞き取れる。
 けれども、でも。
「あ、あの……幸村さん。あなたは先輩とお知り合いなんですか?」
 そうだ。なぜ、幸村が自分をの後輩だとさも当然のように知っているのだろう? からは一度だって立海の部長と知り合いなどという話は聞いたことがない。
 にわかに焦りを覚えて考えるより先に言葉を発すると、幸村は少しばかり驚いたような表情を見せたあとに、ああ、と小さく口元を緩めた。
「俺は小さい頃から絵が好きでね。彼女はコンクール入選の常連だから昔から知ってるんだ。と言っても、一方的に……そうだな、ファンみたいなものだよ」
 穏やかな口調で語られ、鳳の焦りは一変する。なんだ、と納得したからだ。
 なぜならば、自分だって彼と似たような経緯でのことを出会う以前から知っていたわけで――。
 しかし、鳳が納得した直後に彼は「だけど」と言葉を続けて話を一転させた。
「数年前、偶然ある美術館で彼女に会う機会があってね――」
 それはまさに、鳳にとっては予想だにしない台詞だった。
 当の幸村は、まるで昔を懐かしむように遠い目をして記憶の糸を手繰り寄せるように語り始めた。

 あれは中学に入学したばかりの頃――東京で開かれた小さな展覧会へ赴くために上京した時の事だった、と語る幸村の横顔から鳳は目をそらせない。
 そうして幸村はさらに追想するようにして、スッと優美に目を細めた。
 ――その日に幸村が足を運んだ展覧会では有名な画家に混じってアマチュアの絵画も飾られており、その一つ一つをじっくりと鑑賞しつつ豊かな気持ちで目当ての絵の場所へと彼は足を向けたという。
 すると目的地には先客が居て、その先客は幸村自身がいままさに求めていた絵をじっと見据えていたらしく、彼は自然に足を止めた。
 自分と同い年くらいの――栗色の髪に緩いウェーブがかった髪が印象的な、柔らかな雰囲気の少女だった。と、幸村は語った。
「あ……」
 思わず幸村が声を漏らせば、気づいた少女が振り返り、幸村は自身の昂揚を抑えきれずに彼女に向かって声をかけた。
「キミ、さんだろう? 最優秀賞受賞、おめでとう」
 少女――は幸村の突然の声がけにキョトンとして固まってしまい、あ、と幸村はばつの悪そうな顔を浮かべて自嘲しながら頭をさげた。
「驚かせてごめん。キミってよく美術雑誌に作品と一緒に名前が載ってるし、時々写真も出てたから覚えてたんだ」
「あ……そう、なんだ」
「会えて嬉しいよ、俺、キミの絵のファンなんだ。今日もキミの絵が見たくてここに来たんだよ」
 彼が柔らかく微笑んで言えば、その説明に納得したのかは強ばらせていた表情を徐々に緩め、ありがとう、と笑みをこぼした。
 その笑みはまるで心地よい空気を放つような穏やかさに満ちていて、幸村も自然と柔らかい笑みを唇に乗せた。そして幸村は、まるで今まで彼女に話したかったことを告げるかのようにごく自然と語りかけていた。
「キミの描く花や木々の絵って優しい生命力が宿ってる気がして良いよね。俺、植物ってすごく好きなんだ」
「あ、私も好き。父が自然科学の研究してて良く研究ついでに色んな場所へ連れてってもらってお絵かきしてたから……風景画は私の原点、かな」
「そうなんだ。キミの絵を見てると優しい気持ちになれる理由が分かった気がするよ」
 そんな会話を交わしつつ、ふと幸村が視線を落とせばの手に握られた大きなスケッチブックが目に留まり、何気なくそのままジッと見つめていると視線に気づいたらしきがはにかんだように笑った。
