Blossom out into...






キィ、と特別教室棟のドアを開ける。

シンと静まりかえった廊下から耳を澄ますと見知った音色が聞こえてきて、私は思わず足を目的地だった美術室に向けるのを止めた。

ベートーベン作曲、ピアノソナタ第14番嬰ハ短調。

「月光……」

誰が弾いているかは考えるまでもない。

廊下を歩く途中、暖房の効いたこの特別棟とは裏腹に窓の外では裸になった木々が寒そうに揺れていた。
それを目の端で捕らえながら、音楽室のドアの隙間から漏れる第二楽章の明るい音に耳を傾け、私は人が通るには狭すぎるその隙間を広げようとドアに手をかけた。
気を付けたつもりがギィと音が鳴り、反射的にしまったと一瞬目を瞑る。
同時に聴こえていた鍵盤の音が止み、奏者がこちらに視線を送ってきた。
ごめん、と手で合図を送ると彼はニコッと笑って再び鍵盤を鳴らし始めた。
邪魔にならないようそっとピアノの方へ歩み寄る。

そういえば、以前にもこんな事あったなぁ……。

流れる軽快なリズムを心地よく耳に入れながら私は在りし日の光景を思いだしていた。

あれはちょうど三ヶ月くらい前。

気持ちとは裏腹に秋晴れが気持ちの良い穏やかな日だった―――と、追想が脳裏を駆けていく。



登校して教室に入り、いつも通り席に着いた。
窓際後ろから二番目。
窓から見える校庭の桜は、すっかり葉が茶色に染まって後は落ちるのを待つばかり。
風に吹かれる葉っぱの緩やかな動きをぼんやり眺めてたら後ろ側から声が聞こえてきた。
「冴えねぇ顔」
独特のぶっきらぼうな口調に頬杖を付いていた手を下ろして首を捻ると、テニスバッグを肩から下ろす宍戸くんの姿が目に映った。
もう部活は引退したのに相変わらずテニスバックを背負って学校に来る。
「おはよう」
反射的に挨拶すると宍戸くんも「おう」と返事をして腰を下ろした。
「朝っぱらから辛気くせぇツラすんなよな」
そしてさっきと同じような事を言われ、身体半分を宍戸くんの方に向けた私に彼は眉を顰める。
「ちゃんと寝てんのか?」
言われた私は首を傾げた。そんなに変な顔をしてるのか?と。
そういえば最近睡眠時間短かかったかもしれない、と思い当たる原因を浮かべた。目の下に隈でも出来てたのかもしれない。
「もうじき文化祭で忙しいからね……コンクールも控えてるし」
私の答えに宍戸くんは納得いかないというような声で軽く唸っていた。

文化祭前って美術部が一番忙しい時期で。
年中色んなコンクールがあるからそこまで暇な時期もないんだけど、学校行事が重なると自分の絵だけに集中してる訳にもいかなくて途端忙しさが増す。
放課後はいつも以上に遅くまで美術室にこもってみんなで作業したり、大変だけどやることがあると余計なこと考えないで済むから助かる、かな。

授業中も勉強に集中してれば余計なこと考えないで済む。
だけど、時々背中に刺さる射抜くような視線が痛い。


午前の授業が終わって飲み物を買いに購買部へ行くと人だかりの最後尾に宍戸くんを見つけた。

向こうも私に気付いて声をかけてきて、私も応えた。
「お昼、パンなんだね」」
「ああ、お前も?」
「私はお茶だけ買いにきたんだけど……」
並んでそんな話をすると宍戸くんは不思議そうに私へ視線を流した。
「昼メシ食ったのか?」
「ううん、今から美術室行くから」
私の返事に宍戸くんが物言いたげな顔をする。
「……楽しいか?」
「え?」
一瞬何の事だか分からず私は宍戸くんを見上げた。
「んな暗い顔して絵描いてて楽しいかって聞いてんだよ」
「く、暗い顔なんて……」
睨まれて思わず右手で顔を隠す。
「激ダサだぜ、お前。んな顔して描いたヤツの絵なんか誰も見たくねぇっつーの」
呆れたようにため息混じりに言われて手で覆ってた頬がカッと熱くなった。
周りのガヤガヤと騒がしい声がやけに大きく耳に響く。
「断言してやるけど、今のが描いた絵じゃコンクールで大賞なんざ取れねぇぜ?」
「……かもしれない」
その通りすぎて言い返せなかったから私は大人しく肯定した。
そんな自分にちょっと呆れる。同じく宍戸くんも呆れたような気配がした。
宍戸くんの言うとおり。
何でこんな気分になるんだろう。

