――その日は、土曜だった。


 仙道は釣りに出かけ、息子は部屋で昼寝。
 久しぶりに優雅な午後を満喫……とが思っていた時の出来事だった。ふいにインターホンが鳴った。
 土曜のこんな時間に誰だ? と思いつつ出てみる。

「ハロー?」
「流川す」

 え……とその声には目を見開いた。
 今日は流川や桜木が来る予定の日ではないというのに。と不審に思いつつも急いでドアを開ける。するとよく見知った流川が、しかも大きなスーツケースを携えて立っておりは驚きながら取り合えず彼を家に入れた。
「ど、どうしたの急に……それにその荷物……」
 すると流川はどこか憮然とした表情を浮かべる。
「何度も電話した。そっちが出なかった」
「え……、いつ?」
「昨日ずっと」
 言われて、ああ、とは納得した。昨日は夜遅くまで仕事をしており帰宅時間がかなり遅かった。仙道も仕事が立て込んでいて……と放置したままだった電話機に近づいてみると留守電が数件。再生すると確かに流川の声で今日ここに寄りたい旨を告げており、は額に汗を浮かべつつ「ごめんね」と謝る。
「でもどうして急に?」
「明日……ドイツに発つ」
「え!?」
「移籍が決まった。明日はトロントからそのままドイツに行く」
「え、ちょ、ちょっと……移籍って」
 いきなりなことに驚き、やや混乱したはハッとして「そうだ」と言った。
「彰くんいま釣りに行ってていないの……、夕方には戻ってくると思うけど」
 ともかくも流川がわざわざここに来た理由は仙道に他ならないだろうと思い言えば案の定だったのか「は?」と流川の目線が鋭くなる。しかし。
「あの無責任ヤロウめ」
「え……?」
「休日に妻子置いて釣りとか無責任」
 予想外にも流川から出てきた言葉はそんな言葉で、はあっけに取られたのちに小さく笑った。
「大丈夫よ、まあ……たまにだし」
 実際は結構な頻度だったが大きな不満があるわけでもないのでそう答え、取り合えずは流川にリビングのソファに座るよう促す。
「紅茶でもいれるね。ちょうど美味しいフルーツケーキがあるの」
 ともあれ流川は別れの挨拶に来たようであるし、と準備をしつつハッとする。そういえば数週間前――。

『流川くんが拘ってるのはアメリカ……? それともマイケル・ジョーダンだけ?』
『どういう意味すか』
『アメリカとかNBAに拘らなければ、バスケはどこでもできると思う』

 そんな会話をしたような……と思いつつ、まさかね、と考えながら紅茶をいれケーキを切ってソファテーブルへと運んだ。
「でも驚いちゃった……、こんなシーズン開幕の直前に移籍なんて」
「あんたが言った」
「え!? あ、そうだけど……でもよく移籍先見つかったね」
「試合のビデオをあちこち送った。ユーロリーグとかセリエA、リーガACBにメインに送ったんすけど……」
「オファはドイツからだった、と」
 こく、と流川が頷く。
 にしても、と思う。決めたら決めたでこれほどすぐ動くとは。相変わらず行動力がないようである流川らしい出来事とも言える。
「それで、桜木くんはなんて?」
「カンケーねー」
「ま、まあ……そうかもしれないけど」
 とはいえ桜木の方はショックなのでは。全日本でどのみち一緒にプレイはするのだろうが。などと考えていると、半分ほどケーキを食べた流川が、カタ、とフォークを皿に置いた。
「キャプテンが……前にコーチとオレは似ていると言ってた」
「キャプ……、ああ大ちゃんのこと?」
 こく、と流川が頷く。藪から棒になんだ、と思いつつもは考えを巡らせた。どうせ全日本の合宿等で流川と一緒にプレイした諸星が昔の自分を思い出したのだろうな、と結論付けて肩を竦める。
「流川くんも知ってると思うけど……私、昔バスケをやってた時はフォワードだったの。大ちゃん曰く、典型的でこてこてなフォワードらしくて……流川くんには悪いと思うんだけど、高校生の時から流川くんを見るとちょっとだけ自分に似てるな……て思うこともあったかな」
 その感情は決して好意的とは言えないものだったが。と10年以上も前の出来事を思い浮かべつつ、神妙に聞き入っているらしき流川を見てハッとする。
「あ、ごめんね。私が……ていうか私と大ちゃんが勝手に思ってただけだから」
「別に」
 流川は紅茶の取っ手を手に取って口につけ、下ろしてから真っすぐを見やった。
「オレはあんたのプレイが好きだった。悪い気はしねえ」
 言われて、カッとの頬が熱を持つ。こんなにストレートに言われたのは初めてのことだ。
「そ、そっか……。あ、ありがとう」
「今さら……昔のことをどうこう言う気はねーけど、オレはあんたと1on1がやりたかった。もう少し見たい技もあった。あの時……仙道に邪魔されなきゃあんたは受けてくれたのか?」
 真っすぐ瞳を見据えられては少々困惑してしまう。これほど長い会話を流川としたのは初めてのことかもしれない。それに……流川が言っているのは10年以上前の国体でのこと。そんな昔のことを、と思いつつも当時の事を思い出す。

