Yes or No? - 反面教師 -






横浜海上防災基地――ここは海上保安庁管轄の訓練・研究に使用される基地であり、今現在は新人トッキュー隊員の研修に使われている。

「おはようございます!」
「おはようございます! ――全員揃っとるようやな」

防災基地の武道場に集合した新人五人――通称ヒヨコ隊を前にして教官を務める嶋本進次はチラリと自身のダイバーズウォッチに目線を落とした。
「今日の訓練は――」
言いかけたところで入り口の方から足音がし、嶋本は改めて姿勢を正してそちら側を向く。が――。
「おはようございます」
挨拶を口にしながら歩いてきた人物を見て嶋本は気合いを入れすぎていた表情をきょとんとしたものに変え、ヒヨコ隊を整列させたままその場に残して入り口の方へ歩み寄った。
「久しぶりやな。……一人なんか?」
姿を現したのは黒の作業着に身を包んだ嶋本よりも大分年下の女性――だ。は少しばかり口元に笑みを浮かべてから緩く頷く。
「お久しぶりです、嶋本二正。ええ、浜田特尉と来る予定だったんですけど、急に本部から呼び出されて……羽田には連絡入れたはずですけど、聞いてませんか?」
「いや聞いてへんわ。なんや、浜田来んのかー……アイツに会うのも久々やったっちゅーのに」
「私一人では、何か不満でも?」
「い、いや……そうやないけど」
から鋭い目線をもらった嶋本は一瞬目を泳がせて宙を仰いだ。そうしてハッとしつつ、取りあえずヒヨコ隊に紹介するべくを整列させているヒヨコの前まで連れて行く。
「紹介するで、今日の訓練を特別に担当してもらうことになった特自の特尉や。まあ、言うたら今更説明はいらんやろうが……なんやポカンとして?」
嶋本の言うとおり、ワールド・五輪を制して名実共に世界にその名を轟かせたを知らない日本人がいるはずもなく、ヒヨコ達はみな互いの顔を見合わせつつ「本物?」と呟いている状態だ。
嶋本は窘めようとしたが、はそれを手で制して咳払いすると一歩前へと進み出る。
「今日の訓練を担当させてもらうです。取りあえず各自名前と階級を教えてもらえるかしら、左のあなたから」
左にいたのは一番大柄な男性で、大柄な身体に似合わずビクッと身体を震わせると緊張気味にやや視線をから外しながら言った。
「さ、佐藤貴光、二等海上保安士であります!」
頷いたが次に目配せすると、そこからは順々に皆自己紹介をしていく。
「神林兵悟です! 同じく二等海上保安士です」
「石井盤です、羅針盤の盤と書いてメグル。三等海上保安士ですバイ」
「大羽廣隆、一等海上保安士です」
「星野基です、三等海上保安正ですっ」
最後の一人が言い終わり、は「そう」と呟いてチラリと嶋本を見やった。
「今年の新人も保大からは一人、か……」
「なんで俺を見るんや?」
「いや、大丈夫なのかな……と思って」
嶋本とのやりとりをただ見ているだけのヒヨコ達がの言葉の意味など分かるはずもなく――うずうずしていたヒヨコのうちの一人、神林兵悟は思い切ったように手を挙げ二人に向かって声をあげた。
「あの、嶋本さんと特尉はどういった関係なんですか!?」
突然のことに他のヒヨコ達はビクッと身体を震わせ、嶋本とは互いに顔を合わせる。
「どういった、って……お前と初めて会うたのいつやった? 陸自の連中と一緒のレンジャー訓練やったか?」
「んー、海保の定例訓練の時だったような……」
そんな会話を交わしてから、嶋本は今日の説明も兼ねてザッと兵悟たちに話をした。
特自はありとあらゆる分野に置いて超一級に秀でた者ばかりを揃えたスペシャルチームでもある。そんな特自及びトッキューを含めた国内の特殊部隊は互いを高め合う目的で訓練交流することも多く――必然的に顔見知りとなる。
