Yes or No? - ナイトメア -






トッキューの新人研修が始まり、三ヶ月が過ぎようとしていた。
目に付く木々の葉が淡く色付いてきたころだろうか? 真夏の焼け付くまでに暑い空気も今やすっかり冷え、あの頃あの太陽のもとで駆けていた同期五人も今や四人となってしまった。

ある非番の前日――、大羽廣鷹は本日の訓練を終えると一人帰路から外れ、港に沿って赤レンガ倉庫へと向かう道のりをあてもなくトボトボと歩いていた。ぼんやりと次第に暗くなっていく海を眺める。耳に響く波の音は静寂を誘い、こうしていると先ほどまで訓練をこなしていた防災基地がまるで外の世界のようだ。どことなく感傷的な気分を覚えていると、ふと先方に見覚えのある人影を見つけて大羽は足を止めた。
「星野……?」
呟きに振り返った人影は大羽を目に留めると常と変わらない柔和な笑みを浮かべ、優しげな声色を潮風に乗せた。
「あれ、ヒロじゃん。いま帰り?」
彼、星野基はトッキュー新人隊の同期である。既にトッキューを辞してはいるが、大羽にとっては大切な同期であり、親友でもあった。
「なにしてんの? 他のみんなは?」
「あー……、メグルはアイドルのコンサートに行くとか言うて先に帰ったし、タカミツもスーパー銭湯に寄るとかで今日はバラバラなんじゃ」
「そっか、確か明日は非番だもんね。俺も洋上から戻ったばっかでさー、ちょっとブラブラして帰ろっかなって思ってたんだ」
「ワシもじゃ。たまには港でも見ようかと思うて」
自然と二人の笑顔が重なった。親友、とお互い自負しているだけあって行動が似てしまうのもそう珍しいことではない。だが星野は、あはは、と笑いながら「でも」と肩を竦めてみせた。
「夕暮れ時に男二人。しかもみなとみらいを連れ立って歩くのはナシだと思うけどねー」
そう。大羽たちにとってはみなとみらいは職場でも、世間一般には名高いデートスポットなのである。見ると既に辺りはカップルだらけだ。ハッとした大羽が慌てて辺りをキョロキョロと見渡すと星野は更に声をあげて「それ益々不審だよ!」と明るく笑った。
彼が――星野がトッキューを除隊になったことを彼自身が心内でどう感じているかは知りようもない。
大羽としても、普段通り接し続ければいいと思うものの内心まだどう接していいのか迷っていた。けれどもこうも明るく笑う星野を見ているとかえって「気を遣うな」と逆に気遣われているようで大羽は少しばかり眉を寄せた。年齢の所為か性格故か。親友の方が精神的に練れていることは認めざるをえない。
少しばかり大羽が歯がみをしていた時――。
「星野三正……?」
「え……?」
「大羽一士も。お久しぶり、いま帰り?」
聞き覚えのある声に呼ばれてまず星野が振り返り、大羽がそれに遅れること一秒。声の主は黒髪を湛えた女性で、大羽は「あ……!」ととっさに呟いたのちに喉が萎縮したように固まり、逆に星野は一瞬だけ目を丸めるとすぐにいつもの表情に戻して一歩前へ進み出た。
特尉、お久しぶりです。防基に用でもあったんですか?」
大羽たちに声をかけてきた女性は。特自と呼ばれる機関に所属する軍人で大羽たちに訓練をつけてくれたことがあり――その厳しさたるや鬼教官として恐れられている嶋本以上で、もっぱら彼らの間では「暴君」というあだ名で通っていた。
もっとも、大羽が固まった理由は暴君に恐れをなしてというものだけではなかったが――、の方は大羽を気にするそぶりもなく呼びかけに応えた星野の方を見上げて「ううん」と小さく首を振るう。
「ちょっとね、横浜港に行きたい気分だったから。好きなの、港に来るの」
「へえ、そうなんですか! 意外だなぁ、特尉はどっちかというと陸の人って思ってましたから」
「うん、だから好きなのかな……。海軍のことも尊敬してるし、あなたたちのことだって――」
星野と言葉を交わすはそこでハッとしたように唇を揺り動かし、気遣うような表情をのぞかせた。
「星野三正、あの……今回のことは……」
自身、言葉に迷っている様子がありありと伺えた。星野は彼女の言いたいことを察したのか「あー……」と星野特有のはにかみに多少の自虐を混ぜたような表情を浮かべた。
「まあ、仕方ないですよね。特尉が嶋本さんの立場だったとしても、そうしたでしょう?」
「いや、私は……分からない。あなたは潜水士だし、潜水士になれたんだから……貴重な隊長候補でもあるし、そうしなかったかもしれない。だから、嶋本さんもきっと気落ちしてるわ」
隊長候補……、はそういう目で星野のことを見ていたのか、と大羽は口を挟むタイミングを逸してぼんやりと二人を眺めつつ思った。
そっか、と星野はの気遣うような言葉を受けて一瞬笑みを向けた。
「俺、トッキューには向いてなかったかもしれないけど、その代わり救命士になろうと思って来年の春から学校に通うつもりなんです」
そして、そんな告白をした星野には面食らったように瞠目し、星野はしてやったりという風に肩を揺らした。
「あはは、さすがにそこまでは天下の特自でも知らなかったんですねー」
「え、救命士って……どうして……」
「真田さんが、助言してくれたんです。救命士の資格を取れ、って」
「さ、真田さん、って三隊の真田隊長のこと?」
「はい」
「真田さんが助言って、益々意味が分からない……。そりゃ潜水士だし持ってると便利だとは思うけど……わざわざそんな……」
よほどにとっては頭の中で繋がらない発言だったのか、彼女は口元を手で覆うような仕草を見せて考え込むように眉を寄せてから再び星野を見上げた。先ほどの気遣うような目線とは違って、訝しげな視線だ。
「救命士の称号付きでトッキューにリベンジするつもりならそれも良い決意だと思うわ。転職を考えてるのなら私もオススメするし、軍にならいつでも大歓迎で迎える。だけど、あなたは潜水士の前に航海士でしょう? それも士官よね? なのに今さらそんな……」
すると星野はやや戸惑い気味に眉を曲げた。聞いていた大羽も星野に救命士は似合っているし妙案だと感じてはいたが、実のところ決断した星野の真意は図れず気になってはいた。それだけについ星野の返事を待って彼を凝視してしまったが、星野は言葉に窮したように小さく唇を噛んでいた。とっさに上手い切り返しが浮かばなかったのだろう。は星野の様子を見て何かを感じ取ったのか、自分の問いかけを自ら打ち切ってしまった。