「これ、いつも持ち歩いてるの。いつでもスケッチできるように」
「へぇ、さすが……熱心なんだね。よかったら、見せてもらってもいいかな?」
「え、良いけど……スケッチだよ?」
 いま眼前に掲げてあるようなちゃんとした絵ではないから恥ずかしい、と含んだにニコリと笑みを返し、幸村はスケッチブックを受け取ってパラパラと開いてみた。
 途端、広がったモノクロの世界に、ゴクリ、と幸村は喉を鳴らした。
 多種多様な植物、雑貨、建物。溢れんばかりの才能が外に出たがっているというのはこのことを言うのだろうか――、原石の片鱗を垣間見た気がして、しばし無言で見入っていた幸村はとある絵が目に付いた。
 大輪の白い花――カサブランカだ。それも花束ではなく、一輪挿しの。
 花束にすればどの花よりも豪奢と言われるその花は、一輪だとより気高い純潔さが溢れるようで、幸村は吸い込まれるようにその絵に釘付けになっていた。
 孤高で強く――の得意とする優しい雰囲気の絵柄とは一線を画して克己的な厳しさが垣間見え、凛として美しい。
 ふと、幸村はこんな想いが過ぎった。と語った。
 ――全国常勝を掲げる立海大附属の中等部に入学し、早くもレギュラーを勝ち取った。それも当然でありごく自然なことだ。自分にはノービス時代にシングルスでの全国優勝の経験もあるのだから。だが、王者とは常に孤独なもの。その場に君臨し続けるということは、あらゆるプレッシャーをはね除け、誰よりも強くあり続けなければならないということに他ならないのだから。
 幸村は凛然と描かれたその一輪のカサブランカに自分の境遇を重ね、どんな時もどんな事があろうとも強くあろうと決意を新たにさせられる気さえして見入ってしまった。いや、魅入られた、という表現の方が正しかったのかもしれない。
「あの……」
 あまりに無言で見入っていたためか、が首を傾げる。あ、と幸村はいったん顔を上げて柔らかな眼差しを向けた。
「良い絵だね、スケッチなのがもったいないくらいだ」
 すればが、ありがとう、とはにかみ、幸村も笑みを返して再びスケッチに目線を落とした。そして、それからどれくらい時が経ったかは覚えていない。しかし、の穏やかな笑い声が聞こえて幸村はふと顔を上げた。
「その絵、あなたにあげる」
 するとがふわりと微笑みながら言って、え、と幸村の口からは間抜けな声が漏れた。
「そんなに気に入ってくれて私も嬉しいし。……あ、もし良かったら、だけど」
 少々遠慮がちに語尾を弱めたに、幸村はハッとして強く頷いた。
「キミが良いのなら、喜んで頂くよ」
 も笑って頷き、彼女はスケッチブックからその一枚を切り離して幸村に手渡した。幸村はというと歓喜で言葉を無くし、そうこうしているうちには用事でも思い出したのか時計を見つめて、あ、と声を漏らした。
「じゃあ私はこれで。私の絵、好きだって言ってくれてすっごく嬉しかった。ありがとう」
 去り際に笑みを残して背を向けたへ、幸村は「あ……」と引き留めるように小さい声を漏らした。
 しかし、の耳には届かなかったのだろう。やがての背は小さくなって幸村の視界から消えた。
 名前すら告げられなかった――。その僅かな後悔から、カサブランカの絵を持つ右手に力が籠もったことは数年経った今も忘れられない、と語る幸村の声を鳳はただ黙って聞いていた。