嶋本との場合も例に漏れず、訓練で顔見知りになって以降今に至っていることを話してから嶋本は「そんなことはどうでもええんや」と話を切り替えた。
「今日の訓練内容は特尉の監督のもと、いつも通りの泳力訓練、レンジャー訓練を行う。これに加えてお前らには特尉と――チャンバラやってもらうで」
嶋本の言葉にヒヨコ一同は「は?」という表情を浮かべるものの、嶋本はあとはに託して自身はの後ろに一歩さがる形を取った。
逆に前に進み出たは淡々とした表情で言い下す。
「あなたたちもそれぞれ保校や保大で武術及び逮捕術の訓練は受けたと思います。トッキューの任務は主にレスキューとは言え、いつ敵とやり合わなければならない時が来るかは分からないわ。そこで、これから私が一人一人に対して近接格闘の指導を行います」
そうしては各自決められた防具をつけ、ソフト警棒を用いてこれから一対一の勝負を自身と行うのだと細かく説明するとヒヨコ達はそれぞれ顔を見合わせていた。皆が戸惑うような雰囲気の中、一人露骨にため息を吐いたのは石井メグルだ。
「はー、めんどくさかー。女相手に本気で訓練できるわけなかろーもん」
「ッ、石井――ッ」
そんなメグルを見て嶋本は慌てて怒鳴りつけようとしたが、はこの手の反応に慣れているのだろうか? 再び嶋本を制しつつこうメグルに切り返す。
「石井三士、だったらあなたは敵が女性だった場合……そんな言い訳しながら死ぬのね?」
「……は?」
「ありとあらゆる理不尽なことが起きるのが本物の現場なの。でも、そうね……あなたに手を抜かれたら訓練にはならないから、こういうのはどう? 私に一打でも入れられたら、三階級特進をプレゼントするわ」
あくまでサラッと言ったに一同はぽかんとした面を晒し、同じくあっけにとられる嶋本の方をチラリとは振り返る。
「三つも階級あがったら最低でも士官クラス……役職的には副隊長も兼任してる嶋本教官に並ぶわよ? 星野三正以外は三正以上に昇格するのは大変だけど、これであっさりトッキューの隊長にだってなれるわ。どう?」
、なにを――」
「私に土をつけられるほどの優秀な人材、こちらから頭を下げてでも優遇するのに何の問題もないでしょう?」
声をあげかけた嶋本のほうを振り返ってはそんな風に言い、嶋本は口を噤む。がそう言った以上、それは本当に実行されることなのだろう。悟って嶋本は深い息を吐いて静観を決め込んだ。
はそれ以上の反論・質問は許さずヒヨコ達に準備をするよう指示すると、髪を結いながら嶋本へと歩み寄る。
「面白いですよね」
「何がや?」
「だってほら、彼らの表情。……本気で私に勝てると信じてるみたい」
高い位置で髪を一纏めにしながら言ったの言葉はあくまで嫌味でも傲りでもなく淡々としたもので、嶋本は思わず息を呑んだ。
ヒヨコ達はまだ戸惑いを見せているものの、目の前にエサをぶら下げられて少なからず闘志が滲み出ている。しかも、これから強敵に立ち向かうという緊張感漂う闘志ではなく、すっかりエサにありつける気になっているものだとは嶋本にも感じ取れ――怖いもの知らずを羨む前に自らの教え子に呆れる気持ちと、案ずる気持ちが同時に生まれていた。

――気ぃつけときやお前ら。の訓練は俺の指導の比やないぞ。

おそらく、数分後にはいかにその自信が無意味なことかを身をもって思い知る羽目になるのだろう。
が、に託した以上はお手並み拝見を決め込む嶋本だ。その彼の目線の先では作業着のまま警棒を手にとってヒヨコ達に目線を送っていた。
「さっきも説明した通り基本ルールはなし。救助に降りた船上であなたたちは敵に遭遇、これを仕留めるか捕らえるか……という状況想定訓練よ。では最初は――」