「まあ、あなたが決めた事なんだから、ね。……頑張ってね」
そして励ますように緩く笑うと、星野も笑って強く返事を返した。それがその話題を完全に終わらせる合図だったのだろう、は一旦肩を落とすと切り替えたように視線を移して大羽の方を見やる。途端、ビクッ、と大羽の背は傍目にも悲しいほどに撓ってしまった。
何をやっとるんじゃ……、と自らの反応に大羽が居たたまれなさを感じた先にいたのは苦笑いを浮かべるだった。
「そんなに私、怖い……?」
「え、いえっ、あの……とと、特尉に今日会うとは思いませんでしたけぇ、緊張しまして……!」
おまけにどもってしまう自らの声帯を殴りたい。背中に冷や汗を流していると、星野が助けるように割って入ってくる。
「怖いからじゃないんですよ、それ言ったら研修中は俺の方がビビってたし。――ねえヒロ、ヒロは特尉が美人だから緊張してるんだよね?」
だがそのフォローはナシじゃろ、と更に大羽がまごつく先で、は少しだけ焦ったように大羽ではなく星野を見上げている。対する星野はニコニコと常と変わらない。
は視線を泳がせたあと、今の言葉には触れずに夜風に髪を踊らせながら小さく咳払いをした。
「あの、星野三正。先日も研修のあと言おうかと思ってたんだけど……その、敬語はいいわ。仕事中ならともかく、今はプライベートだし、同じ士官だし、それにあなたのほうが大分年上だから……ちょっと恐縮してたの」
「え……、でも、同じって言っても特尉の方が階級比較では上ですよね?」
「そうだけど、下級士官同士なんだし……。一期上の大口三正なんて思いっきり使い分けてるから」
「あはは、あの人はそうだろうなぁ……。保大の時から、要領のいい先輩でしたから」
大口、とは大羽たちの一年先輩にあたるトッキュー隊員である。星野の海保大学校時代の先輩でもある、とは大羽も両名から聞いてはいたし研修で顔を合わせた大口の性格も大体は把握していたため、二人の話している内容にはついていける。けれども、士官同士の話となれば、当然ながら蚊帳の外だ。
星野はひとしきり笑い、ついで納得したように「うん」と頷くような仕草を見せた。
「じゃあお言葉に甘えてそうさせてもらおうかな」
「ええ……ありがとう」
「さっそくだけど、それなら特尉のことはなんて呼べばいいのかな? さん?」
「え……、お、お好きにどうぞ。トッキューの人はだいたいって呼び捨てにするけど」
「んー、それはちょっとなぁ。……じゃあ、ちゃん、って呼ぼうかな。大口先輩もそう言ってるでしょ?」
「え? ……そ、そうね、確か」
やっぱり、と笑う星野のそばでは先ほどのように戸惑い気味の顔色を浮かべていたが、目の前で交わされている会話は理解できても起きている事態についていけていないのは大羽だ。大羽がそばで目を白黒させていても星野は気づいていないのかいつもの調子を崩さない。そのままの笑みで「じゃあさ」と更にに笑いかけている。
「俺のことも階級じゃなくて普通に呼んでよ。実を言うと階級でって呼ばれ慣れないんだよね、かといって星野主任とか呼ばれたら笑っちゃいそうだし」
「あ……、そう、ね。じゃあ、星野さん……?」
「えー、それじゃ三正とほとんど変わらないじゃん! 俺のことも名前で呼んでよ」
こうなると完全に星野のペースだった。大羽の目にもが星野の勢いに押され気味なのはありありと分かった。ニコニコと笑う星野の顔をは目を瞬かせてしばらく見つめたあと、言われるがままに唇を揺り動かす。
「……も……もと、い……さん?」
ドクッ、と大羽の心臓が跳ねた。しかもイヤな痛みを伴って、だ。星野との身長差から自然と上目遣いになっているの頬は、少しばかり色づいているように見て取れた。
口出ししたいのに、口出しできない。
例えばメグルだったら「星野君ばっかりズルかばい!」とふてぶてしく口を挟めただろう。タカミツや兵悟だって「俺もタメ口でいいっすか!?」くらいは言えるに決まっている。しかし――、さっきから置物のように固まっている自分は何なんだろう、と葛藤する先で星野は満足そうに笑って頷いている。
星野が非常に好ましい人間なのは親友である大羽自身が一番よく分かっていた。面倒見もよく、頭だっていい。トッキューを除隊になろうが彼が士官であることには変わりなく、士官とそれ以外とが天と地ほど開きがあることはつい今の目の前のやりとりでイヤと言うほど実感できたばかりだ。にとっては自分より星野の方がより身近で仲間意識が強いのかもしれない。というより、なぜか良い雰囲気で妙にお似合いだ。ここは空気を読んで先に帰るべきじゃろうか、とおそらく最善だろう結論は出ていたが、自分の中の譲れない部分がそれを拒否していた。
「これから何か予定ある?」
「ううん、何もない」
「じゃあさ、夕飯食べに行かない? 観光客が見逃すお気に入りの店があるんだ、俺、この辺が地元でさ」
「ホント!? 行きたい!」
「じゃあ決まりだね」
星野を見上げてパッと笑ったの笑みが大羽には痛かった。可愛いと感じるそれが、親友に向けてのものだったからだろうか? 自分がに声をかけられずに固まっているほんのちょっとの間に、星野はあそこまでの中に切り込んだ。まざまざと違いを見せつけられているようで、自然顔が強ばってくる。やはり、空気を読むべきか――と口をへの字に曲げそうになった瞬間、ごく自然に星野がこちらを見やって当然のように誘ってきた。
「ヒロも行くだろ?」
「あ、ワシは……」
これが間にがいなければ、気軽に「当たり前じゃろ」とか「お前の好きな店はワシにはどうも場違いな気がするしのぅ」等々答えられるのだろう。しかし、星野の問いを肯定する前に大羽はチラリとの方を窺うように見た。すると星野と同じようにこちらに振り返ったと視線がかち合ってしまう。
「大羽一士、体調でも悪いの……?」
さっきから顔色が良くないみたいだけど、とは心配げに眉を寄せた。けれども、どんな理由であれ星野に向けられていた視線が自身に向かった事実を嬉しく感じる自分がいっそ情けなくて大羽は人知れず拳を握りしめる。
「ど、どこも悪うないですけぇ、気にせんといてください」
「そう? なら、いいんだけど。そうそう、それとあなたもそんな改まった話し方しないで……、ほんと、こっちが緊張しちゃうから」
