Yes or No? - 乙女か暴君か -






十月も後半に入り――毎年行われているトッキュー隊新人研修部隊の研修期間開始から既に二ヶ月以上が過ぎていた。
今日も横浜の防災基地で地獄の訓練を受けていた新人達・通称ヒヨコは、鬼教官である嶋本による長いミーティングという名のダメ出しを聞いてからようやく解散となった。
身体がガタガタなのはいつものことだが、みな帰り支度をする足取りがどことなく軽いのは明日が非番だからだろう。
いつもなら朝は官舎から防災基地までダッシュ、帰りも防災基地から官舎までダッシュというのがヒヨコたちのお決まりコースではあるが、非番の前日だけは別だ。メグルは贔屓アイドル歌手のコンサートだなんだと基地を駆け出て行き、タカミツはタカミツで行きつけのスーパー銭湯に寄って帰るらしく「おっ先!」と上機嫌で帰っていく背を見送ったばかりだ。
「大羽くーん、どうする? なんか食べて帰る?」
「そうじゃなあ……、ワシはその辺プラプラしながら帰るけぇ先に帰ってええぞ」
「分かった。じゃあお先!」
現ヒヨコの中で最年長である大羽廣隆は声をかけてきた同期の神林兵悟にそう返し、防災基地の門をくぐって帰り道ではなくあてもなしに海沿いを歩いていった。
秋も徐々に深くなる中、やはり潮風はどこか肌寒く――夕焼けと夕闇の混ざり合った幻想的な空間を歩く大羽の目に何組ものカップルが身を寄せ合うようにして歩いているのが映る。
わずかばかり独り身である居心地の悪さを感じつつ海に目線をやりながら歩いていると、足の向かう先にこちらも珍しく一人で海に視線を投げながら膝のあたりでスカートの裾を揺らしている女性がいて――大羽は深い意味もなく足を止めた。
すると気配でも伝ったのだろうか?
目線の先の女性が振り返って――大羽はやや垂れ気味の切れ長の瞳を開いた。
べっぴんさんじゃ……と惚けたのと、身体が拒否反応を起こしたのはどちらが先だっただろう?
「――ッ……」
「大羽一士……?」
女性は風に揺れた黒髪を抑えてうっすら笑い、大羽に声をかけてくる。
「お久しぶり。ひょっとして訓練帰り?」
大羽はというと、普段の嶋本を前にしたとき以上に姿勢を正し、キッチリと両手両足を揃えて女性を見据えた。
特尉……! お、お疲れさまであります!」
「あ……ええ、お疲れさま」
果たして自分の対応は間違いだったのだろうか? 目の前の女性――は若干引いたような表情を浮かべ、大羽はグッと唇を噛みしめた。
彼女は、通称「特自」と呼ばれる首相直属の機関に所属する軍人である。ヒヨコ隊に特別に訓練をつけてくれたという馴れ初めがあり――その厳しさたるや軍曹の上を行くもので、もっぱらヒヨコの間では「暴君」というあだ名で通っていた。
そんな彼女を突然前にして緊張するなという方が無理だろう。
それに――と大羽は緊張気味で血の上った頬を別の意味でうっすらと染めた。
「なに、私の顔に何かついてる?」
「え!? いや、その……こんな所で会うとは思いもせんかったですけえ、驚きまして」
前回会った時のは作業着で、私服も飾り気のないものであったため、このようにスカートなど履いて化粧を施した女性らしい姿を見るなどとは予想だにしておらず……「きれいじゃなあ」などと緊張とはほど遠い所で思っていた、などとは言えるはずもなく。無言で見つめられて不審に思ったらしきの寄せられた眉を見つつ大羽はもっともらしい言い訳をした。
そう、とは小さく呟く。
「時間があると、よく港に行くの。東京湾だったり横浜だったり、横須賀にもしょっちゅう行くかな……」
「海……見とんの好きなんですか?」
「ん……そうね。憧れ……に近いかも」
「憧れ……?」
「そう。私は特自の軍人で、特自は陸海空全部カバーできるけど……私自身は陸要素がほとんどだし、空戦はともかく海上はサッパリだから。だから海軍には一目置いてるしね」
ふふ、と笑いつつ「陸と空にはヒミツね」などとは軽く言い、大羽は露骨に肩を落とす。
「日本は……海軍強いですけぇの……」
すると「あ」とはハッとしたように大羽を見て、嘘偽りのない真剣な表情を浮かべた。
「海保のことも頼もしく思ってるわよ、もちろん」
はただ厳しいだけではなくフォローも欠かさない性質なのだということは研修の時に身をもって知った。
けれども――今のような仕事とは無関係の時間になると、彼女はまだ10代の女の子という現実があり。なにを年下の子にこんなフォローをされているのだろう、とみっともなく落ち込んだ自分に大羽はいよいよ落ち込んでしまう。