「あ、あの!」
「なに、神林二士?」
またも神林兵悟がの話を遮りは若干眉を寄せるも、兵悟は気にするそぶりもなくの装いを頭からつま先まで舐めるよう見て不安げな声を口から飛ばした。
「防具……特尉はつけないんですか!?」
兵悟の疑問はヒヨコ一同は急所に保護具を当てているのに対し、は何も着けてはいないことだったらしく、ああ、とは兵悟に向き直った。
「必要ないもの」
「でも……!」
「これがもしアクチュアルだったら、私はあなたたちに一打もらった時点で死ぬんだし。ルーキー未満のあなたたち相手にそんなヘマすれば私は菊花徽章を外します。――私とあなたたちは対等ではないんだから」
言われた兵悟は黙らざるを得ない。元々、各区管では負けなしの実力者たちが選抜されてここトッキューの新入りとして集ったのだ。彼らのプライドは山よりも高く海よりも深い。が、この新人研修で鬼のような嶋本のしごきを目の当たりにしてそのプライドもガタガタに崩れていたとはいえ――、女性相手にここまで言われて闘争心に火のつかないほどのタマでもない。
としては今の発言は本心でもあり、ヒヨコたちを煽るためにわざと言った部分もあったが――先ほどよりも更にいい顔つきになったヒヨコ達を見てスッと目を細めた。
「それでは開始します。最初は……」
「はいッ! オイがやりますバイ!」
「――では石井三士、前へ」
が指名する前にメグルが手を挙げ、了承したは武道場の中央へとメグルを導いた。
「まずは手並み拝見じゃ」
「そうだね、特尉の出方が分からないから……一番手は避けた方が無難だよ」
大羽と星野が小さく言葉を交わす先で、は警棒を構えてメグルを見据える。
「ではこれより訓練を開始する。――用意、テ!」
は敢えて海保に合わせた開始宣言をし、遠巻きに見ていた星野は途端に変わった空気を敏感に感じ取ってゴクリと喉を鳴らした。
「どうしたんじゃ、星野?」
「だっ、て……これじゃメグルは攻められないよ。ただ構えてるだけなのに、隙なんてどこにもない」
ただ構えているだけ。――事実、は本当にただ構えているだけだった。ともかく相手の方から側に踏み込んでくる気概もなければ訓練にすらならないし、仮にも未来のトッキュー隊員として選ばれるほどの人材ならそのくらいは出来るという信頼もあった故にあえて待ちの姿勢を取ったのだ。
「――ルールなしってことは」
攻めあぐねたのか否か、メグルは他人には聞こえないほどの声で呟くといきなり身を屈めてにスライディングよろしく突進した。
「何でもアリってことばい!」
足を払って体勢を崩させようとしたのだろう。剣道のルールに則れば足を出すなど論外。――そこに勝機があると睨んだのかもしれない。
が、そんな浅はかな考えなど十分予想の範囲内だったは飛び上がって床に手をつき、前方へ鮮やかに一回転してからそのまま体勢を立て直すに至らなかったメグルの首元に警棒を突きつけた。
「――石井盤三等海上保安士、船上で賊に討たれ殉職」
「ッ……!」
「あなた現場でもそんなスライディングかます気? 隙だらけで話にならない」
目を見開くメグルを見下ろしてから、は警棒を引くともう一度間合いを取る。
「立って。二本目行くわよ」
一瞬のうちに何が起こったのかメグルはとっさに理解できなかったのかもしれない。
「がっばい腹立つ!」
しかし悔しそうに唸ると飛び上がって今度は素直にに猛進した。が、全てを受け流され、今やメグルはのソフト警棒に良いように嬲られてまるで一方的なリンチのようにさえ見え――嶋本は腕を組んで見守りつつも他の四人はさすがにハラハラしつつ顔に焦燥の色を浮かべていた。
両手で振り下ろされたメグルの警棒を振り払い、そのまま懐に踏み込んでメグルを突き飛ばしてからは小さく息を吐く。