「あ……!」
それはひょっとすると、今この場にいるのに星野と大羽に扱いの差をつけては不味いというの気遣いだったのかもしれない。けれども大羽は、の意識が星野にだけ向かっていたわけではないことを感じ取って目を見開いたあとに破顔した。
「いや、ワシは切り替えるのは苦手ですけえこのままでええです……! 士官でもないですしの」
「いや、別に、士官かどうかってのは気にしてないわよ……。さすがに、いくら年上でも生意気・ペーぺーと揃った石井だったらタメ口きかれるとカチンとくるかもしれないけど」
「あはは、でもメグルは許可なんか待たずに生意気なクチきくと思うよ。ヒロみたいな謙虚さはアイツにはないしな。な?」
研修でのメグルのことを思い出してかが冗談めかして口を尖らせ、星野は笑い飛ばしたのちに大羽に向かってウインクを飛ばしてきた。その仕草で、のことを意識している自分に彼が気づいていることを大羽は悟る。気まずさから大羽がブスッとした表情を晒すも、星野は気にした様子もなく「ここからちょっと歩くけどいいよね?」と確認しつつ先導して歩き始めた。
湾岸から冷えた風が入り込み、すれ違うカップルはまるで身を寄せ合うように港沿いを歩いている。赤レンガ倉庫を越えた辺りでそんなカップル達を気にしつつ、大羽は星野にチラリと目線を送った。
「星野、ワシはやっぱ帰った方がええんじゃないかのぉ?」
「なんで?」
「なんで、て……、周りはカップルだらけじゃろ。男二人に女一人じゃ悪目立ちするじゃろうし」
小声気味に星野に寄って呟くと星野は大きな目を一度瞬かせた。じゃあ帰って、と言われたら言われたで困るんじゃが、と彼の反応を待つ大羽が思案していると星野はいつもの人好きする笑みでニコッと笑う。
「いいじゃん、お姫さまの両脇にナイト二人って感じで。ねぇ、ちゃん?」
「え……!?」
「これが仕事だったら特尉率いるその他大勢って感じだけどさ、今はプライベートだし。頼もしい男二人に守られてるのも良くない? しかも二人ともこんな良い男だしさ!」
「ア、アホッ、自分で言うな自分で!」
「えー、俺はヒロのことカッコイイと思うけどなー。どう思う?」
かくして親友は純粋な好意でに自分を売り込んでくれているのか、はたまたただ面白がっているだけなのか。最初こそ彼なりの気遣いかと思った大羽だったが、たじろぐを見てニコニコと心底楽しそうな星野を前に後者に違いない、と思い直した。けれども、今の問いのがどう答えるかは少しばかり、いやかなり気になる。ゴクッ、と生唾をリアルに飲んでいると、は戸惑う自分を叱咤するようにフッと息を吐いてこう切り返した。
「大羽一士は、いいトッキューになれる器だって期待してます。今は一番筋力なくて一番細いけど……これは訓練次第だしね」
「ちぇー、上手くかわされちゃったな。そういう意味じゃないのに」
「基さんは逆に凄く身体作り込んでるわよね。大羽一士は一般人に混じったら凄くスタイル良いんだろうけど、基さんは軍人っていうか衛生官とか救難の視点で言うとけっこう良いセンいってる、っていうか研修の時は言わなかったけどけっこう感心してたのよね」
「それはそれは、お誉めに預かり光栄です」
「一見、そうは見えないのにね。神林二士もだけど、あんなに童顔なのに身体はけっこうしっかりしてると言うか」
「えー、ソッチは誉めてないよ。ていうか結構言われるんだよねー、見た目ひ弱そう、とかさ。でも逆に言えば、そんなギャップにドキッとしたりしない?」
「……、そうね、神林二士に対してはそう思うかも」
「そっち!? ちゃん、兵悟みたいなのタイプなの?」
「え、いや、まあ……嫌いじゃないけど」
「――だってさ、ヒロ。意外だよねぇ」
「な、なんでいちいちワシに話をふるんじゃ!」
一瞬、の答えに動揺してしまった大羽は星野に視線を投げかけられてカッと頬を紅潮させると拳を握りしめた。あはは、と星野は笑ってかわし、大羽は焦ったようにを見やった。星野のこのあからさまな物言いに何か感づいたりしていないだろうか――、と。しかし彼女はこちらを気にせずに星野に対して戸惑ったような表情を見せていたことは喜ぶべきか悲しむべきか。握った拳のやり場に窮して重力のままに元の位置に戻していると、は戸惑いを苦笑いのようなものに変えた。
「あなた達、本当に仲が良いのね。研修でも基さんってみんなに慕われてるんだなって思ったけど……、ほんと、去年の大口三正とは正反対。むしろ同期から煙たがられてたしね、彼は」
能力はあるんだけど、とが言うと星野も笑いながら頷く。
「明るくて後輩にもフレンドリーな人なんだけどねー。けっこうキツいし、でもああいう性格だから女の子には人気あって上からも下からも同級生からもやっかまれちゃってたから、大口先輩は」
そんなやっかみにめげる人でもないけど、と言う星野にも肩を竦める。
「基さんもそうなんじゃない? 大口三正に負けないくらいモテるでしょ?」
「いやぁ、そうでもないよ。俺なんてサッパリ」
その会話を聞きながら、大羽は思わず噎せ返りそうになったのを必死で堪えた。謙遜にも程があるじゃろうがワリャ、と本気で抗議しかけたが取りあえずは黙っておく。というかこういった口の上手さが女にモテる秘訣なんだろうか……と大羽は以前いま話題にのぼったばかりの大口から星野の保大時代のモテ伝説を聞かされた事を思い出しつつ頬を引きつらせた。
一方の自分は、口下手ではないとは思うものの星野のように舌が回るわけでもなく、まして女の子の気を引く話など間違っても喉から出てきやしない。おまけに今は緊張で何をどう喋って良いのかも分からない状態だ。気を遣ってか、星野とこちらに均等に話題をふってくれるの話にイエス・ノーで応えるのがやっとである。
でも、視線は絶えずを追っていて――。
「ねえ、基さん……」
彼女が星野を見上げて名を呼ぶたび、笑みが徐々に柔らかく変化していっているのに気づいて大羽は胸に鈍い痛みを覚えていた。それは「特自の特尉」から「の素」に少しずつ戻っていっている証なのだろう。ほんま、かわええのぉ、と胸を揺さぶられる反面、虚しさも感じた。彼女自身は大羽に呼びかける時の笑みと差をつけているつもりはないのかもしれない。しかし、階級を付けるか否かという差が、自然に壁を作ってしまうのは無理からぬことである。