だが、海軍に憧れているということは海の男も好きなんかのぉ、などと都合の良い解釈をしつつの横顔を見ていると不意に彼女は沖の方に目をやって声をあげた。
「"おず"……! 今帰りかしら……今日、沖合に出てたのね」
その言葉にピクッ、と大羽も反応する。おず、とは横浜所属の海保の大型巡視船である。見ると、薄暗い中にも確かに白を湛えた船がこちらに向かいながら波を立てていた。
その勇ましい姿を大羽が眉を寄せて見やっていると、は予想もしないことを口にした。
「おずに、戻ったんですってね……星野三正」
先ほどより少しばかりトーンを落とした、神妙な声だ。
星野基は、元々は「おず」所属の潜水士で大羽とは同期のヒヨコであり少し前にトッキューを除隊となっていた。はあえて「戻った」という言い方をしたのかもしれないが、語調からそのことを知っているのは明白だ。
「そがぁな事まで知っとるとは……、軍曹に聞いたんですか?」
「まさか。特自の情報収集力、ナメないでよ」
わずかに冗談めかして言ってから、ちらりとはおずの方へと視線を移す。
「彼、私との研修の時も全然動けなかったから……ちょっと気になってたんだけど、まさかあの嶋本さんが除隊の決断下すなんて思わなかったから意外に思ったの」
大羽は、星野とは特に仲が良かった。星野が除隊を告げられた時はカッとなって嶋本に意見したりもしたものの、今では受け入れて納得もしている。同期という関係上、どうしても星野側で物を見てしまっていたが、冷静になると――教えている嶋本自ら教え子に除隊を告げるなど、それなりに辛かったのではないか、とも思う。あの軍曹たる嶋本がそのような情緒を持ち合わせているか否かは定かではないが、は研修の時に嶋本のことを「優しい」と評していたし、現に今、彼女は星野よりも嶋本のことを案じているのだろう。
少しばかり大羽が複雑な心境になっていると、はこんな風に言った。
「あなた達、親しそうだったから寂しいでしょ? 石井はまあ、あんな調子だったけど……今年のヒヨコはまとまりという点ではなかなかだったのに」
慰めを孕んだ声に大羽はかすかに瞼を持ち上げる。もしかするとは見抜いていたのかもしれない。星野の除隊については納得済みではあるものの、時折少しばかり感傷的になってこうして一人きりで横浜港をうろついてしまう自分の心情を。
「じゃけぇど……星野とはいつでも会えますけえ」
まるで自分を納得させるように呟くと、そっか、と少し微笑んだは今度は僅かばかり肩をすくめて懐かしそうに目線を空へと仰がせた。
「あなた達にそうやって慕われてるのも星野三正の人徳よね……。去年も保大出のヒヨコって一人いたんだけど」
「大口さんですかの?」
「そうそう、大口三正。彼がまた星野三正とは違ってすごいお調子者でね……、スキルはあるんだけど保大出のくせに同期の中で一番子供っぽくて、とてもじゃないけどヒヨコのまとめ役なんて無理で嶋本さんも呆れてたんだから」
まあ、嶋本さん自身は大口のこと気に入ってたみたいだけど。とは続け、大羽は頷きつつ相づちを打った。大口、とはトッキューの隊員で大羽も本隊との合同訓練の際に何度か顔を合わせたことがある程度の仲だが、歳が近いゆえに何度か会話を交わし、の研修の話題になった時には「ちゃんの研修受けたんだ! 大変だったねえ!」などと笑顔で彼女を「ちゃん」付けで呼んでいた事があり、度肝を抜かれたと共に怖い物知らずだと心底思ったものだ。
「でも大口三正、保大出だし……今話した通り嶋本さんは彼のこと買ってたからきっと次、遅くてもその次の隊編成じゃ――」
そこまで言いかけて、はハッとしたようにパタリと言葉を止めた。
大羽が聞き返すと「何でもない」と笑って誤魔化され――、大羽は眉を歪める。別にしつこく詮索するつもりはなかったしが何を言いかけたのか見当も付かなかったが、唯一理解できたのはが嶋本とやたらに親しいということだ。
「研修の時も思うとりましたけど、軍曹とはほんまに仲ええんですね」
呟いてみると、途端はきょとんとした表情を晒す。
「そう、かな……?」
「研修の時も、ずっと喋っとりましたし」
「いや、だって、あの時は嶋本さん以外初対面だったし。嶋本さんは……あの日に来る予定だった浜田特尉とは本当に仲が良いみたいだけど私は彼の連絡先も知らないし、ホント会うのは合同訓練とか仕事の時だけだし、普通じゃないかな」
淡々と、少し困惑気味に言われた内容は大羽にとっては意外だった。連絡先も知らない、とは――本当に知り合い以上の何でもないということなのだろう。
だけど、とは言い淀む。
