一部の優等生を除き、全校生徒にとっての恐怖イベント・期末考査も無事に終わった七月の二週目。

 ダブルス1争奪戦にも無事に勝利した鳳と宍戸は、いつも通りの、だが週末に控えた関東大会のためにも居残り練習に精を出していた。
 この時期は日没のもっとも遅い期間でもあるため、ある程度遅くなっても西の空はうっすらとまだ明るい。が、それでも陽が落ちて30分も過ぎればテニスボールを追い続けるのは難しくなってくる。それでも氷帝自慢のナイター設備による恩恵を十二分に与って練習を続け、日の入り後から小一時間ほどで切り上げるのが常だ。そうして帰り支度を整えて帰宅し、各自自宅で夕食を取ったのちにそれぞれ自主練習、もしくは落ち合って更に練習を続けるというのも常となっていた。
 ともかく学校での練習はいったん切り上げようということで、二人は煌々とテニスコートを照らし付けていた照明を落としてから部室に戻って涼を取りつつ制服に着替え、いそいそと校門を抜けた。
「あー、腹減ったなー」
 そんなことを呟きながら伸びをする宍戸を横に、鳳はふと、本当に何気なく通学路の公園へ視線を流した。そして、あ、と小さく目を見開く。――本当に我ながら、何故こうも見つけるのが上手いのだろう、と感じつつ無意識に足を止めれば、宍戸も足を止めたのか「どうした?」と鳳の視線の先を見やった。
「あ……」
 宍戸も小さく呟き、ついで呆れたような声を漏らしている。
「なにやってんだ、アイツ……」
 こんな時間に、と宍戸が続ける前に鳳は目線の先の人物の方へと足を向けていた。
先輩……!!」
 そして逸り気味に声をかけると、ベンチに腰を下ろして熱心にスケッチブックへと目線を落としていた彼女――はこちらを向いて驚いたように瞬きをした。
「鳳くん……。宍戸くん……?」
 宍戸は鳳の後を追ってきたのだろう。はひょいと鳳の後ろへも視線を向けて、そっとベンチから腰をあげた。
「いま、練習帰り?」
「まぁな」
「相変わらず……、遅くまで頑張ってるんだね」
「先輩は……? なにしてたんですか? 一人で」
 ふ、と宍戸と鳳、どちらともなく笑みを向けたに対して鳳が少しだけ身を乗り出すと、は数回瞬きをしてから、ああ、と頷いてスッと視線を東の空へと仰がせた。
「星を見てたの。よく晴れてるし、今日は月が下弦だから……、綺麗に見えるなぁって思って」
 つられるように鳳と宍戸も空を見上げた。成る程、天文薄明といった具合で、まだ夜の帳は完全に降りてはいないが、月明かりに邪魔されることなく星はいつもより綺麗に見えている。それに――、と鳳はハッとして思わず声を弾ませた。
「そうか、今日って七夕ですよね! だから星、見てたんですね!」
 その言葉に、も、宍戸も、一瞬確かに固まった。
「――え?」
「――は?」
 こうなると鳳としても焦るしかない。
「え……?」
 ち、違うんですか? と僅かに狼狽した鳳には慌てて手を振るう。
「あ、そ、そうだね! 今日って七日だもんね。そっか……」
「んなモンいちいち覚えてられっかよ。女じゃあるまいし」
 宍戸にその辺りのことは全く期待していないが、もどうやら違うようだ。ではなぜ今日に限って夜空を? と鳳が疑問を寄せるとは「んー」と唸りつつ自身の指でフレームを作って枠を東の空へと向けた。
「夏の大三角形を見てたの。……あ、でも、織り姫のベガも彦星のアルタイルもその中に入ってるね」
 鳳が屈んでの手のフレーム越しに空を見上げると、まだ薄明かりの残る西の空が遮断され、完全に「夜」の顔を見せる東の空がまるで切り取られた絵画のように映った。その額縁の中に、確かにうっすら天の川を背景に理科の時間に習った覚えのある「夏の大三角形」を形成する一等星の星々が見えて、わぁ、と感嘆の息を漏らす。
「今夜は無事に織り姫と彦星は会えそうですね! 晴れて良かったなぁ」
 ブッ、とそばで宍戸が噴き出す気配がして――はキョトンとしており、鳳は再び焦りつつ何かおかしなことを口走ってしまったかと問えばはううんと首を振るった。