「緊張、してたのかな……彼女に会って。もう彼女は俺のことを忘れているかもしれないけど」
 穏やかながらも深い声が幸村の気持ちを切に伝えており、鳳はとっさに返す言葉すら叶わない。
 あの立海の幸村とにそんな繋がりがあったとは――。いや、しかし。がこのことを覚えていたとしても、それが眼前の幸村であることはもちろん知らないだろう。
 だけど、となお幸村は続けた。
「彼女に貰ったカサブランカの絵は今でも俺の宝物なんだ。ずっと……病院のベッドの上にいるときも、随分と慰められたものだよ」
 その一言にピクリと鳳の身体が撓る。
 幸村が中学二年の冬に倒れ、そのまま入院となって二度とテニスができないかもしれないという過去があったことはあまりに有名な話だ。
 奇跡的に三年の中体連全国大会から一線に復帰することが叶ったが、自分の命はもとより二度とテニスが出来なくなるかもしれない恐怖と戦うのがどれほどの苦痛だったか、鳳にも想像に難しくない。いや、実際は想像を超えているだろう。そんな幸村の支えにがなっていたのかと思うと、言い表しようのない畏怖の念が身体を駆けめぐる感覚が伝った。
「彼女は、いまどうしてるんだい?」
「え……!?」
「氷帝ってエスカレーター式だろう? そのまま氷帝の高等部に進んだのかな」
 幸村は、自分をただの「の後輩」だと思っているからこその質問だろう。いや実際、「ただの後輩」でしかないのだが。
 ふいに苦しい記憶が蘇って、鳳は幸村の穏やかな視線から目を背けるようにして拳を握りしめた。
「先輩は……その、いま、日本にいなくて……」
「え……」
「絵の勉強のために、今春からフランスに行かれて……進学もあちらで、なんです」
 そう、自分を置いて。などというおこがましい思いはどうにかグッと堪えて飲み込むと、幸村から驚いたような気配が伝った。そうして数秒後に、そうか、と納得したような声が漏れてきた。
「良い選択だね。彼女の才能は昔から外に出たがっていた……フランスならここよりもそれを活かす機会も多くなるだろうし。でも、日本で彼女の絵を見る機会がないと思うと、ちょっと寂しいな」
 鳳が視線を幸村に戻すと、彼は儚げに目を伏せており、そうしてどこか苦笑いめかせて僅かに肩を竦めた。
「それに残念だ。こうして美術館にいると、また彼女に会えるかもしれないって心のどこかで期待してたけど……それももう、叶わないんだな」
「幸村、さん……」
「一度話しただけだけど、とても仲良くなれそうな子だと感じたのに」
 幸村は静かに、本当に静かな口調に微かな落胆を滲ませており、ドクッ、と心音が嫌な音を立てて高鳴ったのを鳳自身痛いほどに自覚した。
 また彼女に会えるかもしれないと勝手に期待している。――自分と全く同じだ。
 なぜ気づかなかったのだろう? そんな風に考えているのは世界で自分一人だ、などと勝手に思いこんで勘違いをしてしまっていた。
 なお動揺していると、幸村はこちらの心情になど全く気づかないといった具合に、ああ、と思いついたように笑みを浮かべた。
「でも……、フランスにいるのなら、あっちで会える機会ってあるかもしれないな。変な話かもしれないけど、縁があるならきっと会えるって……そう考えてしまうんだよな」
 一人ごちるような幸村の言葉に、鳳はゴクッとリアルに生唾を飲んでいた。
 幸村は、自分と違い、いずれはプロのテニスプレイヤーに確実になるだろう選手だ。青学の手塚や越前と同様に、将来のトッププレイヤーの期待さえかかっている人材でもある。
 確かに彼なら、将来――全仏などでフランスを訪れる機会がないとは言えないだろう。その際、もしも彼がと再会してしまったら? 今、自分に語って聞かせたような言葉をに伝え、彼女が運命を感じてしまったとしたら。
「鳳君……?」
 ただでさえ、彼は雲の上の存在だというのに。――と不安ばかりを広げていると、よほどおかしな表情を晒していたのか幸村は瞬きをして案じるようにこちらを見上げていた。
