――もしも、たった一つ、もしも願いが叶うなら。選ぶ願いは、決まっていた。



 1991年、3月、下旬。
「寒い……!」
 約一年ぶりに感じる日本の空気は、ひんやりと冷たかった。
 入国審査を受けてターンテーブルから荷物をピックアップし出口へ向かうと、熱心にこちらを見ながらキョロキョロしている中年の女性が目に入った。目が合うとパッと明るく笑みを浮かべてこちらに手を振ってくれる。

ーー!!」

 心持ち早足で歩いていくと、その女性はきつく自分を抱きしめて声を弾ませた。
「おかえりなさい! まあ髪が伸びてすっかり可愛くなったわね……! 元気にしてた?」
「うん。叔母さんは……?」
の顔見たら元気になったわ。姉さんは元気?」
「元気元気。でもしばらく忙しいからこっちには戻れないって」
「そう……。もっと簡単に連絡取り合えるような便利な世の中になればいいのにね」
 頬に手をあてて言う叔母の声を聞きながら荷物を持って車に乗り込む。空港を出ると、久々の日本らしい――だが見慣れない風景が広がっていた。
「叔母さん、神奈川はどう?」
「住みやすくて気に入ってるわ。でも、一番ここを気に入ってるのは紳一かしらね」
「お兄ちゃんの希望でしょう? 海のそばがいいって……」
「それもあるわね。紳一ったら、部活のない時間を見つけてしょっちゅうサーフィンボード持ち出してるもの」
 叔母の声を聞きながら東京湾沿いを走る風景を見やる。東京を通って神奈川に入り――叔母の家に着いて荷物を片づけると、時差ボケの気だるい身体のまま外に出た。
 ツン、と広がる潮の匂い。探るように道を歩いた。左手に「江ノ島」が見える。
 ――ここは「愛知」ではない。
 少しだけホッとして歩いていく。桜の開花まではまだ少し日数が必要らしい。
 今日からこの湘南で生活するのか……、と感慨にふける。
 相模湾に背を向けて、少し入り組んだ住宅街に入って、目の前に公園を見つけてハッとした。
「あ……」
 公園の一角はフェンスに囲まれており――、誰もいない空間にバスケットゴールと、忘れたように転がっているバスケットボールが目に入った。
 無意識にごくりと喉を鳴らした。


 思い出すことのできる一番古い記憶は、夕暮れ色に染まる公園。毎日毎日、泥だらけになってボールを追っていた。毎日毎日、3人で。
 当たり前のように続いていくと思っていた日々が、生まれた瞬間から不可能だったと気づいたのはいつ頃だっただろう?
 どうしようもない、とうにもならないことを受け入れるしかなかった中学二年の晩夏。
 いつもの公園の、オレンジ色の空間。
 やけに暑くて、夕焼けが目にしみて――、いまも、時おり思い出しては鈍く胸を締め付けている。


 あれから2年近くが経つ――と、引き寄せられるようにフェンスのドアを押して中へ入った。
 そっと転がっていたボールを手に取る。
「…………」
 懐かしい感触。湧き出てくる感情を押し殺すように唇を噛んだ。そうして目線をゴールの方に送った。
 スリーポイントくらいの距離があるだろうか? 数回突いて、シュッと空へボールを放った。

 ――あれから2年。ここは、神奈川。けれど、まだ、忘れていない。

 確認するように、そっと自分の両手に瞳を落とした。


***


 ――初夏。6月中旬。

「今日ってまだベスト16の試合でしょ? お兄ちゃん、いくの?」
 土曜の早朝、いそいそと「海南大附属高校」のジャージに身を包んで出かけようとする兄――正確には従兄であるが――の牧紳一に牧は声をかけた。
 すると、紳一は振り返って「おう」と頷いた。
「今年は陵南にいいルーキーが入ったって噂でな。偵察だ」
「陵南……、ああ、あの海沿いの……」
 は発せられた「陵南」高校を浮かべた。自宅からも頑張れば徒歩圏内に位置する江ノ島電鉄沿いの「陵南高校前」駅そばに建っている県内でも随一のロケーションを誇る高校だ。
 紳一は当然のように「お前も行くだろ?」と言った。が、すぐにハッとしたように眉を寄せる。
「あ、いや。無理にとは言わんが……」
 気遣うような視線には苦笑いを漏らした。
 ――あれから、既に二年が経とうとしている。
 大丈夫だ、と自分に言い聞かせるように「行く」と返事をしたは、すぐに出かける準備に取りかかった。

