harvest moon






電光の明るさに負けず劣らず、都会の雑音は日が沈んでも止むことはない。
いや、昼間よりも更に通りが良いのは冷めた空気の所為か、ただの気の所為なのか。
流れの定まらない川のような人波の中でその人影を見つけたとき、宍戸は幾度となく浮かべた「腐れ縁」という言葉を改めて頭に過ぎらせた。
?」
自分と違い、こちらに気づいていない少女に声をかけたのは他意があったわけではない。
そのまま人波に紛れそうだった少女は、呼ばれてどこを見つめるでもなかった瞳に生気を戻し宍戸の方を振り返る。

「……宍戸くん」

その瞳が捕らえたのは確かに数時間前まで顔を合わせていたクラスメイトで、少女――は彼の姿を確認すると軽く瞬きをして微かに首を捻った。
「何してるの? こんなところで」
「おまえこそ……」
双方、教室で別れたままの格好で互いに思った疑問をぶつける。
が、今更この程度で沈黙が生まれる仲でもなくはふ、と口元を緩めた。
「私は、今日塾なんだけどちょっと時間空いちゃって」
「塾? 絵のか?」
「フランス語」
鸚鵡返し交じりの質問に答えると、宍戸くんは?とが問いかける。
「まぁ、ちょっとな」
言葉を濁して宍戸は野球のキャッチャーよろしく後ろ被りをしていた帽子のツバを左右に揺らした。そしてほんの少し伏せた目線で一瞬思案すると、僅かにの瞳から視線をそらして前を向く。
「……お前、時間あとどれくらい空いてんだ?」
「え?」
言われては携帯電話の時計を確認した。
「ん……一時間以上あるなぁ」
よほど時間のつぶし方を持て余していたのか、改めてそれを確認しては自分自身に困ったというような表情を浮かべていた。
それとは裏腹に、宍戸は傍目には分からない程度に表情を緩ませる。
「なら、ちょっと来いよ」
「え……?」
言うが早いか宍戸はの返事を待たずに、もと来た道を歩き始めた。
「ねぇ、宍戸くん?」
小走りで数歩前の宍戸に追いつき、宍戸の横顔へ視線を向けると宍戸は歩きながら顔だけをの方へ向けた。
「一人でフラフラほっつき歩いてるわけにもいかねーだろ?」 
暗に危ないと言いたげな宍戸の意見も尤もで、宍戸の少しばかり強引な所も慣れている為かは一度肩を竦めると素直にそれに従った。
程なくして着いた場所はこざっぱりとした建物で、目に映った文字を無言で読み上げてが眉を寄せたのも気にすることなく、いや先ほどよりも笑顔で宍戸はその建物の中へと足を進めた。
「ちょ、ちょっと……良いの? こんな所、制服で」
「いいっていいって」
慣れた手つきでキィ、と入り口の扉を宍戸が開くと真っ先に瞳に映ったのは暗いのか明るいのかよく分からない店の光で、瞬間が後ずさる。
「いらっしゃい! ……と、亮君」
「お、何だよ亮、戻ってきたのか?」
カウンターや周りからは宍戸の知り合いと思しき声が飛び、は反射的に宍戸を見た。
呼び声に笑顔を浮かべた宍戸は、よほど親しい人たちなのか妙にリラックスした表情で思わず拍子抜けする。

宍戸が連れてきたのはビリヤード場。
促されるままにその慣れない風景をキョロキョロとが見渡していると、客の一人がキューを肩に掲げて笑いながら二人に話しかけてきた。
「亮、誰だよその子? お前の彼女?」
「バッ! ちげーよ、ただのクラスメイト」
「あ……初めまして」
高校生か、大学生くらいかという歳の青年にからかわれる宍戸を横に、は強張ったまま軽く頭を下げた。
、ビリヤードやったことあるか?」
一通りの絡みをやりすごし、振り返った宍戸にが小首を傾げてみせる。
「……ゲートボールなら」
「全然ちげーだろ、アホ!」
するとガクッと肩を落とした宍戸はいつもの調子で言い返し、周りからドッと笑い声が沸く。
「ったく、ちょっと見学してろ」
言い捨てると、宍戸は背負っていたテニスバッグから出っ張っていたキューを取り出した。
あれはマイキューだったのか、とが面白そうに見つめていると、宍戸は知り合いの中から撞く相手を見繕う訳でなく一人で空いた台の前に立ち、数字付きの9つのボールで菱形を作り出した。
そしてキューを構え、宍戸は狙いを定めて手球を鋭く撞いた。
カツン、と乾いた音が鳴り、それを受けて台の上にボールが散る様は何とも清々しい。
そのまま2個ほどポケットに入り、わぁ、とは感嘆の息を漏らした。
視線を少しばかりのほうへ流した宍戸にニコリと微笑みかける。
「綺麗なベクトル」
「……あ?」
視覚的、幾何学的な造形の美しさを褒めただったが、宍戸にはよく意味が分からなかったのだろう。
片眉を寄せていたが、追求するほどの事でもなかったのか再び台へと目線を戻した。
鋭い眼光がボールを見据え、ともすればテニスの試合に臨む際より集中しているのではないかと言うほどの緊張感から繰り出されたショットは絶妙の力をボールに伝え、まるで予め進む道を約束されていたかのように鮮やかにポケットへ沈んで行く。
思わず息を呑んだに、驚くのはまだ早いとばかりにニヤッと口の端を上げると宍戸は斜め上から手球を捉え、進路を邪魔していたボールの上をヒュッと飛び越えさせて5番、6番ボールをそのまま落とした。