「嶋本さんはね、私のこと内心すごい心配してるのよ。何せ初めて会ったのが私が十五くらいの時だったから嶋本さんから見たら子供でしょ? ただでさえ教官なんてやってて毎年ヒヨコの事で頭抱えてるのに、外部の人間のことまで気にかけるなんて……難儀な人だなってこっちが心配になるわ」
苦笑いを浮かべるの話の内容は大羽にとってはまだ分からないことである。嶋本のことは悪い人間ではないと感じているものの、やはりまだ恐怖の方が勝っているからだ。
それよりも――、本当に彼女は若いんじゃな、とそちらのほうが気にかかった。
十五と言ったら中学生くらいだ。嶋本とは一回りは離れている。彼女にとって彼は年輩の人――言ってしまえばオヤジに見えるといっても過言ではないだろう。
ならば自分は? いくらなんでも自分と彼女は五つ程度しか離れてはいないのだから「オヤジ」ではないと思いたいが、などと考えつつ羽はこんなことを呟いた。
「特尉は……先月に十九になったばっかでしたよね?」
「…………え!?」
しかし、の「なぜ知っているんだ」と言いたげな引いたような声を聞いてハッとする。
「あ、いや、その……特尉は有名ですけぇ雑誌かテレビかで偶然目にしたんです!」
実際には先日の研修の後にどうしても気になってのプロフィールを自ら調べてみたのだが、そんなことは言えるはずもない。
そう、と納得しつつも訝しげなを見つつ、彼女が今年十九歳だと知ってどことなく安堵した自分を大羽は思い出した。十八歳であればもしも何かの間違いが起こった際に淫行条例に引っかかるおそれがあるのだから僅か一歳差がものすごく重要だ、などと過ぎらせて首を振るう。
何を考えとるんじゃワシは――、と自分自身にうろたえつつもはこちらのことは気にする風でもなく再び海の方へと視線を投げて遠くを見つめていた。
港にいるのが好きだと言った彼女。だったら今、ここにいる自分は彼女にとって邪魔なんだろうか――と思うも、「じゃあワシはこれで」とおとなしく退散するのだけはどうしても避けたくて大羽は思いきってこんな事を切り出した。
「か、観覧車……!」
「え……?」
「乗りませんか? せっかく会うたんじゃし」
しまった、外しただろうか。と彼女の不意打ちを食らったようなぽかんとした表情を見て大羽は内心後悔したが、は「んー」と唸りつつぐるりと周囲に視線を巡らせてから緩く笑った。
「いいけど……、その前にご飯食べない? お腹空いちゃった」
今度は大羽の方がぽかんとした表情を晒した。意外すぎる返答だったからだ。
「食べ終わる頃にはちょうど夜景も良い感じになってると思うんだけど」
「あ……、そ、そうっすね! ワシも訓練あけで腹減っとりますし!」
しかし断る理由も全くなく、大羽は独特の尖り気味な白い歯を見せて笑みを見せた。
「じゃあ今日はワシが奢りますけぇ!」
すぐ先の赤レンガ倉庫のほうへ向かいつつ、え? と疑問を寄せたに大羽は上機嫌で頬を緩ませる。
「この間、中華街でメシ食った時に会計の前で固まっとった軍曹助けて結局特尉が半分近く払っとりましたからお返しじゃ」
するとは決まり悪そうに「知ってたの?」と小さく呟いた。
先日、との研修が終わった際に嶋本とを含んだヒヨコ全員で中華街の高級中華飯店に繰り出して嶋本が全員に奢るという出来事があった。その際の金額たるや嶋本の想像を遙かに超えるものだったのだろう。会計の際に財布を手に固まりつついっそカードで払うかと迷っていたらしき嶋本にが助け船を出していたのを大羽は密かに見ていたのだ。
「や、だって嶋本さんが奢らなきゃいけないような状況作っちゃたの私だし……悪いことしたなと思って」
「じゃけえど、特尉もワシらも普通の量しか食うとらんかったですけぇ会計の半分は軍曹が食べた分じゃ。実質特尉がワシらに奢ってくれたようなモンじゃろ」
そう、全員で夕食を取ったとはいえ実際は一人大食い、大呑み大会をしつつ説教をかますといういつもの嶋本のパターンとなっていて金額が予想外だったのはほぼ嶋本自身の所為と言っていい。なので懐が一番痛んだのは助け船を出しただろう。あんな年若い女の子になにをさせているんだ、と情けなく思ったこともあり後日それとなく嶋本にそのことを話してみた大羽だが、彼も決まり悪そうにしていたものの「なーにヒヨッコごときが将校の懐具合心配しとんのや! 100年早いわ!」と一蹴されてしまった。
確かに、仕事上の立場で言えば自身よりもは大分上なのだが……今はプライベートじゃし、などと思いつつ歩いていると、やはりこの辺りはデートスポットゆえか幾組ものカップルとすれ違って大羽は「ひょっとしてワシらもそう見えとるんじゃろか」などと思いつつハッとした。と同時にホッとする。