 家を出ると、ツン、と潮の匂いが鼻孔をくすぐった。
 神奈川に越してきて数ヶ月が経とうとしている。けれども昔から海のそばには縁があるらしく、潮の匂いは嫌いではない。風も心地よく、は自然と笑みを浮かべていた。

 紳一とは、ここ神奈川ではなく――中部に位置する愛知県の海にほど近い場所で兄妹も同然に育った。
 もともと紳一の母との母は一卵双生児の双子ということもあり、遺伝子的にはほぼ本当の兄妹である。加えて二人が幼い頃は互いの父親が海外転勤を繰り返しており、特にの父親は危険地帯も多く、赤ん坊を抱えて危険を感じた母は自身の「実家」に預けるという結論に至ったらしく――二人の「実家」は同じとなった。の母は夫の勤務地に居ることが多く、大部分の時間を共に過ごしたのはにとっては叔母の方でもあるため、互いに既に実の家族も同然である。

 自身が中2の終わり頃、紳一たち一家は神奈川に引っ越し、は逃げるように海外の親元に戻って進級した。が、の実父が春先から仕事場を中東に移すことが決まり身を案じた双方の両親が――特に叔母が強く帰国を促しても帰国を余儀なくされた。
 ――愛知には戻りたくない。
 の意志はもとより叔母は神奈川にを連れ戻す気であり、結局のところは叔母の意向で紳一と同じ海南大附属高校入学と同時に神奈川の紳一の家で暮らすこととなり、今に至っている。

「海南は、試合は明日から?」
「ああ、今日も午後から練習だ」
「今年は……15年連続優勝がかかってるんだっけ?」
「16年だ、16年」
 道すがら、そんな会話を繰り広げながらは朝靄に目を細めた。
 古巣の愛知にいた頃――いつもこうして紳一と、そしてもう一人、二人にとって「幼なじみ」にあたる少年とともにいた。共に物心ついた頃から毎日、オレンジ色の大きなボール――バスケットボールを追って日が暮れるまで遊びに練習に明け暮れていた。小学校の頃は男女の差はなく、むしろ女子の方が成長が早く、なんでも対等に渡り合えていたというのに――と昔を思い出しては小さく首を振るう。
 紳一も、"彼"も、そして自分も――おそらく「天才」と形容するに遜色のない才能を持っていた。実際、紳一たちは愛知代表として全中に出場し、紳一の神奈川移住を聞きつけた全国でも屈指の名門「海南大附属高校」バスケットボール部は紳一にスカウトの声をかけた。受け入れた紳一は一年の頃から名門・海南のエースとして引き続きその名を全国に轟かせている。
 二人とも今なおスター選手。ただ自分だけがあの場からドロップアウトしたんだ――、とは天を仰いだ。
 既にバスケットから離れて二年近くが経っている。あの「諦め」を受け入れなければならなかった晩夏の日以降――、紳一はバスケの話題に関してに気を遣っていたし、も逃げるように一年ほど両親の元に戻り日本を離れていて。表面上はすっかり吹っ切れている。事実、は吹っ切れていた。ただ、中学二年だったには受け入れがたい事実だったという苦みが残っているだけだ。ただ、それだけのはず。
 程なくして試合会場が見えてくる。全国のバスケットボール選手がもっとも熱狂する夏のインターハイ県予選、ベスト8を決める試合が行われるのだ。
 しかしながら会場が観客で埋まるのはベスト4が出そろいインターハイ出場校を決める決勝リーグからであり、今日の会場はガラガラだ。二人は最前列の特等席を陣取りウォームアップに出てきた両校の選手達を見下ろした。
「陵南、か……。あの人は? お兄ちゃん」
 紳一の言う「陵南」は青のユニフォームを着ていた。とりわけ目を引いていたのは、周りの選手から頭二つ以上も違う長身の選手だ。あまりの大きさにが少しばかり目を丸めると紳一は少し肩を竦めた。
「あいつは二年の魚住だ。確か今大会の公式記録では2メートルだったか……。高さだけは県内トップだな」
「2メートル!? へー……」
「陵南の監督とウチの監督はライバルらしくてな。打倒・海南を目指して魚住を神奈川トップセンターに育て上げようと躍起になってるらしいぞ」
「あ、そっか。ウチってセンターそこまで強烈じゃないよね。お兄ちゃんはガードだし、キャプテンってフォワードだったよね確か」
 ボールで床を打ち付ける音。バスケットシューズと床の擦れる音。いやでも聞こえてくる。懐かしさに胸中を複雑さで滲ませ、は両校の選手をぼんやり目で追った。そうこうしているうちに魚住選手が豪快なダンクシュートを決め、ワッと会場を沸かせる。横で同じく陵南の青いユニフォームを纏った一人の選手が淡々とドリブルに精を出しており、は何となくそちらを見やった。
「あの人は?」
「ん……?」
「陵南の13番。けっこう大きいみたい。190センチ近くあるんじゃないかなぁ……。うん、絶対そう。たぶん"大ちゃん"くらいだと思う、あの人。大ちゃん、いま185センチくらいまで伸びたんでしょう?」
 が言うと、紳一は一瞬だけハッとした表情を晒し、ああ、と小さく笑った。
「あいつだ。家を出るときに言った噂のルーキー。陵南の一年、仙道彰」
「へえ、一年生……」
 同い年なんだ、と呟いたに紳一はさらに続ける。
「なんでも、陵南の監督が東京から引っ張ってきたって話でな。ここまでブッちぎりのオフェンス力で勝ってきて、今年の新人王と得点王は間違いないとまで言われてるヤツだ」
「得点王!? え、お兄ちゃんスコア表持ってる!?」
「いや、ないな」
 瞬間、思わず染みついた「バスケット脳」が姿を現してはハッとした。紳一も目を丸めながらも緩く笑い「相変わらずだな」と言いたげに肩を揺らしている。
 逃げても逃げても、逃げられない情熱と、早すぎた「諦念」と。こみ上げた感情を押し殺しては少しばかり頬を膨らませた。