「もう終わり? 最初は女相手にどうとか威勢良かったのにこの程度なんて残念ね」
ゼーハー息を切らせながら床に突っ伏してしまったメグルは今の言葉にピクッと反応し、ガバッと身を起こして大声をあげた。
「なんねッ、そがん物言い年下にされたなか! オイは男やけん女相手に無意識に手加減しとるだけやろーもん! ちーとばかし顔と腕が良かけんって調子にのんなさ!」
「――よせッ、石井!」
攻撃から口撃に切り替えたメグルに静観を決めていた嶋本が青ざめる。が、はそれを手で制止すると無言のままメグルを睨み付け、そのままツカツカとメグルとの間合いを詰めた。
急に近付いてきたをメグルが警戒している暇は恐らくなかっただろう。なぜなら――口を開く間もなく頬に強烈な右ストレートをくらって一メートルほどすっ飛ばされたからだ。
口の中に鉄の味でも広がったのだろうか。一瞬唖然としたらしきメグルはすぐに上半身を起こして再びに噛み付く。
「なッ、なんばすっとかこの暴力女――ッ」
「黙れ石井。私を呼ぶときは"特尉"と付けて敬語で話せ」
しかし、はメグルの胸元を掴みあげて凄むと今度は警棒でメット越しにメグルの頭を強打して再び冷たい床へと沈めた。
「ぐッ……!」
「トッキューだからってね、いつも海難が相手とは限らないのよ!? 今まで死人ゼロ? トッケイは先月マラッカの海賊にやられて一人殉死してるわ。トッキューだっていつどんな出動要請がかかるか、まして防衛大臣の指揮下に入って私たちと一緒に戦うことだって有り得ない話じゃないのよ! それがなに、このザマは!」
そうしてメグルをその場に立たせてから再び突き放す。
「私は嶋本教官ほど優しくないからね。――肺が破れて血反吐吐いても励んでもらうわよ」
一番反抗的だったメグルがトップバッターとなったのは良い見せしめでもあったのだろう。嶋本が「優しい」と評されたことに誰も疑問を抱けないほどにボコボコにされていくメグルを見て、ついにヒヨコ達は口もきけないほどの状態まで縮み上がってしまった。
しばらくしていよいよ昏倒したまま起き上がれなくなったメグルに目線を流して息を吐くと、はくるりとヒヨコ達のほうを向いて警棒を肩に掲げた。
「次、神林。前へ」
「はッ、はい!」
一瞬何を言われるかと身構えたヒヨコ達は、兵悟が指名されたことで難を逃れた面々は安堵しつつも兵悟は額から滝の汗を流しつつ前へと進み出た。
「お、お願いします!」
「よし、訓練開始。――用意、テ!」
兵悟はゴクリと喉を慣らした。実際、メグルはボコボコにやられているがの言うとおり現場は理不尽なものなのだろう。トッキューとはいえ、いつどのような現場に呼ばれるとも限らないのもまた事実だ。ならばに食らい付いていくしかないのだ――と必死に警棒を振りかざし、そんな兵悟を遠巻きに見てボソリと星野はこんなことを言った。
「彼女の目には、全部止まって見えてるんだよ……」
いとも簡単に兵悟の攻めをかわしていく。そうや、と嶋本も相づちを打つ。
「特尉のなにが凄いかて、あの常人離れした動体視力や。――せやけど」
嶋本は顎を手で覆った。見たところ、はかなりの手心を加えているとはいえ兵悟はメグルよりはの攻撃をなんとか止めきって凌いでいる。
ひょっとして……と感づいた嶋本と同じ事を、兵悟の相手をしながらも感じていた。
「神林二士」
「は、はい!」
「あなた、視力はいくつ?」
「え? ……2.0ですけど」
そう、とは汗を散らせながら頷いた。彼は技術は全然心許ないものの、こちらの動きは正確に捉えられている。ということは余程特殊な視力をしているのだろう――と理解するも所詮はルーキー未満。メグル同様へばった所では止めの指示をし、再び残りのヒヨコ達の方を見やった。