ごめん、宍戸くん。こんな日に。

「あんた等は何買うんだい?」

購買部のおばちゃんの声がカウンターから飛んで私たちはハッと意識を戻した。
「焼きそばパン二つとチーズサンド一つ」
宍戸くんの声に、ほんとチーズサンド好きだよなぁと思いつつ私は当初の予定どおり台の上に置いてある小さな冷蔵庫からお茶を一つ取り出してレジに置いた。
「……あ」
お財布からお金を取り出して、レジの隣に置いてあったある物に目が行く。
「宍戸くん」
「あ?」
同じくお金を払い終えて教室へ向かおうとする宍戸くんを呼び止めて、私はパンを抱えていた彼の手の上にそれを乗せた。
「これあげる」
「何だこれ……ミントガム?」
怪訝そうに眉間に皺を寄せる宍戸くんに私は少し笑ってみせた。
言いそびれてたから。
「誕生日おめでとう」
不意打ちされたように宍戸くんが目を見開く。
と言うよりちょっと呆れた顔してた。
「……ああ、サンキュ」
誕生日プレゼントがこれかよ、って言いげな顔してる。
好きだよね?ミントガム。と一瞬目配せすると、宍戸くんはほんの少し肩をすくめてみせた。

ごめんね、ホントは笑って朝一番に言いたかったんだけど……。

そのまま美術室に向かった私は、準備室に置いてあった自分の描きかけの絵を見つめた。
定まらない絵にさっき宍戸くんに図星を指された言葉を思い出して瞳を落とす。

――こんな事でパリでやっていけるのかな……?

ふとよぎった考えにブンブンと頭をふった。

留学の話をもらったのは九月の頭。
ビックリして、嬉しくて、私はすぐ二つ返事をした。
元もとパリで絵の勉強するのは夢で、大学はパリの美大に進みたいと考えていたから、それが誘われて高校から絵の勉強が出来るなんて願ったり叶ったり。
必要だろうとフランス語の授業も取ってて、多少はフランス語も出来る。
現地で生活してれば言葉もすぐ覚えられるだろうしこれ以上のチャンスはない。

迷う理由も断る理由もどこにもない。

絵は昔から私の全てで。
白いキャンバスには――そう、白いキャンバスには。
「キャンバスには……」
無限の可能性が広がってる――なんて明らかに失敗した自分のキャンバス見てたら虚しくなって呟きかけた途中で私はため息をついた。
ホント、宍戸くんに言われるまでもなくこんな気分じゃ良い絵なんか描けっこない。
どうしてだろう……、何も滅入る事なんてないのに。
いや、違う。留学のことも何もかも、今はきっと考えたくないだけ。
部室に散乱したスケッチブックを拾いながら私はポツリと彼の名前を口にした。

「黒羽くん……」

本当は、今日は一年で一番素敵な日なのに……。

俯いて、手に持っていたスケッチブックを握りしめていたら微かにどこからか音が漏れてきた。
深く、静かな音色。
耳を済ませてみる。
「月光……?」
綺麗な旋律に惹かれるように私は美術室を出た。ひょっとしたら、このまま美術室にいたくなかったのかもしれない。
音楽室へ向かう途中に音色は第二楽章に切り替わり、明るい音色が廊下に響き渡る。
そっと音楽室の扉を開け、奥に佇むグランドピアノの方を見て邪魔にならないよう静かにドアを閉めると、私は数歩進んでその音に耳を傾けた。
先程とは打って変わって激しい音色が音楽室を包む。
内に秘めた情熱を謳いあげるような第三楽章の旋律。