「いけいけ陵南! おせおせ陵南!」
「フレー・フレー・津・久・武! フレー・フレー・津・久・武!」

 そうこうしているうちに審判がティップオフを宣言し、神奈川ベスト8を決める試合が開始された。
 無意識にはコートをかける選手に紳一と、自分と、そして自ら"大ちゃん"と呼んだ少年の姿を重ねて追った。
 大ちゃんだったら、紳一だったら、自分だったら。いやでも昂揚してしまう。いつしか「自分だったら」という想像が果てしなく虚しいものとなってからも、この昂揚はそうそうには抑えられないものだ。
「ナイスリバンッ、9番!」
 陵南の魚住がゴール縁にあたって跳ねたボールを見事にキャッチし、思わずは手を叩いた。横で、フ、と紳一も笑う。
「ゴール下の魚住に対抗できる選手は、津久武にはいない。あいつも去年より上手くなってるしな」
 地力は誰の目にも圧倒的に陵南が上に見えた。なにより――面白いことにまだ一年生である13番の仙道彰にボールが渡ると会場がどよめくのだ。それもそのはず――陵南の得点の8割強はこの一年生ルーキーが一人であげていた。むろんチェックも厳しく、津久武の選手はゾーンで囲うように仙道からゴールを守っているが、彼はそれをものともしない。
 スピード、カットイン、ドリブル、そしてテクニック。明らかに一人抜けている。
「やれやれ、噂通りってわけだな」
 の隣で紳一が肩を竦めながらもどこか楽しそうに言い、は2、3度瞬きを繰り返して無意識に、ゴク、と喉を鳴らした。ゴール下の仙道が、ブロックを二枚かわして鮮やかにダブルクラッチからのシュートを決めたからだ。
「大ちゃんみたい……」
「ん……?」
 呟いた先で陵南のスコアボードに50点目が記された。前半残り5分。――後半に入ってからも陵南の攻めは続いた。津久武も負けじと食らいついてはいるが、点差は既に奇跡が起きても埋まらないまでに広がってしまっている。

