Hostile feeling






「一度こっから跳んでみてーよなぁ」
特別教室棟屋上の、さらに給水塔の上に乗っかって向日は辺り一面を見渡した。
ブワッと気持ちのいい風が自慢のキレイに切りそろえた髪を乱していく。
「あーあ、背中に羽でも生えてりゃ飛べるのにさ」
高いところに立つとまるで世界の中心にいるような錯覚さえ覚える。
普段とは別世界が眼下に広がり、あまり高いとは言えない身長を気にしているわけでもないが向日はこうして風を受けてこの場に立つのが好きだった。
360度、視界を遮るものは何もなく今なら空さえ飛べるような気がする。
そんな高揚感を味わえるこの場所とも後数日でお別れだと思うと余計に愛着が沸いてきて、今この景色を瞳に焼き付けておこうと向日は噛みしめるように視線を巡らせた。

後先考えるよりも、今この瞬間を何より大事にしている向日にも色々と懐かしく思い出される事はある。
テニス部よりも体操部に、と言われた覚えもあるが必死にテニスを続けてきたこと。
その瞬間のみを大事にしすぎて、スタミナ不足で苦い敗北を味わい、人知れず体力向上を図るべく特訓した事。
過ぎ去った過去に未練はないが、当時のレギュラーのほぼ全員が呼ばれたジュニア選抜合宿に自分が漏れた時は、ショックから癇癪を起こしたこともあった。
そして……と、中学生活をぼんやりと思い返しながら向日はよっ、と掛け声をかけてその場に逆立ちしてみた。
逆さまの風景が瞳に映り、強い風が容赦なく身体を揺らしたが怖いとか落っこちるなどという考えは微塵も浮かばない。
今度は世界の中心で自分が世界を持ち上げてるような感覚に、ニッと無邪気さと勝ち誇ったような表情が入り交じったように軽く歯を見せる。

そんな時、ガチャ、と屋上のドアの開く音がした。

誰だ?と腕に力を入れてそのまま前方へと回転すると、トン、と足を着いたと同時に風に栗色の髪を靡かせる少女が向日の目に映った。
「あ……」
「向日くん」
無意識に向日の口から声が漏れ、給水塔の方を見上げた少女は一瞬意外そうに目を瞬かせてすぐにニコリと微笑んだ。
「この間はありがとう」
数回話した事があるかないかという部活仲間である宍戸亮のクラスメイト、
の言葉の意味は察したが、向日はどんな表情を向ければいいか一瞬迷って軽く頷くだけに留めた。
そんな向日に再び微笑んだ後、は手に持っていたカメラを構えてその辺りを吟味し始めた。
その行動の意図が読めず、向日はまるで飛び跳ねる前のカエルのような姿勢でしゃがみ込むとピョン、と端の方へ上履きを寄せ、カメラのレンズを目で追う。

