お盆明けの8月は16日。
 湘北バスケ部は本日から通常練習再開である。とはいえ、夏休みということも相まってそこまできついスケジュールは組まれていない。
 今日も午前中みっちり練習し、午後は昼食後に軽めの練習で2時には終わる予定になっていた。

 そんな昼下がり、バスケ部の練習している体育館を目指して歩く二つの影があった。
 その影の正体は松井と藤井。バスケ部マネージャーである赤木晴子の親友でもある。
「最初はどうなることかと思ったけど晴子もすっかりマネージャーが板についてきたみたいね」
「彩子さんが引退しちゃって一時期パニックになってたけど……だいぶ持ち直したよね」
 そんな話をしながらもやはり親友の様子が気になった二人は彼女の顔を見がてら差し入れを渡すつもりで手にはけっこうな量のスポーツドリンク入りペットボトルが下げられていた。
 中学時代はバスケ部だった彼女の試合を応援に行ったり等はしていた二人であったが、高校に入って以降は晴子に付き合いバスケ部見学をするのが日課のようになっていた。というのも、ひとえに晴子が中学時代から片思いしていた流川楓と同じ高校になったからである。
 むろんバスケ好きの晴子ゆえに流川のみが目当てだったということはないのだが、それでも彼女に付き合いバスケ部を見学しているうちに二人にとってもすっかり湘北バスケ部は身近な存在になってしまった。
 晴子が正式にバスケ部のマネージャーとなってからもちょくちょく二人は見学に繰り出し、休みの日にはこうして差し入れを届けることもある。今日もそれだ。