だが――、今の自分は星野と同じ位置にはいけない、とも思う。せめて士官になってから……と無駄に意地や義理を通してしまう自分を他の連中が見たらきっと笑うのだろう。もっと気楽にしなよ、とありがたいアドバイスを受けたりするかもしれない。
そんな事をグルグルと考えているうちに、山下町の観光客ひしめく通りを避け、裏路地を何度か曲がったあたりで星野が足を止めて「着いたよ」と言った。見ると、通りの横に旧イタリア国旗を掲げたこじんまりとしたレストランがある。いかにもデート向きっぽい感じで大羽が躊躇していると、星野は慣れたように「空いてるといいんだけど」と一人ごちながら入り口のドアに手をかけた。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
まず星野はを通してから、大羽にも笑いかける。
「ほら、ヒロも」
「お、おう」
こういう仕草、自分には真似できないだろうな、と感じつつ、もし自分が女なら間違いなく自分のような男ではなく星野に惚れるじゃろうな、と考えてしまう自分に心底溜め息を吐きつつ店内を見ると、対面オープン型の厨房を中心にしたカウンター席と、窓際に沿ってテーブル席が設けてあった。観葉植物を置かれた明るい店内はほぼ満席だったが、幸いにもテーブル席が一つ空いていて大羽たちはそちらへと通される。
ソファのないタイプのテーブルだったため、今度もまたサッと星野がの座る椅子を引いてやり、出遅れたと大羽が感じた時には星野は微笑みながら振り返ってこう言った。
「ヒロは自分で座ってね」
「わ、わかっとるわい!」
あくまで小声で言ったつもりだったが、の肩が揺れたのが目に入って大羽はバツの悪さから頬をしたたかに紅潮させた。カッコ悪いのぅ、と情けなく思いつつも着席し、メニューを広げる。
「予約してたら特製ブイヤベースが食べられたんだけどねー……。何にする?」
星野の声を聞きつつ中央に置いたメニューを睨んで大羽は考えた。コース料理なんぞ頼んだ日には、正しいテーブルマナーなんぞ分からずパニックに陥るのではないか、と。
ちゃん、コースがいい? それとも色々適当に頼んじゃっていい?」
「うん。基さんのお薦めで」
「じゃあそうしよっか。ヒロもいい?」
「お、おう」
星野の提案に大羽はホッと胸を撫で下ろす。適当に注文して居酒屋よろしくシェアしたほうがいくらか気が楽だ。星野が店員を呼んでスラスラと注文を終えると、店員は復唱した後に飲み物はどうするか訊いてきた。
あー……と星野が言葉に詰まったように大羽を見やる。するとがハッとしたように口を挟んだ。
「二人とも、呑んでよ。明日は非番なんでしょう?」
そうなのだ。この場で唯一だけが未成年ゆえに星野は飲酒をためらったのだろう。大羽ももちろんその事は知っていたため率先して呑むとは言えず、しかしが数度勧めてくれたので互いに了承した。
「じゃあ、俺は白ワインにしよっかな」
「ワシは生で」
こういう時、いやでも彼女がまだ十代の女の子なのだということを意識してしまう。確か十九歳になりたてだったはずだ、と大羽は例の研修後に調べた彼女のプロフィールを浮かべながら思った。そんな子に、多少なりともよこしまな感情を抱いている自分はやはり間違っているのだろうか?
運ばれてきた数種の前菜はどれも見た目にも鮮やかで美味しく、しかしながらけっこうなボリュームもあって男女双方に受けそうな印象を抱いた。成る程、星野のお気に入りというのも十二分に頷ける。
「お前、いっつもこんな所に一人で来とるんか?」
訊いてみるとワインを片手に星野は上機嫌でケラケラ笑って首を振った。
「まさか。でも本当に気に入ってる所って特に同僚には広めたくないから、仕事仲間連れてきたのはヒロが初めてだよ」
これが女相手の台詞だったら口説き文句の一つにもなるのだろう。相変わらず、こういう事をサラッと男相手にも言える辺りが人たらしと言われるゆえんなのだろうと思いつつ大羽は適当に返事を返して生ビールで喉を潤す。
すると、へぇ、とが意外そうな声を零した。
「基さんって一人で食事しない派?」
「んー、そうでもないけど、こういう店には入らないかなぁ。ちゃんは一人でも平気なの?」
「うん、どんなお店でも気にせず一人で入っちゃうかな」
「えぇッ、マジで!? あー、でも下手に誰かと一緒にいたらフォーカスされちゃいそうだもんねえ」
「まあ、その辺はそんなに気にしてないんだけど、一人が自然と多くて。……大羽一士は? 普段どういったお店に行く?」
「へッ!?」
ふいに話を振られて大羽は自身でも恥ずかしくなるほど間抜けな声を漏らした。瞬間「なに動揺してんだよー」と星野が吹き出すも、あー、と大羽は逡巡した。
「あ、あんま外食はしません。同期と行くっつったら居酒屋とか焼き肉屋ですし」
「自炊するんだ、得意な料理とかある?」
「あ、そうじゃなぁ……。広島風お好み焼きですかの。こっちの店も何軒か行ったんじゃが、自分で作った方が美味かったですけぇ」
「そうそう、ヒロのお好み焼きはプロ並みだよね! 俺、ヒロの作ったヤツ食って初めて広島風良いなって思ったもん」
「へぇ……凄いのね」
星野がフォローするように誉め、が感心したように頷いてカッとした大羽は慌てて腕を振るった。
「じゃ、じゃけえど料理自体は星野の方が全然上手いですけぇ……! よくワシらに作ってくれとりましたし」
そう、大羽が今言ったことは事実である。しかし言ったそばから大羽はなぜ星野のセールスポイントを今以上にあげるような真似を自ら率先してやっているのだろう、と項垂れた。
いや、もちろん、この場にいたのがでなければ……星野の良い所など五万とあげて売り込むくらい、むしろ率先してやるのだが。
「二人とも偉いね……。見習いたいわ」
が自嘲気味に眉を寄せ、大羽はお好み焼き程度でいいのならいつでも食べさせてやりたい、と心底思った。しかしそんなことを軽々しく口に出すのはどうにもはばかられてて口を噤みつつ、星野だったら「食事くらいいつでも作りに行ってあげるよ」くらいは言うんだろうな、と考えていると思い切り予想が的中し、を戸惑わせていた。
「あ、ねえ大羽一士は六管からこっちに出向って形になってるのよね? 上京は初めて?」