『練習相手してほしいんすけど。1on1で。時間外に』
『……コーチの、清田にチャージングされた時のドライブインのドリブル……、あれどうやったんすか?』

 確かあの時、連携プレイを教えるはずが自分の個人スキルに興味を抱いたらしい流川と言い合いをした覚えがある。その際に仙道が助け舟を出すように来てくれた記憶はあるにはあるが……と首を振るう。
「彰くんは関係ないよ。うん……いま思えば、流川くんが私相手でもコートでは気にしないで1on1したいって言ってくれたの、嬉しかった。自分でも思うけど、たぶんちゃんとルールを決めたら良い勝負できたと思う。惜しかったな」
「だからあの時そう言った」
「ごめんね……、あのあと流川くんとももう少し話がしたいと思ったんだけど、合宿の時間が限られちゃっててあんまり時間取れなかったからね」
 でも、とはさらに思い出して笑う。
「流川くん、私があの時ドライブでやってみせたステップをインターハイ予選でやってくれたんでしょ? その話を聞いた時、私すごく嬉しかった。まあ、教えてないのに覚えられちゃってたのはちょっと複雑だけど」
 ふふ、と笑うと流川はむっとした表情を浮かべる。
「あれはブロックされた」
「彰くんに聞いた。彰くんもやったんでしょ? 私その試合観てないから残念だったな」
「決まってないんじゃ意味ねー」
「そ、そんなことないよ。えっと……」
 今さら、ではあるが特に悪いことをしたわけではなくタイミングの問題だったのだが。しかし罪悪感が……と思いつつは流川から目線をそらす。
「あのステップ……彰くんや神くんたちが自主練してる時に聞かれたから教えたの。だから流川くんの方がすごかったんじゃないかな……」
 自力で覚えたぶん、とやや後ろめたいままに言うと流川の目線の鋭さが増した。
「あ……!?」
「ご、ごめんね! ごめん……あの、次の日の練習後とかに流川くん探したんだけど……いなかったし」
「……走ってた……」
「そ、そっか」
 互いに合点がいった、と10年前の出来事のピースを埋め、は笑った。
「ねえ、ドイツとはシーズン契約?」
「シーズン終わったらすぐ五輪の準備あるし、来シーズンは取り合えず五輪終わってから考える」
「そっか、そうよね」
「コーチは――」
 そうして話していると、子供部屋の方からガタっと音がしてハッとは立ち上がった。
 ごめん、と足早に部屋に向かうと案の定昼寝から覚醒したらしき息子がおり、寝間着を着ていたため部屋着に着替えさせて共に部屋から出た。
 リビングに戻るとすぐに客人の姿に気づいたのか「あ!」と目を輝かせて彼は走り出す。
「かえでー!」
 走り寄ってソファによじ登ろうとしている息子をさすがに気遣ったのかひょいと抱え上げた流川が自分の隣に座らせた。いくぶん普段より表情が柔らかい。
「さくらぎ? さくらぎ??」
 流川がいれば桜木もいるとインプットされているのかキョロキョロと辺りを見回している息子に流川は困ったように背を丸めた。
「どあほうはいねえ」
「さくらぎいない?」
 瞬間、悲しそうな顔をする息子に若干狼狽えている流川を見やっては慌てていくつか遊び道具を持ってきた。
「そろそろ彰くんも帰ってくると思うんだけど……。流川くん、ちょっとこの子見ててもらってていい?」
「は……?」
「私、夕飯の用意するから。といっても見えてるからなにかあったらすぐ言って」
「はあ……」
 気の抜けたような返事をする流川を見つつ、はキッチンへと向かう。
 予想外の来客だが、流川は特に大食いというわけではないし大丈夫であろう。と、冷蔵庫から食材を取り出して準備にかかる。
 幼児用のボードゲームに興じている彼らは上手くやっているようだ。
 というか息子があまりに桜木に懐いており気づかなかったが、流川は案外と小さい子が好きなのかも……とその光景を見やりつつ大方の準備が終わったころ。
「ただいまー」
 ようやく仙道が帰宅して、息子は一目散に父親めがけて駆けて行った。
「おかえりなさーい!」
 そのまま右足に抱き着いている息子をそのままに、仙道の表情が固まる。ソファに座っている主を見たためだろう。
「流川!? おめー、なんでここに居るんだ!?」
「てめーこそこんな遅くまでなにしてやがんだ」
「なにって、釣りだけど……。ちゃん、どうなってんだ?」
「えっと……まあ、かくかくしかじかというか」
 苦笑いを浮かべつつ経緯を話せば、さすがに仙道も流川がヨーロッパに移住することには驚きを隠せなかったようで終止目を白黒させていた。
 夕食を済ませ、夜も更けたところでは息子を寝かせ、自身は風呂に入ってあがると仙道と流川はソファに座ってワインやらウイスキーやらを並べている。
「呑むの……?」
 声をかけつつも流川とはしばらく会えなくなるのだから男同士で積もる話でもあるのだろう、と先に休む旨を伝えて寝室に移動する。
 日付が変わる頃になってもリビングからは明かりが漏れているのを見て、肩を竦めつつはベッドに入った。
 流川と仙道がそれほど仲が良かったとは思えないが。なにを話しているのだろうか……とまどろむこと数時間は経っただろうか。ギシ、とベッドの軋む音と振動が響いては目を開けた。
「彰くん……?」
「ワリぃ」
 目の前を覆う人影から仙道の声がし、ホッとしては再び目を閉じた。そうして再び微睡もうとしていると仙道の胸に抱き寄せられては身をよじる。
「なに……?」
「いや別に」
「んー……もう、お酒くさい」
 抵抗するが眠気が勝っては大人しく仙道の腕に抱かれたまま瞳を閉じた。彼の唇が瞼のあたりに触れた気がしたが、それさえも夢の中での出来事のようだった。