「わあ、ありがとう! 助かるわ、この時期ってドリンク消費量すごくって」
「まあ、蒸し暑いからね」

 届ければさっそく満面の笑みを浮かべた晴子をよそに熱気の籠る体育館を見渡して松井は思わず手で風を仰いだ。そうしてふと気づく。
「あれ、流川君は……?」
「あ、そういえばいないね……」
 呟けば、隣にいた藤井もいま気づいたとばかりに目を瞬かせた。
 ああ、と晴子が頷く。
「実はちょうどいま練習終わったばっかりなの。でも数日ぶりの部活だからかみんな残ってて……流川君だけすぐにあがっちゃったのよね」
「へえ、珍しいわね……!」
 あの人が、と松井にしても少しだけ声が跳ねた。知る限りの彼はバスケをしている時のみようやく精気の宿った人間だと認識できる程度には普段はうすぼんやりとしており、ゆえにバスケにかける熱情も人一倍だったはずだ。少なくとも松井は流川に対してそのような理解をしていた。そんな彼が一番に練習をあがることなど珍しいに違いない。
「なんか用事あったのかな……」
 藤井も同じ思いだったのか不思議そうにしており、さあ、と返しつつ松井は晴子を見やる。
「ま、アンタは残念だろうけどね。流川君帰っちゃって」
「そ、そんなことないわよう! さっきまで一緒だったんだし……流川君だってたまには他に用事くらいあるに決まってるわ」
 慌てふためく晴子を見つつ、松井は無表情のまま考える。――実を言うと、早めに練習を切り上げた流川の用事。というのには何となく心当たりがある。というのも……などと考えていると「邪魔しないうちに行こう」と藤井に促された。晴子はしばらく彼らの自主練に付き合うらしい。待っていてもいつ終わるか分からないということで、松井も頷き二人そろって体育館をあとにした。
「にしても暑いわねー」
 体育館を出たら出たで照り付けるような太陽が二人を見下ろしてきて松井は零した。藤井にしてもややげんなりした顔をしている。
 普段は藤沢駅まで歩いている二人であったが、さすがにこの炎天下で長々歩くのは無理だと今日は最寄りの藤沢本町を使うことを決めていつもとは違う道へと足を向けた。
 湘北の最寄り駅は藤沢本町であるが、ターミナル駅である藤沢駅で乗り換えなければならない生徒が多数であるため実は通学に最寄り駅を使っている生徒はそうは多くない。定期代がかさむうえに通学時間の短縮が図れるかといえば大差ないからだ。
 しかしこの暑さでは致し方ない。といつもとは逆方向に歩いていくこと5、6分。高架下をくぐった先の線路を渡れば駅というところまできて「あれ」と藤井が足を止めた。
「? なによ」
 つられて松井も足を止め、彼女を見やる。
「あれ……流川君じゃない?」
 言われて松井が藤井の目配せした線路の先に視線を投げれば、確かに駅の入り口付近の電柱に寄りかかっているらしき長身の影が見えた。その横には見覚えのあるママチャリが停めてある。
「ホントだ……」
「誰か待ってるのかしら……。あ、それで居残り練習しなかったとか」
 予想外な人物を見つけたせいかやや狼狽えたような藤井の声を聞きつつ、松井は若干唸っていた。どうするべきか。彼の待ち人に心当たりがかなりある。
 とはいえ、だ。結局のところは自分たちには関係がないことであるし、気にするのも変だと結論付ける。
「ま、私たちには関係ないし、行きましょ」
 そうして藤井を促していると遮断機が音を鳴らして点滅し始めた。降りてくる遮断機を見やりつつ、ゆっくり歩いていけば待つ必要もないだろうと歩き進めていると予測通り高架下を潜り抜けたあたりで遮断機は上がり、何事もなく線路を渡っていく。
 ちらりと視線を前に向ければ、流川は熱心に改札の方を見ているように思えた。おそらくいまの電車で降りただろう誰かを待っているのだろうな。と感じていると、若干だが……本当に若干ではあるが松井の目に流川の表情が緩んだように見えた。
 あんな顔、学校では絶対見せないわね。などと思っていると、松井の視界に見覚えのある長身の少女が流川に駆け寄る様子が見えた。――あ、やっぱり。などと思っていると急にグイっと腕を引っ張られてガクッと松井の身体が揺さぶられた。藤井に引っ張られたのだ、と自覚した時には線路を渡った先の建物の陰に強制的に隠れさせられるような態勢となってしまっていた。
「なにすんのよ」
「ご、ごめん、でもびっくりしちゃって……! 流川君が女の子と待ち合わせなんて……!」
 普段から大人しい藤井は予想外すぎる出来事にパニックになったのだろう。見てはいけないことだとでも思ったのかとっさに物影に隠れるような行動を取ってしまったらしい。
 ハァ、と松井はため息を吐く。
「私たちが隠れたってどうにもなんないよ」
「う、うん……でも」
 ちらりと物陰から駅の方を見やったらしき藤井は再びパッとこちらに身体を隠した。
「こ、こっちに来ちゃった……!」
「そりゃそうでしょ」
 もはや呆れて言葉もなかったが、こうなった以上は彼らが通り過ぎるまで待つか、と腹をくくる。そうこうしているうちに、カンカン、とまた遮断機が鳴りはじめ――松井は乗るはずだった藤沢行きを一つ見送ることを覚悟した。
 幸いにも流川たちはこちらに気づかず、遮断機前の道路脇で足を止めた。ママチャリを押す流川を見上げている彼女はこちらからは後ろ姿しか見えないが、雰囲気から仲良さそうに話しているのが分かる。などと思っていると藤井が耳打ちしてくる。
「もしかして流川君のお姉さんかな? 背が高いし」
 ――それ、私も思ったのよね。などと今年のバレンタインに晴子の家で彩子とかわした会話を思い出している最中、事件は起きた。
 遮断機が降り切って電車が通り過ぎ始めた時。流川がママチャリを支えていない方の左手で彼女の頬から側頭部に触れるような仕草を見せた。後ろ姿しか見えないものの、流川が少しかがんで二人は重なり合い……。
「キ、キス――ッ!!??」
 天下の往来でようやるわ、などと人ごとのように思う松井の横で、驚きのあまりか大声をあげた藤井の声は幸いにも轟音を鳴り響かせる遮断機と電車によって見事に掻き消された。
 そうして硬直する彼女とは裏腹に遮断機があがれば彼らは仲良さげに寄り添ってさっさと線路を渡って行ってしまった。
「おーい……藤井? ちょっと大丈夫?」
 しばらくしてまだ固まっていたらしき彼女を見やると真っ赤になって目を瞬かせており、さすがにしょうがないか、と松井は肩を竦める。
 そして取り合えず駅に行こうと促し、自販機にて冷たいドリンクを購入して次の電車を待つために人気のないホームのベンチに座った。
「落ち着いた?」
「……うん……。でもほんとびっくりしちゃって……。流川君に恋人がいたなんて、晴子になんていえばいいの……」
「あー……そのことだけど、実は私知ってたのよね。もうけっこう前から」
「え……ッ」
「まあ流川君に恋人がいるかいないかは晴子にはあんまり関係ないんじゃない」
 もともと成就するには難しい恋だったし。とはさすがの松井も口には出さなかった。が、藤井は悟ったのだろう。ん……と言葉を濁している。
「でも……ほんとにびっくりしちゃって。流川君が……そ、その、キス……とか」
「ま、あの人も案外フツーの男だってことでしょ」
「そ、そうよね……」
「むしろ試合中しか流川君の良さがわかんなかった私はちょっとだけ好感度あがったわね」
 そんな風に言っていると、ん……とさらに藤井は言葉を濁しつつ持っていたジュースの缶を握り締めた。
「私も……少しクラスの女子がうわさしてるの聞いたことがあったの。流川君が女の人と一緒にいるの見たとか見ないとか。単なるうわさだと思ってたんだけど……」
「へぇ……、あの人もあの彼女も目立ちそうだものね。こんな学校の周りうろうろしてたら見られても仕方ないというか、流川君そんなの気にしてなさそうだけど」
 でなければいくら隠れていた自分たち以外は無人だったとはいえキスなんてしないだろうし。そもそも流川からすれば隠れて交際する理由などないのだろうから、あれが正解なのだろう。
「まあ親衛隊あたりが見ちゃったら大騒ぎになるかもしれないけど」
「あの人たち流川君のことになると凄いから……、でもそれより晴子が……」
「言う必要ないんじゃない? そのうち自分で気づくかもしれないし、流川君が言うかもしれないし。私たちが口出すことじゃないでしょ」
 言いつつジュースで喉を潤すと、少し間をおいて「そうよね」と藤井も小さく頷いた。

 その後、二学期が始まってもしばらくは流川の顔を見るたびにキスの光景が蘇るのか顔を赤らめていた藤井に「藤井ちゃんひょっとして流川君の事が……」と深刻な誤解をした晴子から相談を受け、松井がこの上なく遠い目をするのはもう少しだけ先の出来事である。


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