「次、星野三正!」
「は、はい!」
ヒヨコ唯一の保大出身者で、しかしながら均整の取れた肉体とは裏腹にどこか弱々しい印象の星野を呼んだは自身の前までやってきて警棒を構えた星野に「へえ」と息を吐いた。
「星野三正、保大では剣道選択?」
「は、はい……! 二段まで取得しました!」
「やっぱり。一番構えがまともだわ」
言われて星野は額に汗を滲ませる。――いっそ剣道のことなど知らないほうが余程良かったのかもしれない。彼女の、の腕のほどはブラウン管越しにイヤと言うほど見る機会があって漠然と強さを知ってはいたものの、実際に対峙してみると恐ろしいほど伝ってしまう。
勝てる気がしない、と戦う前から意気消沈してしまうのだ。
「あなた、私に一打くわえたら三等海上保安監よ? 一気に十五年分の出世ね」
煽られていると分かっていても星野はどうしても一歩踏み出せなかった。いつも皆より一歩先に行ってしまうメグルがあの状態で、少しでも自分の強みをアピールできるチャンスだというのに。
――腕がすくんで、動けない。
そんな星野をは三分ほど見つめていたが、やがて青ざめて震える星野を見てため息を吐くと小さくと首を振るいつつ呆れたように零した。
「唯一の保大出がこれなんて。……もういいわ、次、佐藤タカミツ!」
「はッ、――はい!」
星野をその場に放置してはヒヨコで一番大柄なタカミツを呼び――、気弱なタカミツが泣きべそをかきそうになったところで最後に大羽を呼んで一頻り訓練を付けるとうんざりしたように言い放った。
「苦しい? 疲れた? もうやめる? ……そんなことで本当に人の命を救えると思ってるの!?」
訓練の様子をジッと見ていた嶋本の表情が険しくなる。その言葉は――トッキューの掲げる理念でもある。それを理解して、は心から彼らヒヨコ達を引っ張り上げる目的で稽古をつけてくれていることは明白で。だからこそ口出しはできないのだ。もはや女相手にこれだけ言われても反論すら出来ないほどに精根尽き果てている彼らから目をそらさないでいるのもまた教官の務めだ。
の方は、ふう、と息を吐いてからもはや反論もままならないヒヨコ達にこう言った。
「――十分休憩。次はワンバディごとに2対1の訓練を行う」
ぐったりと膝を付くヒヨコを後目にツカツカと武道場の外に向かいつつ、は眉を寄せて嶋本の横を通り過ぎる。
「ほんっと、使えない」
嶋本はそんなの背を見送ってから、呼吸もままならないヒヨコ達に声をかけに行った。
「大丈夫かー? せやから言うたやろ、よせ、ってな。軍は俺ら以上に階級に厳しいんや、いくら相手が年下やいうてもお前らぺーぺーが士官にタメ口なんぞ殺してくれ言うとるようなもんやぞ、分かったか石井」
すると酸素マスクを手に取っていたメグルは眉を撓らせて憎まれ口を叩く。
「……オ、オイは悪くなかばい……」
「しっかし、あんな荒れたは珍しいで。あの呆れよう……俺まで指導力不足言われるわ」
「……す、すみません……」
酸素不足で腕を震わせながら言ったのは兵悟だ。
ハァ、と嶋本は息を吐く。
「ま、特尉の場合、物心ついた時から日の丸背負っとったっちゅー気構えに関してはお前らとは差がありすぎるんや。なんや、強いっちゅーことがいっそ義務なほどにな……」
そうして嶋本は独り言のように呟いてからふと宙を仰いだ。そうして何か思い詰めたような色を瞳に浮かべたのち、ふるふると首を振るう。
「しかしこれでお前らも認識甘かったんが身に染みたやろ! 次の訓練はもっと頑張りや!」
叱咤するように嶋本が言えば、窶れ気味の表情で大羽や星野は苦笑いを漏らした。
「べっぴんなんに、キッツイ子じゃのー……」