「何やってんの?」

頭上から声が流れてきて、はカメラごと顔を向日の方へ動かした。
レンズ越しにふわふわとネクタイを揺らせる向日が映る。
「後数日で卒業だから、色んな所撮っておきたいと思って」
カメラを降ろし、直に向日を見つめた瞳がほんの少し感傷的に揺れた。
滅多に人が来ないこの場所は向日のお気に入りの一つで、向日自身ももうすぐ卒業だという気持ちを抱えてこの場に立っていた。
僅かに親近感が芽生え、ようやく向日が笑みを浮かべる。
「ね、そこ見晴らし良い?」
そんな向日をよそに、キョロキョロと辺りを見渡し人が誰もいないのを確認すると、は給水塔のハシゴに手をかけた。
「え? お、おい」
トントンとハシゴをのぼってくるに向日が後ずさる。
「わぁ……一度のぼってみたかったんだよね」
のぼった先にちょこんと腰掛けるとは激しい風に髪を踊らせた。
屋上からの風景より更に別世界が広がって、その全て遮るものが何もない空間にクス、と笑みを漏らす。
そしてまたカメラを構えるを向日はぼんやりと眺めていた。
不意にピピピと携帯電話がメールの受信を知らせ、ブレザーの内ポケットからそれを取り出しながら向日はあ、と思い出したように口を開けた。
「六角の連中ってもしかして全員ケータイ持ってねーの?」
ピッ、と携帯画面を確認しながら呟く。
カシャ、とシャッターを切った所でカメラを降ろしたが向日の方を向いた。
向日はというと先ほどの姿勢のままつんのめりになって携帯を弄っている為、ちょうど向日のつむじ辺りを目に捉えながら唇に手を当てる。
「全員じゃないと思うけど……木更津くんは持ってるし」
「でも黒羽だけが特別ってわけじゃねーんだ」
操作し終えたのか、ガバッと顔を上げた向日の瞳が物珍しげに揺れた。
周りは携帯電話を持っているのが当然のような考えのある向日としてはさも当たり前のように持っていないと言った黒羽には軽くカルチャーショックを覚えたものだ。
今更、自分が携帯を持っていないというのも友達が持っていない生活というのも考えられない。
「あ、天根くんも持ってないかな」
自分の質問に思考を巡らせていたの答えを受けて、ピク、と向日は眉を動かした。
「天根って……あの二年坊主か」
「え? うん」
パチンと音を鳴らして携帯を折り畳む。
「ハハッ、あいつケータイも持ってねーのかよ!」
一瞬だけ優越感に浸ってみるも、すぐ虚しさに襲われて向日はガクリと肩を落とした。

というのも以前、六角との合同練習の際に天根一人にめぼしい部員が全員打ち負かされるという氷帝にしてみれば不覚と言わざるをえない事件があった。
当時は準レギュラーであった後輩である日吉若でさえ手も足も出ず、情けなく思っていた反面、「お前も勝負してきたらどうだ?」と部長である跡部景吾に言われて向日が僅かばかり怯んでいたのも事実だ。
そして、自分は漏れてしまったジュニア選抜合宿から戻ってきた相方とも言うべき忍足侑士に「天根はおもろい選手やで」などと言われてその焦燥のボルテージは更に上昇していった。
そんな事もありいつかは天根に雪辱を果たすと心に決めていた向日だが、結局は対戦するチャンスもなく卒業を迎える事となってしまった。

「なんや、珍しい組み合わせやなぁ」

ふと下の方から独特の、掠れたような低い声がして、二人はそろって同じ方向へ目を向けた。
「侑士!」
「やっぱここにおったんやな、借りたジュース代返そう思とったのに教室おらへんで捜したわ」
部活ではよくダブルスを組んだ親しい友人でもある忍足の姿に、向日はピョンと給水塔からまるで飛び立つ鳥のように鮮やかに飛び降りた。
その身軽さは背中に羽さえ生えているようで、わ、と見事に着地を決めた向日にが目を丸める。
「屋上、じゃ分からへんて」
「わりぃわりぃ」
風に乗って流れてくる先ほどのメールでのやりとりだろう会話を耳に入れながら、もスカートを押さえつつゆっくりとハシゴを降りてきた。
「あ、そうだ……忍足くん」
向日と話している途中だった為か、つい同じ感覚で話を続ける。
「天根くんがね、忍足くんの事すっごく気に入ってるみたい」
はぁ?とあからさまに怪訝な顔をしてみせた向日を横に、忍足はああと懐かしそうにの方を見た。
「天根て六角のアイツか。そら光栄やけど、何でまた?」
「全国前のジュニア選抜合宿でお世話になったって。普段無口なのにいつになく楽しそうに忍足さんはいい人って熱弁してて」
「ホンマかいな。こっちはけったいなダジャレの相手押しつけられて大変やったんやで」
苦笑いを浮かべるも忍足はその時の事を思い出したのか、まんざらでもなさそうに表情を緩める。
もふふ、と口元に笑みを浮かべた。
「あの調子じゃ天根くん、来年は忍足くん追いかけてウチの高等部に来ちゃうかも」
「ハァ!?」
そんな笑い話に豆鉄砲でもくらったような間抜けな声を向日が漏らすも、はそれじゃ、と出口の方へ向かった。