「なかなかやるだろ? 亮のヤツ」

傍を通りがてら、店にいた青年がに話しかけてきた。
「あ、はい」
「かなり前から入り浸ってしょっちゅうああやって練習してんの。一時期ちっとも来なくなってたんだけど、店長寂しがってたからまた来てくれるようになって大喜びってわけ」
そう笑って軽く説明すると、青年は別に台へと向かって行ってしまう。

宍戸がどういうキッカケでビリヤードを始めたのかまではには分からなかったが何となくは察した。
今より幼い頃から通い詰めていれば、成る程顔なじみの客から弟のように想われていても不思議はない。

結局、そのままミスすることなく早々と全てのボールをポケットし、宍戸は頷きながら軽くガッツポーズをした。
「手品見てるみたいだった」
が笑顔で拍手を贈り、宍戸は微かに耳を赤らめながらも得意げな表情を浮かべる。
「やってみろよ」
そして、自らのキューをに差し出すと落としたボールを集めて再び台の上に菱形を作った。
渡されたキューを片手に、が瞬きを繰り返しながら忙しなくその先端と台のボールを交互に見つめる。
何せ一度もやったことがないのだ。
キューで手球を撞けばいい事は分かっているが、フォームもそのやり方もサッパリだ。
腕組みして見守る宍戸をチラッと見つめ、数秒まごつくも意を決したように台に向かう。
要するにキューを通して力を手球に伝え、その連鎖の先をポケットへ繋げれば良いのだ。
頭でその模様をイメージし、見よう見まねで「えい!」と胸のうちで呟いた掛け声と共に手球を弾く。
「――あ……っ」
が、カツン、と空振りという事態は避けたものの早々理屈どおりいくものではなく見事にイメージとは違う図形がの前に描き出された。
当然、先ほどの宍戸のようにそのままポケットへ、などという事にはならない。
初心者だから仕方ないとはいえばつが悪いのは変わらずギュッとキューを握りしめ、要は番号順に落とせば良いのだとは1番ボールを見据えた。
幸い、一撞きで落とせそうな位置にあり、一度深呼吸をしてから狙いを定める。
しかし、またしても乾いた音と共に今度はポケットに落ちるどころか手球は1番ボールの横をすり抜けて勢いよくカドに当たって跳ね返って来てしまい、はしまった、と片目を瞑った。
「フォームばらばら」
ククッ、と笑みを漏らしながら宍戸が見かねたようにの隣に立つ。
「構えてみろよ」
「ん……」
言われるまま台の方へ腰を折ったの両手に宍戸は自身の手を添えた。
「良いか? まず一つ落とすぞ」
「え? う、うん」
そのままフォームを修正してみせる宍戸に一瞬戸惑うものの、も宍戸に倣いキューの先の手球をしっかりと捉える。
カツン!と一際歯切れのいい音を立てて手球はその力を的球に伝え、そのまま綺麗にポケットへと直進した。
「入った!」
ほぼ100%と宍戸の力だったとはいえ、初めてポケットさせたは感極まってはち切れそうな笑顔で宍戸の方を向いた。
瞬間、宍戸が目を見開いてその場から飛び退く。
「……何?」
「な、何でもねーよ」
あまりに間近で目が合って驚いた、とは言えず宍戸は決まり悪そうにそっぽを向いた。気が動転した事と、今触れたばかりのの感触が蘇ったのが相俟った所為か胸がドクドクと脈打ち、気付かれないよう舌打ちする。
はというと、今のフォームを確認するようにストロークを繰り返している。
そうこうしているうちにコツが掴めたのか、たどたどしいながらも何とか数個のボールを自らの手でポケットインした。

そのまま小一時間ほど二人でゲームをし、ビリヤード場を後にする。


「宍戸くんがあんなにビリヤード上手いなんて驚いちゃった。凄くやり込んだんでしょ?」
歩きながら見上げてきたに、まぁな、と宍戸が相づちを打つ。
その表情は自信を湛えていて、はふ、と笑みを浮かべた。
やってみて分かった事だが、技術と強靭なメンタルを必要とするビリヤードはテニスに似ている。
精神が揺らいでも球は思うように進まず、かといって理屈どおりにいかないそれは何より反復練習を必要とするのだ。
そんな特性がいかにも宍戸らしい気がして――だが何故自分をわざわざビリヤード場へ連れて行ったのか分からずはその意味を考えた。
が、それで分かるわけでもなくそのまま無言で道を歩く。
今日は珍しく定時どおりに美術室を閉められ、半端に空いた時間をただ持て余していた。
一人でいると――いや、今宍戸といてさえ夏の光のように明るく爽やかな少年の笑顔が浮かんできてやるせない、とキュッとスカートの裾を握る。