「いけいけ陵南! おせおせ陵南!」
「いいぞいいぞ仙道! いいぞいいぞ仙道!」

 陵南応援席ははやくも勝利を確信して踊っていた。そして――ラスト五分。今日で一番鮮やかな仙道のダンクシュートが決まった瞬間には声をあげた。
「大ちゃんだ……! ううん、大ちゃん以上の選手だ、あの人!」
「は……?」
「お兄ちゃん、あの人、大ちゃんより凄い選手になるよ、絶対! 初めて見た……、大ちゃんより凄い人……!!」
 興奮気味にが告げ、紳一は面食らったように口元をパクつかせた。
「諸星以上って……、言い過ぎなんじゃないか……」
「そんなことない! いまにぜったい、そうなるよ!」
 諸星こと諸星大――大ちゃん――とは二人の幼なじみであり、共にバスケットに励んできた少年である。いまは愛知切っての名門・愛和学院のエースとして、「愛知の星」と呼ばれ親しまれ、紳一と共にその名を全国に轟かせる存在となっていた。
 にとっても、紳一にとっても、幼い頃からの「ライバル」でもあり、が最後に勝てなかった相手でもあり、そして自身がいままでで「最高の選手」だと信じていた相手でもある。
 そんな幼なじみでもあり「親友」でもある諸星がこうもあっさりと「大ちゃん以上」などと宣言されて紳一としては苦笑いを浮かべるしかない。
 しかしながらそれだけ目の前の一年生ルーキーは可能性を秘めており、近い将来に敵として相対するだろう仙道へ向けて強い視線を送った。

 試合は陵南の圧勝。これにより陵南は次の試合にコマを進めることになったものの――紳一は自身の所属する海南大附属と陵南が決勝リーグで相対するだろう事を既に確信していた。
 試合も済み、紳一は午後からの練習に備えるべく足早に会場を去ろうとした。が、フロアで2メートルの巨体を目にして思わず足を止める。
「あ、9番! ……魚住さんだ」
 横にいたも小さく呟いた。目線の先には先ほどまで激闘を繰り広げていた陵南の魚住と、そして仙道が水分を取りながら談笑している。

「牧……!」

 先に魚住の方が気付いたのか紳一に声をかけてきて、紳一も応じた。同学年で互いに名の知れたバスケット選手。交流もあるのだろう。
「よう、魚住。噂通り、いいルーキーを手に入れたようだな」
 チラリと紳一は魚住の横にいた仙道に目線を流した。自然と後を追ったも仙道の方を見やる。なにやら短髪を立てたハリネズミのような頭をしており、実際の身長よりも高く見えた。
「ども。海南とあたるのは決勝リーグですね」
「そっちがうまく勝ち進めばな」
 紳一の軽い挑発とも取れる言葉を受けて、仙道は軽く返事をしていた。よく響く低い声だが、どこかあっけらかんと軽いノリである。
 諸星以上の選手、とジッとが仙道を見上げると、不意にバチッと仙道と目があった。すると仙道は――予想外に、なにか言いたげに垂れ気味の瞳を大きく見開いた。
「あれ、君は……」
「え……?」
 まじまじと仙道に見つめられ、は半歩ほど後ずさりをした。仙道は、どこかいぶかしげで探るような視線をなおもの方に向けた。
「海南の生徒だったんだ……?」
 一人ごちるように仙道が呟き、も、紳一も魚住さえも首を捻った。確かには海南の制服を着ていたが――と考える間もなく、仙道の視線は紳一に向かった。
「ひょっとして、牧さんの彼女ですか? この子」
 途端、魚住は面白いように目を点にし、は頬を引きつらせ、紳一も同様に頬を引きつらせた。
「いや……。妹だが……」
 正確には従妹だが、との言葉を飲み込んで紳一が絞り出すと、「妹!?」と魚住はなおも目を白黒させて紳一との顔を交互に見、仙道にいたっては「なんだ」と軽い声を出して手を叩いた。
「妹か。うん、妹ね……」
 そしてズイッとのほうに身を乗り出したものだから、はさらに後ずさりを強いられる。
「な、なに……?」
「君、名前は?」
「え……。ま、牧、……」
 です、けど。と同い年だというのに警戒心たっぷりに答えると、目の前の仙道はにこっと目を細めて笑った。
ちゃんかぁ。……ねえ、ちゃん」
「はい……?」
「オレと付き合わない?」
 その後のことを――は正確には覚えてはいない。
 ただ、その場の空気が凍り、魚住が仙道を怒鳴りつけ、紳一は開いた口がふさがらず、はただただ目の前の期待のルーキーに不信感だけを募らせて帰ってきたのだった。



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