「そうだね、晴れて良かったね」
 微笑んだに、決して他意はなかったに違いない。けれども穿った見方かもしれないが、そのの物言いがどうも子供を諭すような言い方に聞こえ――鳳はなお問いただそうとしたが、こんなやりとりを見ていた宍戸が耐えられなかったのだろう。小さく「激ダサ」と呟きつつ、クイッと顎で先へと促すような仕草を見せた。
「つか、こんなところで油売ってねぇで、とっとと帰んぞ」
「あ……」
「お前も、いつまでもボケッと星なんか見てんじゃねぇよ」
 暗ににも帰るよう宍戸は促したのだろう、が、は数秒逡巡し、口元に手をあててから緩く首を振るった。
「私、もう少しここにいるから……。先に帰って」
 そして、じゃあね、と手を振って再びベンチに腰を下ろしたものだから宍戸は少し目を丸めたが、すぐにキャッチャー被りにしていた帽子を被り直して「そうかよ」と呟いた。
「じゃあな。――行くぞ、長太郎」
 宍戸は先へと促したが、鳳は足を踏み出せずにいた。こんな夜に彼女を一人残して去るのは忍びない、という思いもあったが、それに――。
「長太郎……?」
 着いてこない鳳を不審に思ったのだろう。眉を寄せて振り返った宍戸に向かって、鳳は肩にかけていたテニスバッグを背負い直しつつ少し緊張気味の面もちを向けた。
「すみません、宍戸さん。俺も残ります」
「――は?」
「――え?」
 宍戸が間の抜けた声を漏らし、も驚いたのだろう。解せない、という表情をした彼女を振り返って鳳はなお緊張気味に喉を鳴らした。
「少し……ご一緒しても構いませんか?」
「え……、うん。……でも……」
 は宍戸へ気遣うような視線を向け――鳳は彼女が頷いたことに安堵しつつ再び宍戸へと視線を戻すと、宍戸は呆れたような諦めたような溜め息を吐いていた。
「そうかよ。……メシの後の自主練、遅れんじゃねぇぞ」
「はい! お疲れさまです」
 後ろでで手を振った宍戸に丁寧に頭を下げると、鳳はもう一度の方を振り返ってからテニスバッグを降ろし、彼女の隣へと腰を下ろした。すると、あっという間に辺りは二人きりの空間に様変わりを遂げ、少しの間、沈黙が流れる。別に二人きりで過ごすのに慣れないわけではないが、でも――。
「宍戸さんもいたほうが良かったですか……?」
 少しの間を置いてそんなことを切り出してみれば、は困ったように少しだけ俯いていた。
「そんなこと、ないけど……」
「すみません、答えにくいことを訊いちゃいましたね。俺……、少し、ゆっくりお話がしたかったんです。二人で」
「うん……」
 それは紛れもない鳳の本音だった。なぜなら、普段はと会える時間と言えば昼休みくらいのものなのだから。――いつも一緒にいられる宍戸と違って、と瞬時に芽生えた感情をどうにか抑えて、ふ、と鳳はに笑みを向けた。するとも合わせるように緩く微笑んでくれ、鳳は笑みを深くする。
「先輩は星を見ながら絵を描いてたんですか?」
「え……?」
 鳳がの膝に乗せてあったスケッチブックに視線を落とすと、は少しばかり苦笑いを浮かべながらペラペラとページを捲った。
「スケッチ、しようとは思ってたんだけど……」
 するとそこには夜空のラフ画と思しきものと、端々に無数の数字が羅列してあって鳳は目を見張る。
「数学の問題、ですか……?」
「え、えっとね……。夏の大三角形を見てて、ね……」
「はい」
「こと座のベガとわし座のアルタイル、はくちょう座のデネブ。どれが一番明るく見える?」
「え……?」
 問われて、鳳は天を仰いだ。東の空に大きく輝く二等辺三角形は、鳳の目には"織り姫"にあたること座のベガがひときわ大きく輝いて見え――そう答えるとも「そうだよね」と小さく笑った。
「でも、本当はデネブが比較にならないくらい大きくて、明るいのに……私たちの目にはそうは見えないから……、本当に気の遠くなるくらい遠い場所にあるんだろうなぁって思ってたら、スケッチする前にもっと距離感とか知りたくなっちゃって……」