 翌日――。

「頭ガンガンする」
「オレも……」

 見事に二日酔い状態らしき二人に呆れつつ朝食を済ます。
 流川は午後1番の便でドイツに発つらしく、食後に少しゆっくりしたのちにの運転でみんな揃って空港へと向かった。
 そうして保安検査の入り口まで来れば彼とはしばしの別れである。

「んじゃ、次に会うのはアテネでだな」

 手を差し出した仙道の手を流川はパシッと弾き、仙道もそうされるのが分かっていたのか、ふ、と笑みを深くした。
「ドイツでも頑張ってね」
「うす」
 声をかけると流川が真っすぐの目を見やり――、一瞬その瞳に捕らわれてしまう。
 彼はこんなにも相手の目を真っすぐに見つめる人だったんだな……と今更ながらに気づき、一度軽く頭を下げて保安検査へと向かう彼の背に手を振った。
 行っちゃったね、と仙道と顔を見合わせ、帰ろうかと踵を返す。
 きっと流川にとっては新たな挑戦となるだろう。慣れ親しんだアメリカを離れての異国での挑戦。しかもオリンピックイヤー。でも彼ならそういう困難に立ち向かう方が合っているのかも、と考えていると「なあ」と息子を抱えた仙道が声をかけてきた。
「昨日、なに話してたんだ? 流川と」
 え、とは瞬きをする。昨日……と昨日交わした流川との会話を思い出して小さく笑った。
「秘密」
「え!? ちょ、ちょっ……まさか、なんかあったとかねえよな?」
「なにかってなによ。あるわけないでしょ」
 焦ったような仙道に呆れたように返事をし、はすたすたと駐車場へと向かった。
 外に出て見上げた青空には幾重もの飛行機雲が伸びている。あの雲のように、流川は流川のバスケ人生を真っすぐ歩いて行って欲しい、と願いつつは少しだけ口元を緩めた。


 その後――ブンデスリーガに電撃移籍した流川はチームのリーグ優勝に大きく貢献して各欧州の国際カップを幾度となく経験することとなる。そのまま彼はアテネ五輪でナショナルチームのメンバーとして銅メダル獲得の立役者の一人となった。
 その流川のバスケットキャリア後半での転機のきっかけとなった裏話は――二人以外は誰も知ることのない話である。



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