いつもは官舎と防災基地を往復するのみの生活なために機能性を重視したスウェットだのカーディガンだのを着ていたが、今日は珍しくそれなりにこざっぱりした服装をしていた。同じく機能性を重視していつも背負っているリュックも今日は背負っていない。
これならば彼女と並んでいてもそうおかしいことはないだろう、と安堵しつつそれなりに人で混み合っている赤レンガ内へと足を踏み入れた。
すれ違う人々がたびたびこちらに視線をくれるのは、たぶん隣にいる彼女のせいじゃろうな、と思いつつ飲食店フロアを歩いていると「ね」とが声をかけてきた。
「なに食べる?」
「え……、そうじゃなぁ……。あ、ここのハンバーガー食べてみたいんじゃった! じゃけど飯食わんと食うた気せんし……」
言われて独り言のように唸っていると、うっすらと緩くが笑って大羽は慌てて首をふるった。
「あ、ワシ、特尉の好きなもんでええですけえ……!」
「んー……て言われても……」
すると口元に手を当ててが考え込み、大羽はゴクリと喉を鳴らした。
こんなことでいちいちテンパるとは、我ながら男らしくないと落ち込んでくる。夕飯メニューくらいシャキっと決めえ! と自分自身に言い聞かせてに向き直って控えめながらにこう宣言した。
「じゃ、やっぱハンバーガーにしますかのう」
果たして、こんなデートのような場でその選択は正しかったのか否か。取りあえずが笑って頷いてくれたのでハワイ諸島からやってきたというハンバーガーをセレクトした大羽だったが出来上がったハンバーガーのケタ外れの大きさには思わず目を丸めた。
同期である神林兵悟が地元佐世保のハンバーガーはすごく大きいんだと目を輝かせながら話していたことがあったが、果たして眼前のコレとどちらが大きいのだろうなどと遠くに思いを馳せる。
すると、わ、と同じようにも興味深そうに大羽の前のプレートに目線を落としていた。
美味しそうだけど食べにくそう、などと言って笑うはハンバーガーより幾分食べやすそうなBLTサンドを頼んでいた。それを見て――、やっぱり無難に洋食屋にすべきだったじゃろうか、などとまたしても落ち込みそうになる自身を叱咤して取りあえずは空きっ腹を満たすべく自棄も手伝ってビッグサイズのハンバーガーにかぶりつく。
赤レンガ倉庫に入っているこの店はそれなりに有名で。防災基地は赤レンガの隣に位置しているものの、忙しさゆえに一度も来たことのなかった大羽は噂以上のボリュームと噂通りの味にそれなりに満足を覚えた。
こうして食事をおいしいと思えるのは誰かと共にしているからなのかもしれない、と思う。いくら独身生活とはいえ、大抵は同期の連中と食卓を共にしているし「常に一人」とはほど遠い生活なのだが――こうして緊張と高揚が入り交じった感情を覚えることなど無きに等しい。
「そういえば、あなたって南部さんに誘われてトッキューに来たんですってね。どう? 二隊の印象は」
「あッ、はい。それが……どうも二隊との合同訓練は緊張してグダグダで、隊長も呆れとるんじゃないかと思うとります」
との共通の話題と言ったら必然的にトッキューのこととなり、何気なく訓練の話や官舎での生活等々を話しつつ大羽は――眼前にいる彼女が「普通の女の子」ではなく「自身の上官」に近い立場なのだということを改めて感じた。
というよりも、「上官」以外の感情など抱くべき相手ではないのだろう。
先日のとの研修のあと、兵悟は持ち前の大きな瞳をキラッキラさせて「特尉、ほんと強かったよね!」と尊敬のまなざしで語っていた。星野は彼女を前にして尻込みした自身を自省しつつ「やっぱ凄いんだね。女の子だし、俺でもいけるかなーって思ってたけど甘かったよ」などと笑い、タカミツは心底青ざめて「俺、女性恐怖症寸前だよー」と項垂れていた。メグルに至っては「なーんが"強くなってよ、石井"だ! あがん生意気な女はノーサンキュー!」といつもの調子で言い捨てる有様だ。
けれども自分は――間近で直に彼女の「女」である部分に触れた所為だろうか? あれだけ罵倒の限りをし尽くされ叱咤され暴君ぶりを目の当たりにしたというのに、たったそれだけのことで彼女が心に引っかかってしまった。
元々星野のように剣道を真剣にやっていたわけでもない大羽としては、「」に対して諸々の先入観を抱いてはいなかった。漠然と顔と名前は知っていたものの、それだけだ。