 最後、は言葉を濁したが鳳はピンと来た。は感性のままに絵を描くタイプではなく、技術が突出しているタイプだ。最初は単に夜空をスケッチしていただけなのかもしれないが、次第に数学的もしくは物理的疑問が沸いてきて、星々の距離やらなんやらを計算して没頭した結果の数字の羅列なのだろう。
 相変わらずだな、と鳳は肩を竦めた。
「先輩らしいですね。俺なんか……、今日が七夕で、こんなに晴れてたら、織り姫と彦星が無事に会えて良かったな、って思っちゃいますけど」
「じゃあ、雨が降ったら残念?」
「そりゃ……。一年に一度しか会えないんですから、可哀想じゃないですか」
 そんな風に言うと、がくすりと小さく笑ったものだから鳳はハッとしてカッと頬を染める。
「こ、子供っぽいとか思いました……?」
「ううん。鳳くんらしいな、って思って。ロマンチックで素敵」
 その「自分らしい」とはどういう意味なのだ、と思うもに鳳を軽んじるような感情はないのだろう。いつも通り穏やかに笑ってくれた彼女を見て、鳳は少しばかりはにかんだ笑みを見せた。そうして少しの間見つめ合ってから、でも、とは再び焦点を絞るようにして東の空を見やる。
「一年に一度、って、寂しくないのかな……。元々は仲の良い夫婦で、毎日一緒だったのに」
 鳳も目線を上向けて、そうですね、と相づちを打った。
「でも、俺だったら……例え一年に一度しか会えなくても、やっぱり本当に好きな人と一緒でいたいと思います。寂しくても、それでお別れしようとは思わないだろうな……。だから、この日は晴れたらいいなって思うんです」
 もしもこの呟きを宍戸が聞いていたら「キザったらしいこと言ってんじゃねえ!」と一蹴されそうな台詞を言い下してから、鳳はハッとした。ちらりとを見やると、少しだけあっけに取られたような顔をさらしたあとに、ふ、と口元を緩めて笑みを漏らしている。
「そっか……」
 その笑顔がほんの少し、気づけないほどに寂しげなものも混じっていた気がするのは気のせいだろうか? 鳳がの顔を覗き込むような仕草を見せると、は僅かに肩を竦めて苦笑いのようなものを浮かべた。
「七夕のお話も素敵だけど……、私は星を見てると、ちょっとだけ感傷的になっちゃうかな……」
「感傷的……?」
 うん、と頷いてはわし座のアルタイルを指さす。
「いま見えてるアルタイルの光は、ちょうど私たちが生まれた頃の光で、ベガは私たちのお父さんお母さんが生まれた頃の光で……、デネブはもっともっと前の、ようやく日本が生まれた頃の光なんだなぁ、って思うと……あまりの大きさにどうしていいか分からなくなるの。いま、私たちが見ている先の、本物のアルタイルが放った光に会えるのだって……いまの倍を生きて、ようやくなんだもん」
 の声は少しだけ憂いを含んでいた。
 普段、意識して見ているわけではないが、自分たちが見ている夜空の光は気の遠くなるような年月をかけてようやく地球に届いた光であるのは周知の事実である。むろん鳳自身も普段は意識してはいないが、そう言われると……今こうして見えている光の先で、すでに消滅した星も存在するかもしれないわけで、その広大さに思わず飲み込まれてしまいそうになる程だ。
「今日のアルタイルの光が届く頃に自分が何をしてるか……なんて、想像できないよね。数年先のことだって分からないのに」
 の言うとおり、そんなことを考えてれば感傷的になってしまうのも分かるというものだ。首を傾げて自嘲したへ、鳳も笑みを向けつつ「そうですね」と呟く。
「でも、15年先のことは分からないけど……。数年後なら、なんとなく想像付きません?」
「え……?」
「数年後なら、俺はたぶんまだテニスやってるだろうし……。先輩はやっぱり絵を描いてるんじゃないかな。あ、先輩は15年後も描いてそうですけど」
 ね? と笑いかけるとも少しだけ頬を緩めた。星明かりのせいか、少しだけ瞳が潤んでいるように見え――鳳の胸は簡単に騒いでしまう。
