His anxiety






「"Human Touch"か……」

桜舞い散るうららかな春の午後――一人の少年が一枚の絵画を見つめて穏やかな笑みを浮かべていた。
「彼女、人物画も描くようになったんだね」
多数の人物の、日常を切り取ったような絵。その絵からはタイトル通りの温かみが溢れていて、まるで作品の空気でも移ったかのように少年自身温かい気持ちが身体の芯から湧き出ていた。
ゆったりとした柔らかな時が流れ――しばし絵に見入っていた少年は自分のすぐ近くで同じように絵に見入る人影に気づいて視線を移した。
「あれ……?」
見覚えのある顔に思案顔を浮かべる。
「ねえ、キミ」
「ん……?」
声をかけてみれば、自分より10cmほど背の高いその人物が振り返り、「やっぱり」と少年は口にした。
「六角の黒羽だろう? こんな所で会うなんて偶然だね」
振り返った少年――黒羽は一瞬目を丸めたものの、直ぐに「あ」と反応した。
「あんた、立海の部長の幸村じゃねーか!」
「もう部長じゃないけどね」
少年――幸村は柔らかい声とともに人当たりのよさそうな柔和な笑みを浮かべた。

幸村――神奈川の立海大附属中学テニス部部長を務めていた幸村精市。
黒羽の方は内心驚きを隠せないままに幸村を見た。
今日、ガールフレンドであるの絵を見にここ東京まで訪れた黒羽だ。まさかこんな場所で幸村などに会うとは夢にも思わなかったのだ。
幸村は一年の頃からレギュラー入りし、一年であるにも関わらず団体メンバーの中心として立海を二年続けて全国優勝へと導いた男でもあり――ライバル、というにはいささか恐れ多いほど関東の、いや全国のテニス選手の中であまりに有名な存在だった。
しかしながら幸村本人は輝かしい戦績とは裏腹にどちらかというと弱々しい、儚げな優男的印象で、あの外見からどうしたらあれだけのプレイが出来るのかと不思議に思ったことも一度や二度ではない。
立海はどちらかというと問題児が目立ち荒々しい学校だという印象を持っていた黒羽だが、幸村は以前の印象と一つも変わらず、今も至って穏やかだ。緩い天然パーマの髪がどことなくを思い出させて、黒羽は一度小さく首を振るった。
そうして先程まで見ていた絵に視線を戻す。
大賞の絵――が日本に残していったもの。
去年このコンクールで優秀賞を取り、「次は大賞を狙う」と言っていた言葉通りの結果を叩きだした彼女を誇りに思う。
しかしそれはそれとして、やはりこの場で神奈川県民の幸村に会うとはあまりに意外で頭を捻っていると、幸村の方から黒羽に話しかけてきた。

「キミも、彼女……この作者のこと好きなの?」

あまりに直球過ぎる台詞。
幸村の意図はともかくも、黒羽が驚きのあまり全身で反応したのは事実だ。
「は……!?」
「彼女、ずっと風景画や静物画専門だったのに……こんなに人物画も上手かったなんて驚いたよ。確か去年も人物画で優秀賞だったんだろう? 俺はそれ見られなかったんだけど」
幸村の声が若干沈んだが、黒羽はただただ目を丸めるしかなかった。
「いや、待て……! 幸村、のこと知ってんのか?」
気づけば考えるよりも先に口が出ていた。
今度は幸村が穏やかそうな目元を若干見開く。
、って……キミこそ、さんを知っているのかい?」
黒羽は息を呑んだ。
幸村の背は自分より低く、本人の容姿も纏う空気も穏やかだというのに――得も言われぬ迫力を感じるのは気のせいだろうか。
一瞬だけ黒羽が言葉に詰まると、先に幸村の方が口を開いて話し始めた。
「俺は小さい頃から絵が好きでね。彼女はコンクール入選の常連だから昔から知ってるんだ。と言っても、一方的に……そうだな、ファンみたいなものだったよ。だけど数年前、偶然ある美術館で会う機会があってね――」
幸村は思い出を辿るように遠い目をした。