だから初めて会った彼女の第一印象はごくありふれた「べっぴんさん」だったし、次にはその第一印象を完全に覆す「暴君」に変わり――、レンジャーサーキットでボコボコにされて一層落ち込む自分に絶対に負けると分かっていた腕相撲勝負を挑んで恐らく表に晒すべきではない彼女自身の弱点をさらけ出してまで励ましてくれたことで、一気に彼女の本質と存外に普通の女の子なのだと知った気がして第二印象はまたも塗り変わった。
今も、あのとき握った彼女の手の感触はリアルに覚えている――、と浮つきそうになる自分を誤魔化すように大羽は半分近くまで減っていたバーガーを一気に胃の中に流し込んだ。
そんなにお腹空いてたんだ、などと笑うとしばしトッキューについて語ってから食事を終え、赤レンガの外に出るとさっきまで薄暗かった空間はすっかり夜のとばりが降りていた。
「ごちそうさま」
先日が支払った額にはとうてい及ばないというのに律儀に礼を言ってくれたに曖昧な笑みを返しつつ、先ほどの約束通りどちらともなく横浜のシンボルの一つである巨大観覧車のほうへ向かおうとする。すると、不意に振り返ったが「あ」と呟いて大羽を見上げた。
「ね、ちょっとかがんで」
「ん……?」
なんじゃ? と聞き返す間もなく頬あたりに柔らかい感触を受け大羽は目を見開いた。
「ケチャップついてる」
背伸びしたらしきと間近で目があって自分でも分かりやすいほどに硬直し――、後追いの心音が痛いほどに高鳴った数秒後。ようやく事態を、がハンカチで頬についていたケチャップを拭ってくれたのだと認識できて大羽はバッと口元を腕で覆った。
ふふ、とは笑っていたがおそらく今の自分の顔はいつも愛用しているカープの野球帽も真っ青の色になっているのだろう。
はそれを「みっともない」という感情からくる照れだと解釈して笑っているのかもしれないが、実際は――とつい今、間近で見たの黒目勝ちの瞳をフラッシュバックさせてなお体温の上がりそうになる自分を叱咤しつつ大羽は首をふるった。
十月の肌寒い風を心地良いと感じるなど、どうにかしている。
いっそ眩しいほどにライトアップされた横浜の夜景も、何もかも見慣れた光景だというのに、彼女がそこにいるだけでまるで初めて訪れた場所のように思えてくる。
「キレイじゃなぁ……」
「ほんと……防災基地って立地条件良いわよね、羨ましい。でも……毎日見てると飽きちゃったりしない?」
「え!? あ、いつもは……みんなで走って帰ってますけぇ、まじまじと夜景見とる余裕ありませんでしたし」
ぼんやりとイルミネーションに見とれているとそんな風に言われて、大羽は慌てて切り返した。
みんなで走って帰るんだ、とは感心したように笑う。
「非番の時にはこの辺来ないの? デートとかで」
そうしてサラッと言われた言葉に大羽は自分でもみっとみないほど狼狽えた。
研修中の身でそんな浮ついたことできるはずがない。そもそもデートの相手がいない。などの考えが脳内を駆けめぐりはしたが口から言葉として出ずに尚更慌てていると、は特に返答を気にせずにふわりと夜風に黒髪を踊らせて足を進めた。
きっと単なる会話の流れや社交辞令といったもので、深い意味などなにもなかったのだろう。
それにしても、カッコ悪いのぅ、と大羽は内心溜め息をついた。
こういうとき、あいつらだったらどうするじゃろうか……と大羽がひとしきり同期たちの顔を浮かべていると、もっとも歳の近い親友の姿がポンとリアルに描き出された。
もう死語となって久しいが、今時シティボーイの彼ならば「え、デートで? 今来てるじゃん、君と」などと自分なら悶絶死寸前のこっ恥ずかしいフレーズを言い放ち、引かれたら引かれたで「ははは、冗談だよ、冗談」と上手い具合に切り返すのだろうな。と、ヤケに生々しい想像をしつつ大羽は人たらしの親友のことを少しばかり羨ましく思った。
とは言え、それならそれで男らしい所を見せられるかというと――、一般の女性ならいざ知らず既に彼女には「できの悪いヒヨコ風情」のレッテルを貼られてしまっている身だ。こればかりは挽回しようにも今の自分が嶋本に勝つ以上に無謀なことだ。
なんだか背中に重い物が乗っかっているような気分になり、沈み気味の表情をさらしていると「どうかした?」と訝しそうに見上げてきたに首を振るって観覧車のチケットを購入しつつ乗り場に向かうべく階段をリズム良く上がっていく。
乗り場の前には少数ではあるが待ち人が並んでおり、いずれもやはりカップルばかりで……大羽は今日何度目になるか分からない「ワシらもそう見えているんじゃろうか」という何とも言えない緊張を胸に過ぎらせた。