 数年後、きっと自分はまだテニスをしていて、もいままでどおり絵を描いていて。きっとそれは変わらないけれど……、こうして、数年後も彼女は自分のそばにいるのだろうか? まして、15年後など――としばし思案していると、パタン、とが手にしていたスケッチブックを閉じる音がした。
「そろそろ帰ろっか」
「あ、はい」
 気づけば宍戸が去ってからけっこうな時間が経っていて、二人して立ち上がると駅へ向かって肩を並べて歩き始めた。
 公園を出ると、所々、庭先や生け垣に短冊を湛えた笹竹が飾ってあるのが見え、二人して微笑ましく眺める。可愛いね、などと言い合いつつは鳳を見上げながら薄く口元を緩めた。
「鳳くんだったら、短冊になんて書く? 関東大会優勝、とか……?」
「え……? いえ、関東優勝は自力で取りますから。別のことにします」
「そっか。……頑張ってね」
 そんな会話をしながら、もう一度鳳は天を仰いだ。
 15年後の今日を――もし、彼女と共にいられたら。そうしたら、「覚えてますか? 今日のアルタイルは、15年前の今日に二人で見上げていた時に生まれた光ですね」なんて会話もできるのに――と考えて無意識に切なげな目線をに送っていると、気づいたのかが首を傾げて鳳は慌てて普段通りの笑みを作った。
 我ながら何を考えているのだ、と思う。それこそ、数年後の未来だって分からないというのに――。
 けれど、こうして彼女が絵を描いていて、彼女と言葉を交わして、同じ空気を共有できる居心地のよさがずっと続けば――、数年後も変わらずこうしていられれば。きっと幸せなんだろうな、と考えつつ鳳は再びへと目線を移した。
 こうして肩を並べていても、2人の間には僅かな距離が存在している。この少しの距離を、2人の間にある僅かな距離を縮めたらどうなるのだろう? は、自分にとっては尊敬する先輩で、それだけのはずだったけれども。でも――。まだ、もう少しこうやって二人で並んでいたい。できれば、この距離がなくなればいいのに、と鳳は見えてきた駅を視界に入れつつグッと手を握った。
 今はテニス漬けの毎日だが、落ち着いたら――。そうだ。秋になったら、春に二人で桜のスケッチをした時のように紅葉を見に出かけたりしたい。今度は偶然ではなく。ちゃんと、二人で。
「あの、先輩!」
「え……?」
「た、大会が無事に終わったら俺と――――」
 二人でどこかへ出かけませんか。と思わず勢いのままに言ってみた鳳であったが――よほど間が悪かったのか轟音を巻き上げて過ぎ去った電車の音で儚くも声は掻き消されてしまい、はふわりと舞った髪の毛を押さえつつ「え?」と瞬きをした。
「ごめんなさい、聞こえなかった……。大会……? 関東のこと?」
 しかし勢いで口走った鳳に、そんな先のデートの誘いをもう一度するのは難しく。――鳳は顔を赤らめつつ、いえ、と言葉を濁した。
 そもそも自業自得だ。いまは関東のことを、宍戸とのダブルスで勝つことだけを考えるべきだというのに。きっとそうしろという天からの戒めだったのだろう。
 けれども天を仰げば、織り姫と彦星は年に一度の逢瀬を謳歌しているというのに――と鳳は自嘲した。
 15年経てば――、彼女へ向かうこの気持ちの答えが出ているのだろうか? それとも、青春時代の一つの思い出として終わった過去となっている?
「先輩、俺……」
「ん……?」
「頑張りますね、関東大会」
「うん……」
 けれども。もしも15年後の未来に彼女の隣にいるのが別の誰かだったとしたら――と考えると猛烈に焦りに似た衝動が込み上げてくるようで。例え儚い願いでも、今のアルタイルが放った光を二人で、そうしてベガの光さえも迎えられたいいのにな。と鳳はそっと天の川を仰いで、遠い星の瞬きを祈りを込めて見つめた。



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