あれは中学に入学したばかりの頃――東京で開かれた小さな展覧会へ赴くために上京した時の事だった、と幸村は黒羽に語りながら遠い目をした。
そうして追憶の日が脳裏を巡り――幸村はスッと目を細める。
――あの日足を運んだ展覧会では有名な画家に混じってアマチュアの絵画も飾られており、その一つ一つをじっくりと鑑賞しつつ豊かな気持ちで目当ての絵の場所へと足を向けた。
すると、目的地には先客が居て、今まさに自分が見ようと思っていた絵をじっと見据えていたのだ。
自分と同い年くらいの――栗色の髪に緩いウェーブがかった髪が印象的な、柔らかな雰囲気の少女だった。
「あ……」
幸村は思わず声を出していた。
気づいた少女が振り返り、そのままの勢いで声をかける。
「キミ、さんだろう? 最優秀賞受賞、おめでとう」
少女――はキョトンとして固まっていた。
あ、と幸村はばつの悪そうな顔を浮かべて自分自身に苦笑いを漏らす。
「驚かせてごめん。キミってよく美術雑誌に作品と一緒に名前が載ってるし、時々写真も出てたから覚えてたんだ」
「あ……そう、なんだ」
「会えて嬉しいよ、俺、キミの絵のファンなんだ」
柔らかく微笑んで言えば、幸村の説明に納得したのかは強ばっていた表情を徐々に緩め、ありがとう、と笑みを零した。
その笑顔はまるで心地よい空気を放つ穏やかさに満ちていて、幸村も自然柔らかい笑みを浮かべていた。
「キミの描く花や木々の絵って優しい生命力が宿ってる気がして良いよね。俺、植物ってすごく好きなんだ」
「あ、私も好き。父が自然科学の研究してて良く研究ついでに色んな場所へ連れてってもらってお絵かきしてたから……風景画は私の原点、かな」
「そうなんだ。キミの絵を見てると優しい気持ちになれる理由が分かった気がするよ」
そんな会話を交わしつつふと目線を落とした幸村の目にの持っていた大きなスケッチブックが留まり、何気なくそのままジッと見つめていると視線に気づいたらしきははにかんだように笑った。
「これ、いつも持ち歩いてるの。いつでもスケッチできるように」
「へぇ、さすが……熱心なんだね。よかったら見せてくれないかな?」
「え、良いけど……スケッチだよ?」
今眼前に掲げてあるようなちゃんとした絵ではないから恥ずかしい、と含んだにニコリと笑みを返し、幸村はスケッチブックを受け取って開く。
途端、広がったモノクロの世界に、ゴクリ、と幸村は喉を鳴らした。
多種多様な植物、雑貨、建物。
溢れんばかりの才能が外に出たがっているというのはこのことを言うのだろうか――、原石の片鱗を垣間見た気がして、しばし無言で見入っていた幸村はとある絵が目に付いた。
大輪の白い花――カサブランカだ。それも花束ではなく、一輪挿しの。
花束にすればどの花よりも豪奢なそれは一輪だと気高い純潔さがより溢れていて、幸村は吸い込まれるようにその絵に釘付けになっていた。
孤高で強く――の得意とする優しい雰囲気の絵柄とは一線を画して克己的な厳しさが垣間見え、凛として美しい。
――今年は全国常勝を掲げる立海大附属中学に入学し、早くもレギュラーを勝ち取った。ノービス時代はシングルスで全国優勝の経験もある。
王者とは孤独なものだ。そこに君臨し続けるということは、あらゆるプレッシャーをはね除け、誰よりも強くあり続けなければならないということ。
幸村は凛然と描かれたその絵に自分の境遇を重ね、どんな時もどんな事があろうとも強くあろうと決意を新たにさせられる気さえして見入った。
「あの……」
あまりに無言で見入っていた為かが首を傾げる。あ、と幸村は一端顔を上げて柔らかな眼差しを向けた。
「良い絵だね、スケッチなのがもったいないくらいだ」
そうしてが、ありがとう、と言ったのを確認して再び目線を落とす。
それからどれくらい時が経ったかは覚えていない。しかし、の穏やかな笑い声が聞こえて幸村はふと顔を上げた。
「その絵、あなたにあげる」
するとがふわりと微笑みながら言って、え、と幸村の口からは間抜けな声が漏れた。
「そんなに気に入ってくれて私も嬉しいし。……あ、もし良かったら、だけど」
少々遠慮がちに語尾を弱めたに、幸村はハッとして強く頷いた。
「キミが良いのなら喜んで頂くよ」
も笑って頷き、スケッチブックからその一枚を離して幸村に手渡した。幸村は歓喜で言葉を無くし、そうこうしているうちには用事を思い出したのか時計を見つめて、あ、と声を漏らした。
「じゃあ私はこれで。私の絵、好きだって言ってくれてすっごく嬉しかった。ありがとう」
去り際に笑みを残して背を向けたへ幸村は「あ……」と引き留めるように小さい声を漏らした。
しかし、には届かなかったのだろう。やがての背は小さくなって幸村の視界から消えた。