「ほんとだね。俺も、少しは剣道自信あったし……向かい合う前までは、あのと一戦やれるなんて嬉しかったんだけど……甘すぎたよ」
そうして、休憩明けの訓練は更に熾烈さが増した。
バディを組めば、やはり相方がいるということで士気は格段にアップする。が、気力を限界まで出し切った所でどうにかなる相手でもなく――より一層ボコボコにされていくヒヨコ達を見つめつつ、嶋本は眉を寄せていた。
別に、あまりに厳しいを苦に思ったからではない。むしろ普段の正規軍との訓練の時は彼女はもっと厳しいし今は優しい方だ。そうだ――いつも合同訓練でや軍の精鋭達に会うと「こいつらほんまに同じ人間か!?」と圧倒されることばかりだ。
付いていくことさえギリギリの訓練を、自分より一回りは年下の少女がこなす姿は嶋本には異様に映り「なんでこないなことするん?」と嶋本は過去にに訊いたことがある。すると彼女は「できるから」と答えた。
強くなりたい、強くなければ、強く在らなくては。――もう彼女がどういった理由で戦っているのか俺らにも分からんよ、とは嶋本と懇意にしているの同僚・浜田特尉の話である。
嶋本自身が身体を鍛えトレーニングを積むのは――誰かに負けたくないという少年じみた思いもあるものの、一番はやはり自分の命を守るためである。レスキューにおいて、要救助者の命を助け、そして自分自身も生きて戻るために日々の鍛錬を積んでいる。これはおそらく普遍的なもので、軍人であろうと結局は自分の命を守るために鍛え上げているのだろうとも嶋本は思っていた。
しかし――は違う。
ふとした拍子に、は訓練の最中――ひどく楽しげで、そしてひどく空虚な表情を見せることに嶋本は気づいていた。
今もそうだ。ヒヨコを相手にしながら、時にふっと残酷なほど楽しげな表情を見せたかと思えば、ふ、と空虚な色を見せる。
自分たちはレスキューマンだ。軍人ではない。だがは――歴とした軍人で、既に何度も前線に出ていることは嶋本も知っていた。
彼女が自身の部下であれば「トッキューは生きて帰ることが誓約や!」と教え聞かせてもやれるが、命のやりとりが実際に行われる場所へと飛び込む彼女に、生きて戻れ、などと軽々しくはとても言えなくて。そして彼女の空虚な瞳が既に「死」を見据えているようで嶋本はどうしようもないほどのやるせない思いを抱えていた。
彼女は幾度となく戦場から生きて戻ったが、おそらく同僚や部下が全員無事で戻るということはなかっただろう。嶋本自身、教え子や部下を持つ身として……彼らを失うことなど想像を絶するほどの苦痛を伴うのは考えただけでも分かる。レスキューマンとしても、目の前で要救助者を死なせてしまうという過酷な現実はままあることで、ましてや目の前で部下を失い、自らの手で敵に手をかけるというのは想像を絶する世界だ。
あんな、まだほんの少女がなぜそんな思いをしてまで、と狼狽心ながら思わずにはいられない。

――なんや、まるで死にたがっとるようにさえ見えるで。

嶋本はより一層眉間の皺を深くした。
ギリギリの人命救助に携わっているからこそ確信していることがある。生きたい、というのは人間の本能だと。どんな人間もギリギリまで生きたいと願い、時に奇跡と呼ぶに相応しいパワーさえ見せてくれるものだ。軍人だからと言って戦いたがり、死にたがる人間はまずいない。どれほどの猛者と訓練をしていてもそれは常に感じていることだ。
しかし、にはそんな執着さえないように思えることもある。
いっそ戦場で死にたい。と、そう願っているようにさえ見え――、そんな彼女を叱咤する権利も度胸もないというのに案ずる気持ちが一向に消えない自身の性質を我ながら厄介だと思いながら嶋本はチラリとダイバーズウォッチに目をやり、へと声をかけた。