星野への対応に困ったようにが目線を投げかけてきて、大羽はビールでゴクッと喉を鳴らしてから頷きつつ肯定の返事をした。
「どこか観光とか行ったりした? 非番の時に」
「あ……、そ、そうっすね……三鷹、とかに」
「三鷹? ああ、井の頭公園ね……、へえ、デートの定番おさえてるんだ」
ブッ、とその一言で大羽はビールを吹き出しそうになってしまった。全くの誤解である。実は三鷹にはお気に入りの某有名アニメシリーズの美術館があって憧れの地であり決して井の頭公園デートなどという洒落た目的ではないのだが、よりにもよってアニメ美術館に行くためでデートなどではない、と説明するのはなおさら滑稽で、どうすればええんじゃ、と焦っているとクツクツと星野が笑いを堪えて肩を揺らしているのが映った。
くそっ、面白がりおってからに、とヤケ気味に一気に喉へとビールを流し込んで気を紛らわせた。少しでも酒が入れば、多少の緊張は緩和されるかもしれない。
案の定、食事と酒が進めばいくらか緊張も取り除かれ、大羽は取りあえずの問いかけにどもらず普通に答えられて更には気兼ねなく話しかけられる程度には進歩していた。
特尉は軍曹と親しそうじゃったが、やっぱ特自の人はトッキューと親しいモンなんですかの?」
「んー……人によるんじゃないかな。嶋本さんとウチの浜田特尉は仲が良いし、大口三正もウチの射撃担当の一ノ瀬ってのと仲が良いみたいだし。でも、トッキューよりトッケイとの方が格段に顔合わせる率は高いわね。トッキューとプライベートで交流があるのは場所的に近いからだろうけど」
「トッケイは大阪が本拠地だしね、ていうか特自もけっこう大変だね……色んな所に出向いて研修なんでしょ?」
「まあ、軍人の仕事なんて訓練・訓練・また訓練が基本だしね。私たちは陸海空の全てカバー出来るようにある程度は仕込まれてるんだけど、私だけ潜水艦にだけは乗せてくれないのよね。酷い話だと思わない? 以前、呉で潜水艦研修があった時、私だけ爪弾きにされたんだから。女は潜水艦に乗せるわけにはいかん、とか言われちゃって」
まあ、当然かもしれないけど。でも研修くらいなら……、と唇を尖らせたに星野と大羽は顔を見合わせて肩を竦める。
「でも、そんな海軍が好きなんでしょ?」
「ん、まあ……」
「俺たちもさ、潜水艦じゃないけど女の子が巡視船に乗ってるとやっぱり意識しちゃうし。通常業務だとかえって張り合い出たり気合い入ったりして良いんだけど……超長期洋上勤務とかで巡視船の中に女性保安官一人とかって状況だとちょっと考えちゃうなぁ。うん、不味いと思う」
ねえ? などと話を振られた大羽はビクッ、と肩を振るわせた。その話題に乗るのはちょっと色々不味い気がする。そ、そうじゃな、と適当に相づちを打ってからゴホンと咳払いをした。
「じゃが、軍の人は訓練に割ける時間が多いですけぇ羨ましい限りじゃ。トッキューは比較的訓練時間多いとはいえ軍とは比べモンにならんし、一般の保安官なら尚更じゃしのぅ」
「……なに、つまり、私たちと同様の時間を訓練すれば特自と同等程度の能力になれるって言いたいの?」
「えッ!? い、いや、あの……そういうわけじゃ……!」
自ら話を変えたとは言え、の眉間に皺が刻まれたのを見て大羽はしまったと焦りで返答に詰まった。途端、星野が弾かれたように笑い出す。
「あはは、ヒロ、墓穴〜〜!」
こいつ、ザルのくせにもう酔ったんか? と慌てる反面恨めしく星野を見やっていると少しの間を置いてが申し訳なさそうに肩を竦めた。
「ウソ、ごめんなさい。たまにもったいなく思うこともあるの……特自に引き入れたらもっと伸びそうだな、って感じる人が海保にもいるから。ていうか、特自は元々そういう組織だしね。私もスカウトされて入らざるを得なかった派だから」
彼女の苦笑いにはどういう意味があったのか。軍なり、海保でもそうだが入る理由など様々だろう。両親がそうだから、金のため、国防のため、千差万別だ。彼女の場合もその中の一つに過ぎないことは分かっている。しかし、十代の女の子にとっては――あまりに過酷な現場ではないのだろうか。同情する大羽に反して、星野は緩く笑っていた。
「でも、軍がちゃんを欲しがったのは分かるよ。俺も、実はスッゲー憧れてたもん。特に五輪の決勝! 鮮烈だったよねー、決勝打の突きアリ一本!」
まあ、そんなんだから研修の時はダメダメだったんだけど、と星野は自嘲する。
「だからどうしても期待しちゃうんだよね。ちゃんなら、きっと勝利をもたらしてくれるって」
「映画のヒーローのように? 私が期待に応えられるような状況なんて、きっととんでもなく不味いのにね。それに……、私だって、ただの人間なのに」
サラッと、少しだけ目を伏せがちに言ってからはつい先ほど運ばれてきた生パスタに手を伸ばした。美味しい、と呟いて微笑む様子が年相応に幼く見えて、大羽はキュッと唇を噛みしめる。
今の星野の言葉――、もしも「特尉」だったら。外に向けてだったならば「精進します」等々教科書のお手本のように迷いない顔でしっかりと言ったのだろう。だってそうだろう、今や国防のトップを担う彼女が迷いを見せれば、皆が不安に陥ってしまう。
そうか、彼女は……それこそ物心つくかつかないかの頃から、こんな年齢に不相応な期待の矢面に立ち続けてきたんじゃな、と大羽は改めて思った。
星野のように真剣に剣道をしていたわけでもないし、研修でに会うまでは「」に対してそれほど興味を抱いてはいなかった。それ故に、周りほど彼女に対して世紀末のヒーロー像のような眼差しは向けてはいない。ただ、とんでもなく強くて横暴で、そして普通の女の子だということを、あの研修の日に知っただけだ。そしてあの日から――彼女のことが気になって、知りたくて、どうしようもなくなってしまっている。
なぜ、彼女はあの日、自分を腕相撲の相手にと指名したのだろう? いや、理由は分かり切っている。自分があの中で一番筋力に劣り、一番研修でヘバっていたからだ。ただ、それだけ。
でも、だけども。もしもあの時の相手が星野や兵悟だったら、これほど彼女に捕らわれてはいなかっただろうに。
大羽が複雑さを募らせている間に、星野は通算何杯目かわかららないワインのグラスをそっとのミネラルウォーターの注がれたグラスに近づけてカツンと鳴らし、彼女をなだめるように優しげな目線で覗き込んだ。