レーンの突き当たりでは、乗車直前の客をカメラマンが乗車記念とばかりにカメラに納めている。聞こえてくる話を耳に入れた限り、乗車後の踊り場で販売しているという。商魂逞しいのぉ、などと思いつつ大羽はのほうをチラリと見やった。
自分たちもやはり撮られるのだろうか、と思っている間にも順番が来てやや強引にカメラマンに通路の角に立たされてカメラを構えられると、は少し戸惑ったような仕草を見せた。
それもそうだ、彼女は「一般人」とは少し事情が違う。もしかしたらこういった記録の残るような行いには制限がかかっているのかもしれない。いや、それよりも恋人どころか「ヒヨコ風情」の自身とツーショットを撮られるというのが受け付けないのだろうか? などと考えること数秒。揺らめいていたの瞳は「撮りますよー」というカメラマンの声に呼応するようにレンズを見据えて緩く笑った。
それを見て、大羽はホッとしつつ他のカップル達とは違って微妙に二人の間の距離を保ったまま一応の笑みを浮かべて写真を撮られる。
すると、その様子を見ていた後ろの客達から「ねえ、あれって……」「……? マジで?」というささやき声が聞こえ、ハッとした大羽はの肩をギャラリーから庇うように抱いた。
「特尉……!」
そのまま誘導を待たず乗車予定のゴンドラへと向かい、チケットをスタッフに手渡して手早く乗り込む。
ふ、と息を吐くとは驚いたように目を瞬かせていて大羽は慌てて手を振るう。
「いや、あの、ギャラリーが特尉に気づいて騒ぎになりそうだったですけぇ……!」
自分といるところを写真に撮られてあらぬ所へばらまかれたら迷惑だと思ったゆえのとっさの行動だったとたどたどしく伝えると、は苦笑いを浮かべた。
「いや、別に……それはいいんだけど。むしろ、そうなったらあなたに迷惑がかかると思うわ。ワイドショーでネタにでもなったらゴメンね」
ぐ……、と大羽は声を詰まらせる。
は特自という機密性の高いミッションをこなす反面、自身は広報担当という矛盾を孕んだ立場を背負っている――と、星野か嶋本に聞いてはいた。
有名税というヤツで、隠し撮り程度は日常茶飯事なのかもしれない。
それに例えば、三流週刊誌にすっぱ抜かれたとして「、トッキュー隊員と横浜デート」程度では彼女のファンは落ち込みこそすれ世間的マイナスイメージにはならないだろうと客観的に思う。が、ファンに恨まれ記者にパパラッチされるかもしれない自分を思うとサッと血の気が引いてくる。
でも、別に迷惑なわけではなく――と考えてチラリとへと視線を送ると、彼女は視線を外に投げてぼんやりと横浜港の方を見つめていた。
その横顔を見つめる大羽の鼓動も次第に高まり、いっさいの会話もない時間がしばし続いたが、意を決して大羽はその沈黙を打ち破る。
「も、もうじき……ヘリからのリペリング降下訓練が始まるんじゃが、なんかコツとかありますか?」
しかし結局は仕事の話で、大羽の方に向き直った彼女は口元に手を当てて思案顔を浮かべた。
「リペリング降下のコツ……? えー……コツ、ねぇ……」
自身がリペリング降下訓練を行っている所を思い返しているのだろうか?
唸るを見つつ、大羽はしまったと思い至った。的はずれなことを訊いてしまったのかもしれない。
「あ、軍人はリペリングじゃのうてファストロープですけぇの」
「ん、そうね。戦場で悠長にリペリングなんてやってたら良い的だもの」
要するに安全性を取るか速さを取るかの違いではあるものの、レスキューマンと前線の兵士ではやることなすこと正反対に近い場合も多い。
だけど、とは思い至ったように大羽の方を見た。
「ファストロープでもそうなんだけど、やっぱり度胸かな。数をこなせば誰だってなれるから、最初の一歩踏み出せるかどうか。あと、飛んだ後はスピードの調節を自分で摩擦具合見ながらやるのは基地の訓練でもう分かってると思うけど、ヘリ降下の場合は安定度が桁違いに低くなるから……ってここで言っても分からないわよね」
ごめんなさい、などと苦笑しつつは長引きそうな指導話を切り上げて再び窓の外へと視線を移す。
止まることなく上昇を続ける観覧車は既に半分ほどの高さまで到達した。いつも通っている防災基地も、もはや横浜の夜を彩るイルミネーションの一つでしかない。
幾重にも光が重なり合うその様子は一言で言うなれば絶景で、眼下の美しさを素直に楽しめばいいだけだというのに。こんな密室に二人きりという事実も手伝ってそのような余裕は大羽にはなかった。
彼女にとって、自分は「海保のトッキュー未満の出来の悪いヒヨコ」だと思うものの、このように二人きりになることを受け入れてくれているのは嫌われてはいないということだろうか?