特尉!」
「……はい?」
「昼メシや、さすがにコイツらにも物食わせんとあかんやろ」
するとは少しの間を置いてから「了解です」と返事をする。
「それじゃ、午前の訓練はここまで!」
そう宣言すると、ヒヨコ達は心からの安堵の息を吐いた。そんなヒヨコ達をは鋭い目で見やったものの、休憩時間まで教官を続ける気もないらしく――ふ、と肩の力を抜いて表情を緩めつつ一旦顔を洗ってから休憩室に向かった。
すると、ポンと嶋本から軽く肩を叩かれ労いの笑みを向けられる。
「おっつかれさん! 久々にみたわ、鬼の! いやー、トッケイの連中でもお前には泣かされとったしなー」
「……でも、今年トッケイの新人も見ましたけどあっちのがまだ使える感じでしたよ」
「まあ、武術に関してトッケイに遅れを取るんはしゃーないやん。得意分野違うんやし」
「まあ、そうですけど」
が嶋本に目線を落とすと「そういや」と嶋本は若干眉を寄せて視線を上向かせた。
「お前、身長いくつや?」
「え……? さあ、160ちょっと、かな」
「160!? なんやお前、この前まで俺よりちっさかったやん」
「そんなこと言われても……最近まで身長止まらなかったんですし。今だって同じくらいでしょ?」
「わー、比べるなアホ! 見下ろすな!」
低身長の嶋本はそんなやりとりののちに真剣に嫌そうな顔をし、同じくらいの目線なのに、とは苦笑いをしつつ二人はそのまま休憩室のソファに腰を下ろしてそれぞれ持参した昼ご飯を広げた。
そうしては眼前に広げられた嶋本の昼食を見てキョトンとする。オニギリ、弁当、カップ麺。どれもこれもコンビニで仕入れたと思しき物ばかりだ。
「……嶋本さんて、まだ独身でしたっけ?」
ボソッと言った言葉に嶋本は露骨に眉を歪めて口元をヒクつかせた。
「独身で……悪いか……?」
「いや、べつに」
「ってお前その質問何度目やねん! 会うたび会うたび嫌味か!? そもそもお前んとこの浜田かてまだ独身やんけ!」
ガタッと机に手をついて立ち上がった嶋本はゼーハー息を切らせて熱弁し、その様子をぽけっとが見ているとドカッと再びソファに腰を下ろして腕を組んだ嶋本はこう言い放つ。
「まあ、俺くらいのいい男になるとやな……なかなか釣り合う女がおらんっちゅーだけや」
「……そう」
が適当に相づちを打つと、再び嶋本は口元を数秒ヒクつかせてから耐えきれなかったのか割り箸を折る勢いで握りしめた。
「そこは突っ込むとこやろがボケェェェ!!」
そんな嶋本とのやりとりを遠巻きに眺めつつ、別のテーブルで昼食を広げていたヒヨコ達は死にそうな表情をしつつどうにか食事を喉に通していた。
「なんか……仲いいよね、軍曹同士……」
「いや、あれはもう軍曹とかいうレベルじゃなかろう。暴君じゃ、暴君」
ため息混じりに呟いた星野に大羽は青ざめて先ほどの訓練でできた擦り傷をさすった。
「で、でも特尉ほんとに強いよね! 午後も頑張ろうよ!」
必死にオニギリを頬張りながら励ましたのは兵悟だが、みな窶れきった表情でため息を吐くばかり。大柄なタカミツに至ってはひときわ憔悴してテーブルに突っ伏す有様だ。
「一打がこんなに遠いなんて……、三階級特進なんて言いだした理由がよく分かったよ……」
「しかもあん人……午前の訓練で息の一つも乱さんかったばい」
ムスッとしたままメグルはカップラーメンをすすりつつの方をチラリと見やった。みなもそれに倣う。その先では先ほどの暴君とは一転、嶋本と談笑するがいて……ハァ、と再び全員で深いため息を吐いた。
午前の訓練予定が大分伸び、一時間の昼食休憩を取ったことで時計の針は既に三時近くを指していた。
嶋本はダイバーズウォッチに目を落としつつ、眉を捻る。