私はいつの間にかその音にすっかり聞き入っていた。

一際激しく音が高鳴り、月光は幕を下ろした。
一瞬静まり返った音楽室にパチパチと拍手の音が響き、奏者は驚いたようにグランドピアノ越しにこっちを向いた。
先輩……」
「相変わらず上手いね、鳳くん」
「聴いてたんですか……」
拍手しながら近づく私に鳳くんは少し照れたようにはにかんだ。
「美術室にいたらピアノの音が聞こえてきたから、すぐ鳳くんだって分かったよ」
彼は鳳長太郎くん。
ピアノが上手で、偶にこうして音楽室でピアノを弾いてる。
開いていた楽譜を閉じながら鳳くんは穏やかに微笑んだ。
「何だか弾きたい気分だったんすよ。先輩、月光好きでしたよね?」
「うん、特に第三楽章」
「俺も好きです。何か静かに燃え上がるような激しさが」
「……宍戸くんみたい?」
鳳くんの顔を覗き込んで笑った私に鳳くんも一瞬目を見開いて笑った。
テニス部の二年生でもある彼は宍戸くんをとても尊敬していて、その所為もあってか私は鳳くんと結構気が合う。
俗に月光と呼ばれているからという訳じゃないけど、この曲はホントに宍戸くんに合ってると思う。
「宍戸さん今日誕生日なんすよね」
「うん」
ひょっとして鳳くんもそう思って今日月光弾いてたのかな、なんて思った。
祝いの気持ちを込めて弾くことができたら、きっと素敵。
ちょっとだけ、こんなに弾ける鳳くんが羨ましいな。
「先輩、何かリクエストありますか? 弾きますよ」
そんな事を考えてたらピアノ線の上の台に重ねた楽譜をパラパラと捲りながら鳳くんが見上げてきた。
「……じゃあ、英雄」
訊かれて、何故だがすぐ頭に過ぎった曲の名を私は呟いた。
「ショパンの? ……弾けるかなぁ」
弾けるかなぁと謙遜したその横顔は自信もたたえていて、探し当てた楽譜を目の前に立てると鳳くんは長い指を白い鍵盤の上に乗せた。

ピアノを弾く鳳くんは貫禄があってとても大人っぽく見える。
大きな身体全体で力強く鍵盤を叩くその姿は凄く絵になると言うか……カッコイイ。
榊先生が渋くピアノを弾きこなす姿も様になってるけど、鳳くんの方が溢れ出そうな光があるかな。

凄いなぁ、中二でこれだけ弾けるなんて。

激しく動く鳳くんの指を見つめる。
テニスで荒れた手。
新人戦が目前ということもあって、その手はいつも以上に荒れて見えた。
鳳くんみたいなプレイスタイルの選手は人より多くサーブの練習するから余計手に負担かけるんだよね。
それはよく……知ってる。
耳に届く雄大な英雄の旋律を聞きながらそのよく知る人物を浮かべ、私はギュッとスカートの裾を掴んだ。

でもどうして……?
ピアノを弾く鳳くんはとても生き生きしてるのに、何故ピアノを辞めてしまったんだろう。
テニスとの両立が厳しくて、中学に上がった頃ピアノは辞めたんだと以前笑って話してたっけ。
テニスしてる鳳くんも同じくらい生き生きしてるのは知ってる。
だけど――。
やっぱり、何かを成すにはそれに伴う犠牲もつきものなのかな?
選択しなきゃならない事も時にはあるだろうし――何となく、鳳くんに今の自分を重ねて心に靄がかかる。

タン!と指を鳴らして鍵盤から手を離した鳳くんがホッと息をはいた。
6分くらいある英雄の前に月光も通して弾いてたから疲れたのかもしれない。拍手を贈ると鳳くんはさっきみたいにはにかんだ。
「凄いね、これだけ弾けるなんて相当弾き込んだんでしょ?」
「ええ、結構ショパン好きなんで」
「あ、私も好き。じゃあ木枯らしや大洋も弾ける?」
「えっと……弾けますけど、人前で弾ける程ではないです」
鳳くんが謙遜気味に答える。
でも弾けるんだ。やっぱり凄いよ。
「どうして……」
反射的に私はついさっき考えていた疑問を口にした。
「え?」
「どうしてピアノ辞めちゃったの?」
一瞬強張った鳳くんが私を見つめ返してきたから、私は少し彼から目線を外した。
「勿体ないなぁ……こんなに上手いのに」
「先輩……」
「プロになろうと思った事、ない?」
もう一度視線を鳳くんに戻すと鳳くんは口をつぐんで一瞬沈黙した。