いや、しかし、だ。万に一つとっくみあいになれば確実にこちらが負けると分かっている。下手を打てば殺される可能性だってなくはない。
そんな相手なんじゃよなぁ、と大羽はから目をそらせないままに思った。
自分は彼女を「特尉」と呼び、彼女もこちらを「大羽一士」と普段はあまり呼ばれ慣れない階級で呼ぶ。今、自分にが見せているのは「特自の特尉」の顔で「」の素ではないのだろう。
眼前の彼女は、まともに勝負をしたら勝ち目のない相手。だけど、単純に腕力勝負なら自分の方が上なんじゃよなあ……と「特自の暴君」に「女」を見てしまってから、どうしても探してしまっている。本当の彼女はいったいどんな女の子なんだろう? と。チラチラと垣間見える彼女の素にいちいち滑稽なほど揺さぶられてしまっている。
しかし――「これ以上踏み込むな」という警告めいたものがどこかで鳴っているのもまた大羽は感じていた。
彼女の階級はトッキューで言えば隊長格と同等だという。ということは自分をトッキューへと誘ってくれた南部隊長と肩を並べるということで、自分にとっては雲の上の存在――言ってしまえば「高嶺の花」だ。
自分はまだまだオレンジすら着れないヒヨコ風情でしかなく、ならば必死であがいて隊長まで上り詰めれば……! と思うものの、それが叶う頃には彼女は更に手の届かない先へと行ってしまっていることだろう。
そもそも、研修中の身だというのに女のことを考えている場合か? と、この心情を嶋本にでも知られれば真っ先に叱咤されるのが目に見えている。まして、あのにこのようなよこしまな感情を抱いているとなれば「身の程を知れ!」と半殺しの目に合わせられるだろう。
自分でもそう思う。そんな余裕はどこにもないはずだ、と。
だが――、一度気になってしまうともう手遅れなのだ。行動の一つ一つが、目線の上下さえ何を考えているのか気になって、胸の中がそのことだけで満たされていく。
どこか色のない黒目勝ちの瞳の先で、彼女は何を見て何を思っているのだろう――とから視線をそらせないでいると、ふ、との瞳がかすかに細められた。
もう少しで頂上に到達する、というアナウンスを聞いてからは小さく呟く。
「この光景も見納めかなぁ……」
独り言のようなごく小さな声だった。その証拠に相変わらず彼女の瞳は窓の外に向けられたままだ。しかし弾かれるように反応した「え!?」と声をあげる。
「見納めって……転勤でもするんですか?」
するとは一度瞬きしてから大羽に向き直り、「ううん」と首を振るった。
「来週からアフリカに行くの。だから……」
「アフリカ!? アフリカって……激戦地じゃろうに」
「そうだけど、でも命令だし。まあ、予定では年末には戻れるみたいだし短期派遣だけどね」
「じゃけぇど……」
淡々と言い下すに大羽はゴクリと息を呑んだ。アフリカはもともと内紛が耐えない地域であり、開戦してからは「アフリカ戦線」と呼ばれる激戦地と化している。そんな最前線には今も日本の軍人は派遣されているし戦死の報も少なくはない。
そんな場所へ――とおののくと同時に、こうして彼女は最前線へと送られ、飛び込んでいく兵士なのだと改めて思い知らされた。
年末には戻れる、と言ったものの、見納めかもしれない、といっそ不吉なことさえ口にしたのはそれ相応のことを覚悟している証だろう。
自分にあっさり腕相撲で負けるような女の子がなぜそんな場所へ、と表情を歪めそうになるも大羽は言葉に窮した。
まだ地元にいたころ、瀬戸の海を駆け回っては密猟者を捕らえたことが何度もある。身の危険を感じたことさえ数度の経験ではないが、それでも「死ぬかもしれない」覚悟をリアルにしていたわけではないし、事実そこまでの危険はなかった。
それでも――男の自分さえ決して楽な仕事ではなかった。身体に傷の一つや二つもらうことなど日常茶飯事だ。それを遙かにしのぐ想像さえ絶するような場所へ彼女は行こうとしているのだ。
硝煙と砂埃の舞う地で、目の前のがいなくなるかもしれないという事実を前になんと言えばいいというのだろう?
相手は、上官であり軍人であり、そもそも恋人はおろか友人ですらない。頑張ってくれ、とも、気を付けてくれ、とも口にして良い言葉ではない気がする。
いっそ世間と同じように彼女を世紀末に現れた正義のヒーローのように讃え崇めれば、こんな心情になりはしないだろうに。

『私が行った方が良いと判断した上の指示なんだから……』
『強くなってよ、石井。女の私を出した方が戦果が得られるって上に判断させないくらいにね』

だけども、やはり……が言っていた言葉を勝手に脳が再生して、込み上げてきた感情がどうしようもなくて大羽は絞り出すように呟いた。
「ワシが、特尉の代わりに行けたら良かったんに……」
え、との声が固く尖ったのを感じつつも大羽は眉を寄せる。
「ワシじゃ真っ先に戦死する役立たずなんは分かっとります! じゃけえど……やっぱり不憫じゃ。怪我でもしたらと思うと……特尉は、女の子ですけぇ」
すると、確かに空気が冷えたように大羽には感じられた。
的はずれなことを言ってしまったという自覚はある。しかしこれが正直な思いで――と胸中で巡らせていると少しの沈黙を破ってくつくつと小さくが笑い始めた。
「と、特尉……?」
次第に我慢できないと言った具合に口元をおさえて笑うに大羽はぽかんとした表情を晒すしかない。