「まあ、でもさ、そんなちゃんに全く歯が立たないのが俺らの悲しい所なんだよね。ごめんね?」
途端、その囁きにすっと染まった彼女の頬が大羽の瞳にいやでも飛び込んでくる。
「や、あの……ッ、も、基さんは……、泳ぎも、なかなかだったし、レンジャーの方もそつなくて……。能力的にはバランス良いから、その……」
ああ、また星野のペースじゃ。と大羽はこめかみをヒクつかせた。自分一人悶々と考え込んでいるより、彼のように甘い慰めの一つでもかけられた方が彼女も嬉しいだろうに。しかし、星野のような台詞を放つ自分を想像すると悶絶どころの話ではなく、やっぱり自分にはああいう態度に出るのは無理だと思う。ちゅうか星野、お前は天然なのか狙ってなのかワシにはサッパリわからん、と大羽は三杯目になる生ビールをグイッと飲み干した。
するとがまるで逃げ場を求めるように大羽の方に視線を送ってくる。
「お、大羽一士の方はどう? 波高三メートル流速五ノットはクリアできた?」
「え……? あ、ハイ。まだまだ軍曹レベルにはほど遠いんじゃが、一応は」
「そう、よかった。他のみんなも?」
ふと気づいたことだが、は星野への対応に詰まるとよくこちらへと受け流すように話を振ってくる。星野にどう返して良いか困っているのか、はたまたただの照れ隠しか。それとも……もしかすると「助けてくれ」というサインなのか? と好意的に捉えすぎてしまってカッと大羽の耳たぶが赤く染まった。
だって、そうだろう。星野のアプローチめいたものを嬉しいと捉えていれば、自分の存在など無視した方が懸命だ。
にしても――、と大羽は星野を見やった。女の子大好き、というオーラ放出をはばからない大口と違って、星野の口からそう女性関係の話題を聞くことはないが、実のところ彼はの事をどう思っているのだろう? 自分と星野はタイプは違うものの、けっこう思考や行動は似て――と考えた所で赤い耳から一転、大羽はサーッと青ざめた。
いやいや、待て待て待て。それはあり得んじゃろ、こんな十代の女の子相手に。ってまあ、あと一年と待たずに二十歳ではあるが。ってそうじゃない。彼女は軍の将校でかなりの格上で……、って星野は順当に行けば次かその次の辞令では一階級あがって彼女と並ぶが。ってああ、何を考えとるんじゃ。
星野は、一緒にいて安心するような可愛い子がいい、と言っていたような気がする。曖昧すぎるフレーズとはいえ、は当てはまらないんじゃないだろうか? とチラリとを見やると、この店特製の窯焼きビザについてなにやら星野と談笑していた。その横顔を見て、やっぱキレイじゃなぁ、と改めて思う。それもそうだ、研修の時とは違って今日の彼女はキッチリと化粧をして一段と華やいでいる。だが、研修の時も申し訳程度に施していた化粧が汗で完全に剥げてしまってすっぴんを晒してもやはりキレイなものはキレイだった。好みの差はあっても、星野とてべっぴんさんが嫌いとも思えない。
いや、自分は別に、の見てくれのみに惹かれたわけではないのだが……。二人が絶賛しているピザは、確かに美味しいものだったのだろうが、雑念を過ぎらせながら口に含むといまいち味が分からなかった。
そうこうしているうちに話題は人事へと移り、あーあ、と星野は困ったような仕草を見せた。
「俺は四月から学生に逆戻りだからなぁ。主任どころか予備の人、って感じ? ま、おずには主任なんて腐るほどいるから別にいいんだけど。せっかくちゃんに誉めてもらったのに、筋力落ちそうなのがなぁ」
「ワシは、無事トッキューになれて……希望を言えば二隊に入っとるはずなんじゃが」
「四月、か……。私はどうなってるんだろ……」
カラン、とが追加で頼んだアイスコーヒーの氷が涼やかな音を鳴らした。見つめていた先がどこに向かっているのか分からなかったが、黒目がちの瞳は深く、吸い付けられるのには十分すぎて――、大羽は星野も同じように惚けている可能性もあるだろうことに気づいてはいなかった。
ふ、との目元が緩められる。
「でも、桜……見たいな」
毎年見ることができると信じて疑わない一般人の「桜が見たい」とは明らかにニュアンスが違っていた。カァッと全身の血が逆流するようで、でも今度こそ食いしばった歯をどうにか解いて大羽は声をあげた。
「あ、見――」
「見に行こうよ、桜。春になったら」
しかし、絞り出すようなかすれた声は星野の甘く優しい声に見事にかき消されてしまう。ハッとして顔をあげると、戸惑うとニコニコと常と変わらない微笑みを湛えた星野がいた。
「あ、でも……」
「うん、だから、行けたら、行こう?」
すると、一瞬目を見開いたは、今までの戸惑いとは打って変わって心底嬉しそうに緩く笑った。そして頷いたのを見たとき、大羽は初めて本気で「あ、ヤバい」と強烈に感じた。
星野の怖いところは口の上手さでも何でもない。真に相手を気遣って適切な言葉が適切な時にためらいなく出てくるところだ。自分が躊躇している一瞬の間に、こうやってあっさり自分を越えていってしまう。
桜の季節に、の隣に星野がいても、それでもが生きていて無事ならもうそれで良いかもしれない。星野が良いヤツなのは自分が誰より知っているのだし――と遠く自分に言い聞かせそうになった所で大羽は結露したグラスを割れんばかりに握りしめていた。
「……ロ、ヒロってば。どうかした?」
「酔った? 気分でも悪い?」
気づくと、二人から心配げな目線を寄せられていてハッとした大羽は取りあえず意味もなく笑って誤魔化してみる。
「い、いや、その、週明けからヘリからのリペ降訓練じゃけえ、そのこと考えてしもうて……」
「リペ訓ねぇ……、今から緊張してるの?」
「いいじゃん、リペ降。海保じゃ少数しかやれない珍技だからなぁ、俺もやりたかったな」
星野が悔しげに両手を組んで自身の頭に差し入れておどけたポーズを取ると、小さくが肩を揺らす。
「軍に来ればリペ降どころかファストロープだってたくさんやらせてあげるわよ? どう? 救命士の資格取ったら本気で転職考えてみない? 二等海尉待遇で海軍にクチきいてあげるくらいはできるわ」
「え、マジで? うわ〜〜、考えちゃおっかなぁ」
「あ、でも特自に入りたかったら最低でも救命士プラス外科医並の医療技術と対放射線・細菌処理能力の他に心理学も学んで射撃や武術も当然高レベルの数値を出してね。そうしたら初めてウチの衛生担当として入れるかも。もちろん下士官から」