「正直言うと……あります」

それは予想通りの答え。
でも何故か彼はいつものように穏やかに微笑んでいて、私は少し面食らった。

「てか……母はピアニストって道も視野に入れてたみたいで、今でも辞めちゃった事勿体ないって言ってて」
照れくさそうに右手で頭を掻く仕草をしている。
「鳳くんは?」
「え?」
「ピアノ辞めちゃった事後悔してない?」
鳳くんは首を傾げて少しの間思案するような仕草をすると、何かを悟ったように大きくて綺麗な瞳で私を見上げてゆっくりと口を開いた。
「俺……物心ついた時からピアノとバイオリンのレッスン受けてて、それが当たり前のようになってたんです」
「うん……」
「でも小学生になって始めたテニスにすっかり夢中になってしまって。母からはあまりテニスをするのは良くないって言われたりもしたんですが」
「……指、痛めるからだよね?」
語りかけた私に鳳くんがコクリと頷く。
「俺、どっちも好きでした。ピアノも、テニスも。でも中学に入って……全国クラスのこの学校のテニス部でやっていくには両立はできない」
鳳くんの声がワントーン下がる。
その時の鳳くんの心情は凄く分かる。その所為か私はグッと熱を込めて拳を握りしめた。
「でもやるからには中途半端な事はしたくなくて、悩んだ結果、ピアノではなくテニスを選んだんです」
「鳳くんは……テニスの為に夢を犠牲にしたの?」
瞼を伏せた私の目の前の大きな瞳が更に大きく見開かれる。
そして一瞬切なそうにした後、唇で笑みの形が作られた。
「俺、犠牲にしたなんて思ってませんよ。ピアノは趣味でこうして続けてるんですし」
そう言いながら右手で鍵盤をポンポンと叩く鳳くんに、でも!と納得できない気持ちを向けると彼は少し肩をすくめた。
「プロになろうと思ったらとてもテニスはできません。手を、何より大事にしなくてはいけませんから」
僅かに目を落とした鳳くんに、うん、と相づちを打つと鳳くんはそのまま言葉を続けた。
「俺、きっとピアニストになれたとしても全くテニスが出来ないのは我慢できなかったと思うんです。今の俺は、テニスをやりながら偶にピアノを弾ける。ピアニストにはなれなくてもピアノが弾けないわけじゃない。だから、後悔はしてません」
そうハッキリ言い切った鳳くんは、妥協したのかななんて邪推を許さないほど真っ直ぐな瞳をしていた。
でも、本当に後悔しないのかな?テニスが傍にある今は、それが最善の選択だと思い込んだだけかもしれないのに。
テニスが一段落した時にもし後悔したとしても、きっと遅すぎる。

私……何考えてるんだろう。

「不安……なんですか?」
押し黙った私を鳳くんが心配そうな顔して覗き込んできた。
え?と何の事か分からずキョトンとしていると、あ、と慌てた様子で鳳くんがピアノの椅子から立ち上がる。
「その、クラスの美術部員から先輩がパリに留学するかもしれないと聞いて……! 俺、凄いなって思ってたんですけど、先輩あまり元気ないみたいで、さっきの話とか」
その、えっと、スミマセン。と鳳くんは上手く言葉が繋げられないといった感じでほんの少し頬を染めた。
後悔してない?と訊いた私に何か悟った感じだったのも、留学の話を知ってたからなのかとどこか納得するも、少しいたたまれない思いがした。
「……ごめんね、変な事訊いちゃって」
つい口に出してしまったもやもやで後輩に気をもませてしまったことが申し訳なくて頭を下げると、鳳くんは慌ててブンブンと首を横に振った。
「留学の話は……謹んで受けようと思ってる」
傍に立つと、もうこれ以上余計な気を揉ませないように笑って背の高い鳳くんを見上げた。
そう言った私を鳳くんが励ますように微笑んだ。
「先輩ならきっと上手く行きますよ!」
きっと先行き不安に感じてると思われたんだろうな……。大丈夫です、と力強く後押しをする鳳くんに、ありがとう、と笑ってみせた。


帰宅して、私はいつも通り絵の練習をしようとスケッチブックを開こうとしてふと手を止めた。
今日は新月なのか、部屋から見上げた夜空さえもいつも以上に暗い。
黒一色に塗ったような空を遠くに見ながら私は昼間の鳳くんとのやりとりを思い返した。
テニスを取るかピアノを取るか。――彼に重ねた疑問は、きっと私自身のこと。
パリへ行く――それはもう昔からの夢で、その時のためにフランス語も勉強してきた。
何があってもこのチャンスを逃すつもりはない。
そして、何があっても一番に絵を選んでいく……それも、これから先もずっと変わらない。

私が進む道に、黒羽くんはいないんだ……。

そう思って、私は思考を遮るように軽くかぶりを振った。
今まで、そんな事考えた事もなかった。
いつかはそうなる現実を、今は考えたくなかった。
今のまま……せめて、桜が咲く頃まで今のままで。そう今のままでいたい。
ふと、私は部屋の棚に置いてある包みに目をやった。
渡せないかもしれない。そう思っていても用意したプレゼント。