なにか笑われるほど不味いことを言ってしまっただろうか? などと思い巡らせる前に、眼前のを見て「笑った顔もかわええのう」と逃避か的はずれかさえ分からない感想を抱いて眺めているしかなかった。
地上間近までゴンドラが近づき、ようやく笑い終えたらしいは息を整えてパッと顔をあげると大羽の顔を覗き込むような仕草を見せた。
「ありがと。分かった、気を付ける」
予想外に間近で見た笑顔。大羽が固まっていると、「お疲れさまでしたー」という声がけとともにゴンドラの戸を開いたスタッフに従いは一足先に地上へと降りる。ハッとした大羽も慌てて地上へと降り、の背を追った。
「と、特尉……!」
軽い足取りで階段までの渡り橋を歩くを呼び止めると、黒髪を揺らしながら振り返った彼女は先ほどよりも幾分柔らかい笑みを浮かべていた。
「綺麗だったわね、乗ってよかった」
「え……」
そして、わあ、とライトアップされた街並みに目をやって感嘆の息を漏らし、大羽も宝石を散りばめたような光景に目を移してしばし夜風に身を委ねた。
つい先ほどの発言をが不快に思っていないのは伝った。ただ、幻想的な空間がまるで夢の中のようにさえ思えて――、そのまま踊り場に出ると足早に通り過ぎようとするを呼び止めて大羽は自身の財布を取りだした。
眼前では、乗車前に半強制的に撮られた写真の数々が並べられている。
「え、買うの……?」
「せっかく乗ったんじゃし……」
少しばかり気恥ずかしくて目線を泳がせつつも、これが夢ではないという証拠を残すためだ、と自身に言い聞かせて大羽はプリントされるまでの僅かな時間を不審そうなの目線に耐えつつ目的のものを手に取ると元来た道を戻るべく歩き始めた。
せっかくのツーショットを逃すのが惜しい、という単純な理由を「今日の証拠」などと自分に言い聞かせてしまう辺り情けなく思ったものの手にした写真は彼女は言うに及ばず我ながらなかなか男前に写っている。そのあたりは流石プロの仕事ということだろう。
「"十月某日、コスモクロックに乗りました"か……。良いの? 彼女にでも見られたら不味い仕様になってるみたいだけど」
一人顔を緩めているとひょいと写真を覗き込んできたがそんなことを言ってきて、バッと大羽は反射的に写真を収めてある台を閉じた。
ただでさえ怪訝そうで心配げな色も孕んでいた声だったというのに、今のどう見ても不審なリアクションから彼女は「ほら、やっぱり」とでも言いたげな表情を深くして大羽はぶわっと冷や汗を背に浮かべた。
星野、こういう時はどう切り返せばええんじゃ……、と心内で都会っ子の親友に疑問をぶつけつつ、大羽は傍目には機嫌が悪そうに見えるほど眉間に皺を刻む。
「彼女がおったら、いくら上官に近い人言うても……、こがぁなデートみたいな真似しませんけぇ。誤解せんといて下さい」
そしてそんな風に言うと、の切れ長の瞳が大きく見開かれた。
ひょっとして引かれたのか? いや、それよりも写真を購入した理由にすらなっていない、と内心不安を込み上げさせていると、は小さく「そう」と納得したように呟いた。
「前評判通りの性格なのね、大羽一士って」
「は……?]
意味深げに言われて思わずどういう意味か訊き返すとは「なんでもない」と笑って誤魔化した。
けれど、その表情から悪い意味ではないだろうことが読み取れる。ならば、それでいいか、と納得しているうちに広場へと出てそろそろお開きだということは大羽にも分かっていた。
「じゃ、私、車向こうだから」
予想通り、は港のほうに目線をやって一言そう告げた。これ以上は彼女を引き留める術もなく、大羽も頷く。
「あ……、良かったら官舎まで送っていこうか?」
港の方に足を向けようとした彼女がその足を止め予想外の申し出をくれたが、大羽は一瞬それに乗っかりたい心情を抑え首を振るった。
「走って帰りますけぇ、気ぃ遣わんといて下さい」
「そう……?」
彼女の運転で官舎に送られるなど、最後の最後まで情けない事態はできれば避けたいところだ。
「じゃあ、次に会うとしたら……そのときはもうオレンジ姿のトッキューね。研修、頑張って」
「――は、はい。頑張ります!」
会うとしたら、という引っかかる言葉を残したに大羽が姿勢を正して返事をすると、彼女は笑顔で手を振ってから大羽に背を向け歩き始めた。
未練がましく、見えなくなるまでその背を見届けてふっと息を吐く。
追って捕まえて、その先に見えるものを知りたい。――と胸の奥に根付いている感情に大羽は思い切り蓋をかぶせた。
ともかく、彼女に言われたように今はオレンジを着ることが第一だ。
彼女が無事帰ってきて、また会うことがあれば、今よりは逞しくなった姿を見せたい。だから今は、オレンジを着ることのみを考えるんじゃ、と大羽はくるりとが歩いていった方向とは正反対の方向に走り始めた。
目の端を痛いほどのイルミネーションが過ぎ去っていく。
以前握ったの手の感触。今日、間近で見た彼女の表情、笑顔――抑えても抑えても甦ってくるリアルな映像を振り切るように全力で駆け、大羽は夜空を仰いだ。
「クレーイジーレースキュー!!」
オレンジ、オレンジ、オレンジ。
呪文のように浮かべながら走り続ける空に、白い息が溶けるようにして消えていった。











意外な方向に行きすぎました……。どうなる? 大羽の恋(?)

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