名前すら告げられなかった――その僅かな後悔からカサブランカの絵を持つ右手に力が籠もったことは数年経った今も忘れられない、と幸村は自身の思い出を黒羽に語った。

「緊張、してたのかな……彼女に会って。もう彼女は俺のことを忘れているかもしれないけど」
ふふ、と笑みを零す幸村の話を黒羽は少々複雑な思いで聞いていた。
と幸村の間にそんなことがあったとは全く知らなかった。当然だ、例え自身にその話を聞いたとしても、相手が幸村だと断定するのはまず不可能なのだから。
だけど、と幸村は話を続ける。
「彼女に貰ったカサブランカの絵は今でも俺の宝物なんだ。ずっと……病院のベッドの上にいるときも、随分と慰められたものだよ」
その一言にピクリと黒羽の身体が撓る。
幸村が中学二年の冬に倒れ、そのまま入院となって二度とテニスができないかもしれないという過去があったことはあまりに有名な話だ。
奇跡的に三年の中体連全国大会から一線に復帰することが叶ったが、自分の命はもとより二度とテニスが出来なくなるかもしれない恐怖と戦うのがどれほどの苦痛だったか、黒羽にも想像に難しくない。いや、実際は想像を超えているだろう――そんな幸村の支えにがなっていたのかと思うと、嬉しく思う反面自分でも気づかないほどの畏怖を覚えたのだ。
「さっきの質問だけど、キミとさんは知り合いなのかい?」
再度問いを繰り返してきた幸村は、飾ってあるの絵と黒羽を交互に見やる。そうして視線が往復した何度目だっただろうか――幸村は思い付いたように言った。
「ひょっとして……あの絵の中央に描かれてるのってキミ?」
今回のの絵は柔らかく温かな雰囲気を最重視しており、モデルが誰であるかを明確に判別することは難しい。
しかし僅かな特徴から汲み取ったのか、幸村は先程よりも強い視線を黒羽に送ってきた。
気圧されたように黒羽が頷く。
「あ、ああ……」
幸村の持つ静かな迫力は元からなのか、それとも全国覇者の持つオーラなのか――一度唇をキュッと結ぶと黒羽も負けじと言い放った。
「そうだぜ」
訊いた幸村もこうハッキリ肯定されるとは思っていなかったのだろう。微かに目を瞠っており、黒羽は軽く自分との関係について説明をした。