肌寒い空気が頬を撫で、は不意に東の空に目をやった。
歩みを止めたにつられて、宍戸もその目線の先を追う。

息を呑むほど欠けたる所のない、瞳に迫る大きな満月。

その迫力に圧倒されながら、宍戸は大都会の華やかなイルミネーションを心底邪魔に思った。
もそう思ったのか少し寂しげに眉尻を下げている。
「千葉の……砂浜から見たら、もっと綺麗だったんだろうな」
呟いたの横顔から目を離さず、宍戸は考える。
漆黒の海辺に浮かぶ月は、の言葉を借りれば確かに"絵になる"のだろう。
だが、千葉の、と付け加えたのはそこに黒羽がいるからなのか。

沈んでなお、圧倒的な存在感を見せ付ける太陽。
いつもそこにある月でさえ、その光がなければ傍に居ることさえ気づけない。
その絶対的な力は、まるでの中の黒羽のようだと宍戸は感じた。

『いつか、ヨーロッパで絵の勉強するのが夢』

以前そう明るく自分に笑みを向けたを宍戸は浮かべた。
留学するかもしれない、と曖昧にから話を聞いたのは数日前。
夢だと言っていた割には歯切れが悪かったが、宍戸はあまりそのことを追及はしなかった。
ずっと傍で見ていたの何より大切にしていた夢。
急にそれが現実として目の前に迫って動じているわけでもなく、あの歯切れの悪さの理由を大体は察していたからだ。

いずれにせよ、自身が選ぶ道だ。
ただ、今でさえは頼りなげに映っていて見て見ぬふりもできない。
人ごみの中でを見つけた時も、危なげでとても放ってはおけなかった。
ビリヤード場に連れて行ったのは無論自分の腕を自慢するためなどではない。
雑念を払うにも、気を紛らわせるにもちょうど良い、と思ったのだ。
何よりそれに集中していれば頭は一時的にでも覚醒し、迷いがあれば球筋にすぐ現れる――自分は少なくともそうだ。球筋に変化があると、迷いがある、と自分で直ぐに気づいてしまうのだ。
にとってそこまでの効果はなくとも、ビリヤードを通して少しは何かを感じてくれるかもしれない。
――このくらいしか、自分にできることはないのだ。
優しい言葉をかけるのはガラじゃなく、さりとて深入りすれば「ハッキリしろよアホ!」等キツい言葉を放つだろう事は目に見えていて、これくらいしか出来ることはない、と宍戸は黙って空を見ていた。

見上げていた月は先ほどより光を帯び、より高く昇ろうとしている。

一年で一番美しいといわれるこの日の月は清涼な空気の中で眺めてこそ。
古では、澄み渡る乾いた空気の中で月を愛で、豊穣の祈りを捧げてきた。

そんな風情も現代のこの景色の中では似つかわしくない気さえするが、そこに浮かぶ月だけは、その眩い光が陽の力だと知るよしもなかった頃から何の変わりもない。


「結果は、知らねぇ内に勝手に後から付いてくる」

宍戸は乾いた空気を割って口を開いた。
宍戸の方を見上げたが首を捻る。
「ビリヤードの事?」
「……いや」
否定しながらも、それもあるかもしれないと宍戸は思った。
趣味とはいえ、真剣にやっていたビリヤードの腕はそれなりに上達していた。
それも含めて遊びに時間を割きすぎ、驕っていたらテニス部のレギュラーから落ちた。
すぐにそんな自分を戒め、死ぬ思いで特訓してレギュラーに返り咲いた。
過ぎ去った時間を今振り返ってみれば、予め用意されていた道にさえ思える。
既に過去となってしまった今だからこそそう感じるのかもしない。
だが、そう思うことで未来を歩いていく力が沸くこともあるのだろう。

まるであの月へ、欠ける事のない世を願い祝ってきた古の人々のように。


「じゃ、私あっちだから……」
分岐点まで歩いてきたのか、は宍戸の方を見上げた。
「ああ、悪かったな……勝手に連れ回して」
「ううん! ビリヤード面白かった。また明日ね」
笑って軽く手をふり、そのまま背を向ける。

教室で別れたままの、ブレザーの後姿が遠ざかるのを見送って宍戸も岐路を歩き始めた。
――また明日。
例え腐ってても、縁ってヤツもまんざらじゃねぇかもな、と一人呟いて。

もう二度と二人で見上げる事はない今日の十五夜も、連なる道の一つとしていつか振り返る時がくるかもしれない――そんな事を浮かべながらイルミネーションの人波の中へ宍戸の姿もまた、消えていった。










せっかくの誕生日なので、と思っていたらいつの間にか
祝祭の話になってました…(^^;



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