「エエ足しとるなぁ、あの子」
「って、そうじゃねーだろ!!」

のスカートからスラリと伸びた足を見送って目を細めた忍足にすかさず向日が突っ込む。
「なぁ、さっきの話マジだと思うか!?」
「ああ、天根の事か? まあ、来たら来たで戦力になるんは確実やから良いんちゃう?」
パートナーのそんな返答に焦燥の色を顔に浮かべていた向日は、一転してフルフルと拳を震わせた。
「俺は認めねぇ……!」
「岳人?」
「アイツは俺が倒す! そう決めてんだ」
そもそも二年に進級してようやくレギュラー入りも見えてこようかという高校生活に、いきなりあんな一年が入ってきたら自分のレギュラー入りが危うい。
と、一瞬そんな情けない事も頭に過ぎらせて向日はブンブンとかぶりを振った。
「なんや岳人、まだ合同練習の事根に持っとんのか。そんな悪いヤツちゃうであいつ」
「だいたい、黒羽にもそう宣言したってのにチームメイトじゃ話になんねー」
忍足の発言は耳に入れず、口を尖らせて先日の黒羽とのやりとりを思い出す。

『あの天根とかいう長ラケットの二年に伝えとけ。高校上がってきたら絶対ブチのめしてやるってな』

見上げた黒羽の、驚いたような呆れたような顔。
「つーか、黒羽のヤツもちょっと背が高ぇからって人の事見下ろしやがって! ケータイ持ってねーくせに!」
「……そら被害妄想言うヤツとちゃうか」
「よく思い返せばアイツも俺と同じ跳躍屋じゃん。くそくそ、負けらんねぇ」
いつの間にか黒羽をも宣戦リストに追加して地団駄を踏む向日の様子に忍足はふうと息を吐いて、渦中の黒羽に軽く同情を寄せる。
何故に黒羽、と思うも確かに向日の言うとおりアクロバティックも得意であり、何よりパワーと直向きさを全面に押し出していた黒羽テニスは自分とは正反対とも言うべきで興味はそそられる。
メガネの奥をほんの少し鋭くさせて忍足はフレームをクイッと上げた。
「まあ、いずれは戦こうてみたい相手やな、黒羽も」
そう言って、ハタとある違和感に気付く。
「時に岳人、なんで自分そない六角に詳しいん?」
携帯持ってないとか知らんやろ普通、と突っ込む忍足に向日が目をパチクリさせて、ああと頷く。
「四日前、校門の所で黒羽に会ったんだ。んで、ほらさっきここにいたさん捜してたからケータイ貸してやったんだよ」
言いながら向日は軽く眉を下げた。
「待ち合わせとか不便だってのに、あの学校ケータイ持ってるヤツの方が少ないらしいぜ」
髪を風に靡かせながらフェンスの方を向き、もう一度外を仰ぐ。

サラッと言った向日の横顔は普段と変わらず、忍足は携帯云々よりも別の理由で滅多に崩れることのないポーカーフェイスを強張らせた。
「四日前て……ホワイトデーやん。黒羽て」
先ほどは気にも止めず流れで会話をしたが、が他校生である天根の事をあれほど知っているというのも変な話だ。
一瞬で疑問と違和感の糸が繋がり、訳を悟った忍足は僅かにメガネを曇らせ、ボソリと向日には聞こえない程度に低く呟く。
「あの子、宍戸と付き合っとんのやなかったんかい……」

そんな忍足の様子は露知らず、向日は再び強く拳を握りしめた。
今、この瞬間決意を新たにもう一度真っ直ぐ天根たちの事を浮かべる。


――次に相対するのはネットを挟んでだ!!


見上げた大空に、強い風が吹き抜けていった。










向日はちょこちょこ出していたので、一度一話にまとめてみようかと…。
天根に敵対心を燃やす向日、ということで。



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