「え……うわ……マジで……? それ既に人間レベル突破してるじゃん」
「いや、普通じゃない? どこの特殊部隊も衛生兵にこの程度のレベルは要求してるだろうし」
すると大羽の一言はそんな雑談に発展し、更にはまた仕事の話に戻ってそろそろ店を出ようかという頃には既に時計の針は九時をとうに回っていた。
席を立つ際、星野はごく自然に伝票を取ると笑って「先、出てて」とに笑いかる。
「ヒロも先行って待っててよ。彼女、一人にするわけにいかないし」
でも、と渋ったに有無を言わさずそう押しつけられた大羽は従うしかなく、一足先に彼女を連れて外へと出る。途端に冷たい空気が襲ってきて、わ、と二人同時に呟いてしまった。そうして笑った息が白く空へと溶けていく。
思いの外会計はスムーズにいったらしく、美味しかった等々と二、三言葉を交わしている間に星野は店のドアから「お待たせ!」と笑って出てきた。
「幾らだった?」
すかさず財布を取り出そうとしたに星野は焦ったようにして手を振った。
「え!? いいよいいよ、俺が誘ったんだし」
そこで「マジでか!?」と声をあげた大羽の方を向いて彼はニッコリと笑う。
「ヒロからはちゃーんとあとでキッチリ半分もらうから」
「ゲッ、なんじゃソレ。冷たいのぉ」
「何で俺がヒロに奢る義理があるんだよ。ちゃんはいいの、この間さんざんごちそうになったじゃん、中華街で」
知ってるんだよね。嶋本さんに助け船出してたの。と星野が言うと、はバツの悪そうな表情を浮かべた。研修の時に嶋本のおごりでみんなして夕食を食べに行った際、会計で固まっている彼をが助けていたのは大羽も気づいていた。は嶋本のメンツを潰したかもしれない、と気にして苦い顔をしているのだろう。
「あれは……別に、その……」
「いいの、独り身で官舎と巡視船を往復するだけ悲しい生活なんだから、たまには男として良い気分にさせてよ。ね?」
あ、こいつ今さりげなくフリーなこと主張しよった、と軽くウインクしてみせた星野に大羽は口元をヒクつかせたが、はそこを引き際と見たのか大人しく従った。
「じゃ、お言葉に甘えて。ごちそうさま、凄く美味しかった。素敵なお店を教えてくれてありがとう」
「いえいえ、喜んでもらえてこっちも嬉しいよ」
そうして誰ともなく歩き始め、近くの交差点まで足を進めてから星野がに視線を流した。
ちゃん、何線が都合いい? 最寄りの駅まで送ってくよ」
すると、は瞬きをしてから小さく首を振るう。
「あ、私、車で来たから。港のそばに停めてるからこのまま戻るわ」
「え、車だったの? ごめん、てっきり電車かと思ってたから……、ごめんね、歩かせちゃうな」
この場所から防災基地の場所まで戻るには少し距離がある。申し訳なさそうな星野には笑って手を振った。
「そんな、たいした距離じゃないから。――じゃあ、ここでお別れね」
そう、防災基地は海の真横。官舎は街の中。どうあっても帰り道など一緒になるはずもなく、そのままさよならを告げて帰ろうとするに大羽は焦った。むろん、星野もそうだったのだろう。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 夜道を女の子一人で帰せるわけないじゃん。……ねえ?」
そして星野は大羽にそう話を振り、一瞬予想だにしていなかった大羽は「へ?」と間抜けな声を漏らした。こういう場面で星野がこちらにお伺いを立てるなど、一度もなかったからだ。
取りあえず頷くも、は困ったようにしきりに大丈夫だと言っている。
そ、そうだ。これが今日最後のチャンスかもしれない。自分が送っていく、と強く申し出れば――、と大羽が悩むだけの時間は多少あった。しかし、数秒ためらっている間に星野が先に口を開いてしまう。
「駐車場まで送ってくよ」
「いや、ホント大丈夫だから。官舎とは全然反対方向だし」
「ダメダメ、かえって心配だもん。君は、刀を持ったら世界一強いかもしれないけど、女の子だよ?」
実際は、ただの一般人が数人がかりで武器所持で取り囲もうが素手の彼女には歯も立たないに違いない。大羽に腕相撲で負けた時のような隙を見せるとも思えない。しかし、彼女が大羽の腕力にすら劣るのもまた事実で、何が起こるか分からないというのは正論である。
はグッと言葉に詰まり、その隙に星野は自分の発言を決定事項としたのかくるりと大羽の方を見た。
「じゃ、俺は彼女を送ってくから。先に官舎帰ってて」
「あ……!」
お前じゃのうてワシが送っていく、と今更言いだしたらただの駄々っ子だろうか。無意識にのほうを見やると、もこちらを見やっていて一瞬視線がかち合い、大羽の心臓がドクッと跳ねた。どこか、縋るような視線に思えたのは勘違いだろうか? 確かめる間もなく、は小さく息を吐いて笑みを見せた。
「じゃあ、大羽一士。次に会えたら、今度はトッキューとしてね。その時は、よろしく」
「あ……、は、はい」
じゃあ、と告げては大羽に背を向け、星野もそれに従うかと思ったが――彼は半回転させた足をピタリと止めると、ふいにこっちを向いて方向転換してからツカツカと近寄ってきた。
な、何じゃ? と一歩後ずさる大羽に追いつき、不自然なほど彼のそばに寄ってごく小さな声でこう囁く。
「いいの? 俺、本気になっちゃうかもよ?」
ゾクッ、と大羽の背が粟だった。一瞬、諫めるような煽るような強い視線を向けた星野は、それがまるでウソだったようにきびすを返して「ごめんごめん」と柔らかく笑いながらの隣に並んだ。
愕然とした大羽はパクパクと唇を揺り動かす。背中はこの寒さだというのに一気に冷や汗が吹き出してぐっしょりと濡れてしまった。
――そうか、と心音の収まりに従って大羽は悟った。先ほど、星野が不自然な伺いをこちらに立てたのも、迷うだけの時間があったのも、全部「ワシが送っていく」と言い出すのを待ってくれていたのだ、と。
そして痺れを切らせて、去り際に挑発めいたことをした。
「……じゃあて、どうすりゃええんじゃ……」
未練がましく二人の背が見えなくなるまで見送って、大羽はクシャと頭を抱え込んだ。