 ハッとして鳳は、なんでもない、と取り繕ってみせる。
 すると幸村は、ふ、と笑って話題をテニスに変えこちらの近況を聞いてきた。
「キミは今年は氷帝の副部長、だったかな」
「あ……はい」
「サーブ記録も保持しているみたいだし、ウチの後輩達もキミの記録を破るのが一つの目標になっているよ。中体連であたった時は、ぜひ胸を貸してやってほしい」
「いえ……そんな。俺の方こそ、立海のみなさんと試合できるのを楽しみにしてます」
 話がテニスに切り替わって、若干鳳はホッとした。が、話題がテニスになれば、やはり彼は幾度も全国を制した雲の上の選手で。憧れ、という言葉はぬぐい去れない。けれども穏やかに話す彼は、やはりどことなくを思い出させて。テニスをしているときの厳しい彼の姿さえ、絵に向かうの厳しい姿が思い起こされて。憧れと畏怖と焦燥と。複雑な感情を入り乱れさせながら話していると、あ、と幸村は腕時計に目線を落として言った。
「そろそろ行かないと……。今日は午後から練習なんだ」
 そうして幸村は再び鳳の方へ顔を向ける。
「じゃあ、俺はこれで失礼するよ。キミともまたコートで会う日もあると思うけど……、その時はよろしく頼むよ」
「あ、はい。俺の方こそ、よろしくお願いします」
 鳳が頭をさげると、幸村は「じゃあね」と笑って鳳に背を向け、鳳はその背を見送ってホッと胸を撫で下ろしつつチラリとの絵に視線を投げた。
「……先輩……」
 この絵を見たとき……少しだけ自信を持てた気がした。自分との気持ちは、確かに通じ合っていたのだと。勝手にそう信じ込んだ。が自分に別れを告げるしか道がなかったのは、仕方のないことで、だってきっと自分のことを想ってくれていたはずだ。と、信じていた自信が、いま僅かばかり揺らいでしまった。
 もしも、もしも本当に幸村がフランスでに再会してしまったら?
 彼も、自分のように昔からの絵が好きで、彼自身も絵画が好きで――それに何より、自分自身が驚くほどに感じてしまった。幸村とは似ている、と。穏やかな物腰も、見え隠れする芯の強さも。その証拠か否か、自分は彼に明らかに憧れを抱いているし、明らかに、畏怖をも覚えてしまった。感覚的に悟ってしまったのだ。きっと彼女も幸村に自身と似た部分を感じ取り、惹かれてしまうだろう、と。ましてや、幸村の方は明確に彼女に好意を抱いているのだ。
 いや、きっと彼だけではない。これから先、に好意を向ける男なんて数え切れないほど出てくるに違いない。
 もしも彼女が、その中の一人を選んでしまったら……?
 不安が波のように押し寄せて、鳳は首を振るうといったん外に出ようと美術館の外へと出て、春のなま暖かい空気に身体をさらした。
 穏やかな風が頬を撫でて、少しばかりホッとする。視界には桜の木々が彩る緑が鮮やかに映って眩しいほどだ。
 その光景に笑みをこぼしたのちに、鳳は眉を寄せて自嘲した。
「ダメだなぁ……俺……」
 がフランスで頑張っているのだから、自分もここで頑張るのだと、そう決めたばかりだというのに。
 いや、その気持ちは少しも変わっていないが、でも――、と見上げた空に、ふと先ほどの幸村の姿が過ぎった。

『変な話かもしれないけど、縁があるならきっと会えるって……そう考えてしまうんだよな』

 運命というものがあるのなら――。
 その糸で繋がっているのが、幸村ではなくて自分だったらいいのに――。

 けれど。仮にその運命の相手が幸村でも。
 自分はきっと抗ってしまうのだろうな。と、鳳は目の端で新緑を捉えながら美術館に背を向けて歩き始めた。

 いま自分にできることは、全力ですべき事をやることのみだ。
 きっと、いずれ、本当に運命というものが存在するとしたら。自ずと答えは出るのだから。
 今はただ、その時に備えていればいい。――と思い直して気持ちを切り替え、鳳は一人決意を内に秘めて穏やかな陽気の中を歩いていった。



 TOP