『後悔すんなよ』

この前、宍戸くんに言われた言葉も一緒に思い出して少し自嘲気味に笑う。

あの春の日――黒羽くんと宍戸くんの誕生日が同じだと知ったあの桜の綺麗だった日。
あの日、私は黒羽くんに会えて凄く嬉しかった。
もう絵も描き終え、六角に行くことも黒羽くんに会うこともないと思っていたから。再会がただ嬉しかった。
そう言ったら、大げさだって笑い飛ばされたっけ――。

それから楽しみにしてた彼の誕生日。祝えるのは、今年が最初で最後になるかもしれないのに。

テーブルの上に置いていた携帯を手に取り、折り目をそっと開く。
アドレスを操作して、『黒羽くん(自宅)』と表示された所で手を止めた。

電話したら、きっと「か、どうした?」ってカラっと明るい声で訊いてくる。
お誕生日おめでとう、って言ったらちょっと照れながら「サンキュ」って言うんだろうな。
そして、六角のみんなが祝ってくれてさぁ、とか、宍戸も今日誕生日だったよな、とか、電話口の向こうで声が弾んで……。

光景が目に浮かぶようで、私はクスリと笑った。
ポロッ、と一粒握りしめていた携帯に涙が落ちる。

頭の中に、昼間聴いた英雄の旋律が蘇る。

私の英雄――私の太陽。

見上げた空は真っ黒で、陽がなければ月さえも見えない……星屑の群れは遠すぎて、ここに一人ぼっちな気がして私はずっと暗闇の空の下瞳を閉じていた――。



そんな記憶を脳に留め、私は勢いよく鍵盤から指を離した奏者に拍手を贈った。
私の方を向いた奏者――鳳くんがいつものようにはにかむ。
「久しぶりに聴いたなぁ……鳳くんの月光」
鳳くんに笑みを返して、私はすぐ後ろの窓の外へ目をやった。
枝だけになった木の間を肌寒そうに冬の風が吹き抜けていく。
「この前は確か……宍戸さんの誕生日に弾いたんだったかな」
「うん、ちょうどその時の事思い出してたの……」
思い出したように呟いた鳳くんに相槌を打つと、私は再び窓の外を見つめた。
「でも、何だかあの時より明るい月光だったな」
「そりゃ、弾いてる俺の気持ちで変わりますし……聴いてる先輩の気分でも聴こえ方は変わりますよ」
トントン、と楽譜を整える歯切れのいい音を鳴らす鳳くんの柔らかい声に、そうだね、と微笑む。
暖房の籠もった音楽室が少し息苦しくて、私はそっと窓に手をかけた。
ヒュッ、と冷たい風が入り込んで火照った頬の熱を静めていく。
「今年の桜、ちゃんと咲くかな……?」
開花するころにはもうここにはいないんだなぁ、と思うとちょっと寂しい気がして、じっと裸の木を眺めているとピアノを片し終えた鳳くんがすぐ傍に立った。
「その頃には、もう先輩日本にいないんですよね」
そして鳳くんの声が少し下がる。
「……寂しくなるな」
見上げると、穏やかでいて真剣な瞳の色を浮かべていた鳳くんと目が合った。
「俺が初めて先輩の絵を見たのは入学したばかりの部活紹介の時でした。あの時から俺、先輩の事ずっと尊敬してたんです。宍戸さんと同じくらい……!」
鳳くんが喋る度に白い息が生まれては消え、彼の最大級の賛辞に一瞬面食らう。
「先輩ならきっと凄い画家になれますよ。俺応援してます」
真っ直ぐ瞳を見つめてくる鳳くんに私はありがとう、と心から笑った。
「パリへ行ったら、鳳くんのピアノ聴けなくなっちゃうな……」
「いつでも聴きに帰ってきてください! 俺、もっと腕上げますから!」
ふと漏らすとパッと明るい顔をして言ってくれた鳳くんに少し首をかしげてみせる。
「ピアノもいいけど、テニスの方も頑張ってね」
「あっ、そっか……はい!」
くすくすと笑い合って私たちは冬の空を見上げた。

凛と澄んだ空気が空を満たす。

暖かい陽の光りの中で、あの桜はどんな色を見せてくれるのだろう?
今は寂しい裸の木々。
でも、その中で確かにあの木々は目覚めの時を待ちわび力を蓄えている。
そうだ、きっと大丈夫。
きっと綺麗に咲き誇る――と、私はやがて訪れる春へと祈りを込めた。










一番書きたかったのは鳳のことだったり……。


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