姫を守るナイト二人、などと星野は言っていたが、終始、姫とナイトと付き人一人という有り様だったのだ。星野のように口が上手いわけでもないし、星野のように例えトッキューを除隊になろうと「士官」として彼女と肩を並べられるわけでもない。自分はただの出来の悪いトッキュー未満で、とても彼女にふさわしいとは思えない。星野のように気安く口もきけないし、まして自分のことも名前で呼んで欲しい、などと言えるはずもない。
鬱陶しいほどの劣等感だ。だが、男のプライドというものは、そうそう捨てられるものでもない。
せめて――。そうだ、せめてトッキューとしてオレンジを着なければ、とても胸を張って彼女と並べない。
「くそ……ッ!」
あと一ヶ月ちょっとじゃ。そしたら、今度こそ……! と気を紛らわせるように夜の街を一心不乱に官舎へ向かって走り出した。

そうして部屋についてから、けっこうな時間が経ってしまっている。既に酔いはすっかり醒めた。
寒さも省みずに官舎の入り口が見える窓を帰ってきてからずっと全開にしてベランダで張っているが、未だ星野が帰ってきた気配はない。
チッ、と大羽は何度目になるか分からない舌打ちをした。
「どこで油売っとるんじゃ、アイツ」
を防災基地付近まで送り届け、そのまま官舎に戻ってくるのは一時間ほどあれば十分なはずだ。だと言うのに、現時刻はつい先ほど日付が変わったばかり。やはり先に帰ってくるべきではなかったか。そうだ、今にして思えば「ナイトは二人言うたんはお前じゃろう?」とでも切り返せば二人きりで帰らせるのを阻止は出来たはずだ。……まあ、もっとも冷静にそんな星野のような切り返し出来るはずもないのだが。
「野毛辺りで誰かに捕まっとるんかのぅ」
自分を納得させるように呟いてみる。事実、帰り道に繁華街で同僚や先輩に捕まって付き合い酒をやらされてる可能性もあるだろう。一人で呑み直している可能性だってなくはない。いやいや、そうに決まっている。

『いいの? 俺、本気になっちゃうかもよ?』

が、強く自分の考えに頷いた所で星野のささやきが甦ってきて大羽はぶるりと唇を震わせた。
星野の本気ってどういう事じゃろう? ただ彼女を送り届けるだけで何かあるわけがなかろうに。
いや、でも。星野の言葉をアテにするならば「本気になってない」星野にすら終始呑まれてこちらを逃げ道にしてたように見えただ。自分という第三者がいなくなれば、案外――と考えて大羽は頭を抱え込んだ。
「いや、ありえんじゃろ。考えすぎじゃ!」
今日はよく晴れていて星も綺麗に見えていた。この時期の横浜港、まだ広場にはカップルが数多残っているに違いない。雰囲気は、間違いなくそういう感じになってしまうだろう。言葉とは裏腹にイヤでもイヤな光景が脳裏を鮮やかに過ぎっていく。「手、冷たくない?」とか言って手くらいは握ったかもしれない。「凄く冷えてるね」とかなんとか理由つけて頬に触れたりとか。
彼女は未成年とはいえ十九歳だ。何をしても淫行条例には引っかからない。星野はザルとは言え多少酒が入っていたし、みなとみらいのあの雰囲気にのまれて……今頃……、と星野の腕の中で今まで見たこともないような姿と表情で彼の名を呼ぶを想像してしまって思い切り血の気の引いた大羽は腹の底から叫び声をあげた。


「うわあああああああ!!!」


次の瞬間、ハッとした大羽の瞳に眩しい光が差し込んでくる。
荒い息を吐き続けて数秒、ようやく映っているのが官舎の天井であることを認識した。
「な、なんじゃ……夢、か……」
少しだけ身を起こすと、自分でも気持ちが悪いほどにぐっしょりと寝汗をかいている。
「なんつー夢見とるんじゃ、ワシは……」
恐ろしいほどにリアルで、心底夢で良かったと安堵しつつ布団から飛び出た大羽は寝間着のかわりに使っていたスウェットを脱ぎ捨てて洗濯機へと放り入れ、そのまま風呂場へと駆け込んでシャワーを浴びた。程なくしてシャワーを終えて出ると、適当にTシャツとハーフパンツを履いて髪にタオルをあてながら冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを取り出して部屋へと戻る。
本棚の前で足を止め、大羽はそこに飾ってある一枚の写真立てを手に取った。
「特尉……」
その写真には、自分との姿が収められていた。去年、みなとみらいで偶然会って観覧車に乗った際に撮ったものだ。本当に、この時は先ほどの夢のように星野がいなくて良かった……と心底思う。この写真のように、彼女の隣には、自分が居られたら――と考えそうになった気持ちに蓋をして写真を棚に戻すと、大羽はそっとベランダの窓を開いた。
すると、ヒュ、と淡いピンクの花びらが風に乗って入り込んできて、大羽は思わず拾って手に取った。

『四月、か……。私はどうなってるんだろ……』
『でも、桜……見たいな』

夢の中で、彼女はそんなことを言っていた気がする。
昨日は満月で、官舎の敷地に植えられた満開の桜を肴に集まれる同期たちで適当に集まってビール片手に夜桜鑑賞会をしたのだ。そこで兵悟が「わあ、ユリちゃんに見せたいなぁ」などと無邪気に言うものだから。いや、例え兵悟の発言がなかったとしても、あまりの綺麗さにの事を思い出した。
だからあんな夢見たんじゃろうなぁ、と苦笑いを零す。
「ワシ、無事にオレンジ着れました。ちゃんと二隊です。まだまだ役立たずの新人じゃが……」
ヒュ、と再び強い風が吹き抜けて、大羽の手から花びらをさらい――大羽は虚空に向かって誰とはなしにそんなことを呟いた。
今頃、彼女はどこにいるのだろう?
無事らしい、とは聞いているものの軍経由の情報はそこまで詳細には教えてもらえない。ただ、前線にいることだけは、間違いない。
来年の今頃は、もう終戦しているだろうか?
彼女が無事に帰ってきたら、今度こそ自信を持って誘おうと決めている。一緒に桜を見に行こう、と。
それが想像を絶するほどに険しい道でも、もう後戻りはできそうにないから……、と大羽は青く澄んだ大空を見上げた。
どうか、この空の続く先で、彼女が無事であるように――と祈りを捧げながら。



その後の大羽はしばらくのあいだ星野を見かける度にビクッと身体を震わせ、周囲から不審がられていたという。









大羽は内心星野くんを怖がってると思います。さて、どうなる? 大羽の恋(?)

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