そうか、と幸村は驚きを隠せないままに呟いた。

「彼女が今まで描かなかった人物画を描くようになったキッカケがキミ、なんだね。しかもキミのテニスを見て……か」
噛みしめるように呟く。
「確かに、キミのパワーとテクニックが融合したプレイは良いものがあるよね。いささかプレイが単純すぎる気はするけど、俺も嫌いじゃないな」
そうして黒羽のテニスを批判しつつも誉め、でも、と幸村は言葉に力を込めた。
「俺もパワーにもテクニックにも一応自信はあるんだ。どっちが強いか、一度対戦してみたいものだね」
言われた黒羽は少々慄く。これが例えば他の選手だったら「楽しみだ」「負けねーぜ」等明るく肯定している所。仲間内での会話だったら「幸村? あー、アイツにゃ勝てねーかもな」などと言って笑っている。しかし本人に言われて返事に窮したのだ。
幸村は黒羽の返事を待たず、ふ、と笑った。
「氷帝って確かウチと同じでエスカレーター式だよね。彼女、高校もそのまま氷帝?」
「あ、いや……アイツは――」
訊かれて黒羽は若干眉尻を下げた。
今頃は何をしているのだろうか――と胸中に寂しさも飛来させつつ首を振るう。
「アイツは今、日本にいねーんだ」
「え……?」
「本格的に絵の勉強したいってんで今年の春からフランス留学してんだよ」
幸村は驚いたように瞳を瞬かせた後、そうか、と納得したように呟く。
「良い選択だね。彼女の才能は昔から外に出たがっていた……フランスならここよりもそれを活かす機会も多くなるだろうし。でも、日本で彼女の絵を見る機会がないと思うと、ちょっと寂しいな」
そうして目を伏せた幸村はどこか儚げで。絵に描いたような美少年とはこういうヤツのことを言うのだろうか、と黒羽は肩を竦めた。友人である佐伯とはまた違う種類の美形だと思う。
「それに残念だ。こうして美術館にいると、また彼女に会えるかもしれないって心のどこかで期待してたけど……それももう、叶わないんだな」
「幸村……お前……」
「一度話しただけだけど、とても仲良くなれそうな子だと感じたのに」
幸村は静かに、本当に静かに口調に微かな落胆を滲ませていた。
黒羽は流石に動揺した。
自分と出会う遙か昔に出会っていたというと幸村。
の自分への気持ちは疑う余地もなく、強く自分を想ってくれていると信じている。
しかし、幸村の言うとおり、と幸村は気が合うだろうという印象は黒羽自身も感じていた。理由は分かる。幸村もも、自分の全力を懸ける物事のこととなると普段の穏やかさは一変し別人のような厳しさを見せる所などそっくりだからだ。加えて、今の自分ではどうあがいてもテニスでは幸村に勝てそうもない。
その所為だろうか――何故か今後を幸村に会わせてはいけないような、そんな予感めいたものが黒羽の中に生まれた。
誰よりもに近い存在だった宍戸に対してすらこんな思いを抱いたことはないというのに――と自分自身に焦っていたら、眼前の幸村は持ち前の柔和な笑みを浮かべていた。
「彼女に会ったら、あの時くれたカサブランカの絵を俺は今も大切にしてるって伝えてもらえるかな?」
「ん? あ、ああ」
「それと、一ファンとして活躍を祈ってる、と」
頷くと幸村も頷き、そして穏やかだった瞳は急に鋭さを増した。
「テニスではキミに負けないよ、黒羽」
その一言を放ってすぐにまた穏やかな表情に戻り、「じゃあね」と笑って幸村は黒羽に背を向けた。

しばし無言で幸村の背を見送っていた黒羽は、ハァ、と緊張が解けたように深い溜息を付いた。
やはり王者の貫禄というものだろうか――青学の手塚や氷帝の跡部にも感じることのなかったものが、確かに幸村にはある。
「こりゃ帰って特訓し直しだな」
取りあえず自分は夏の高体連には出られないだろうから秋の新人戦に向けて今から備えておこう、と一人決意を固めた。
そうしてもう一度、大賞のの絵を見やる。
遠く慣れない異国の地で頑張っているだろう――、早速ではあるが手紙でも書いてみるか、と思いつつの絵に背を向けた。

いつか、今日のことも笑ってに話せる日がくるだろう。
きっと喜ぶに違いない違いない。自分の絵が一人の少年を励ましていたと知ったら。

美術館を出て、黒羽は外の空気を思い切り吸い込んだ。
一年前のちょうどこの頃、この場所でと自分の新しい関係が始まったのだ。
偶然と必然――運命なんて言葉にすれば簡単だが、実際は色々な要因が紙一重のすれすれで重なり合って生まれているものだと先程幸村に会って実感した。
もし、が幸村の名前を聞いていたら。もし、がテニスコートで自分ではなく幸村を見つけていたら。――今の自分たちの関係はなかったかもしれない。

そう思った黒羽の横を、フ、と穏やかな春の風が吹き抜けて言った。

自分と同じ名を宿したそれにまるで慰められているような気がして、ニ、と笑う。


『この季節が来たら風が吹く度、黒羽くんの事思い出しちゃうなぁ』
『んじゃ、俺は風が吹いたらが俺のこと考えてるって思うか』


奇跡のような偶然の末に今の自分たちがあるのだと思うと、それこそが運命のような気がして、黒羽は遠く天を仰いだ。

「大好きだぜ、

透き通るような青を見つめながら放った声は、遠く広がる空へと包まれて消えていった。





幸村の希望と、黒羽の不安。




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