「なあ、午後の訓練予定なんやけど……」
ん? と目線をあげたに嶋本は既に武道場での訓練に割く時間がなくなっていることを伝えた。
この後は泳力訓練、レンジャー訓練と予定も詰まっており、は泳力をカットして武術続行を提案してみたがトッキューの性質上泳力訓練は外せないと嶋本は却下。
は不満げに眉を寄せたものの結局予定通り午後の一発目は泳力訓練に決まり、嶋本はヒヨコ達にウエットスーツに着替えてA水槽に集合の旨を伝えると自身もウエットスーツに着替えてから皆を整列させた。
「整列! これより午後の訓練を開始する!」
「はい!」
「お前らがあまりにダメダメなせいで訓練予定狂いまくりじゃボケ! よって今からフル装備ドルフィンでの泳力訓練を行うが……特尉も見てるんやしヘタレなとこ晒したら殺すぞ、分かったか!?」
「はッ、はい!」
ヒヨコ達は、今度の訓練はに直接指導されるわけではないと分かっていくらかホッとしたような顔色を浮かべた。
嶋本はヒヨコ達をプールへ入れさせてから自身は操作盤へと向かう。――ここA水槽は一見すると普通のプールであるものの、その実は荒天シミュレーション用の特別設計なのだ。
嶋本の操作によりプールは瞬く間に波高二メートル・流速三ノットの荒れ狂う疑似海原と化し、ヒヨコ達は全速前進しようともがき苦しみつつも溺れるような姿を達の前に晒すこととなった。その姿はまるで踊り狂う狂人のようにさえ見え――プールの縁に立って腕を組みつつ眉を寄せるの横で、教え子の無様な様子を見ながら嶋本は頬をヒクつかせる。
「……ほんま、カスやな」
「……そうね」
小さく相づちを打ったはチラリと嶋本へと目線を送った。
「嶋本さんの教え子を悪く言うのは気が引けるんですけど……、ちょっと出来が悪すぎるんじゃないですか?」
「ん、俺もそう思うわ。……ここ数年で一番酷いで」
嶋本は情けないのとやはり教え子可愛さで庇いたい気持ちを出すに出せない複雑な表情で苦々しく呟き、は少しばかり肩を竦める。
「私は嶋本さんのことを評価していますし、特自もトッキューのことを評価しています。なのにこんな実態を本部に報告するのは由々しき事態でもあり……」
「なんや、急に?」
「というわけで、私にトッキューらしいところを見せてください」
「――はッ!?」
淡々と言うと同時には思い切り嶋本を突き飛ばし、今なお荒れ狂うA水槽の中に突き落とした。
ドボン、と生々しい音は吹き荒れる水音に掻き消されたものの、すぐに浮上してきた嶋本はを見上げて思い切り眉を吊り上げる。
「な、なにすんねんいきなり!」
「だって私が今日ここに来たのは"トッキューの訓練"を見分するためであって"新人の訓練"限定じゃないんですから」
しれっと言い放ったに嶋本は無言で口をパクパクさせるしかない。つまり、今度は自分も指導される側になったということだ。
さすがにヒヨコ達も異常事態に気づいて嶋本たちのほうを振り返り、は「ふ」と笑ってA水槽全体に響き渡る大声で指示を飛ばした。
「本庁オペレーションに緊急通報15:12。横浜港沖で貨客船転覆! 三管本部よりトッキューに出動要請――」
言いながらは操作盤の方に移動すると、疑似ヘリ風発生ボタンに手をかける。
「嶋本ヒヨコ隊はヘリで現場に急行、海面に要救助者を発見、リペリング降下開始!」
途端にA水槽には先ほどとは比べ物にならないほどの風が吹き荒れ、三分の一ほど進んでいたヒヨコ達はほぼ元の位置まで戻される羽目になった。
尚もは声をあげる。
「天候急変! 波高三メートル、流速五ノットに上昇。要救助者までの距離約40メートル。――用意、テッ!」
その言葉に嶋本は歯を食いしばって、ヒヨコ達は絶望的な表情を浮かべた。
――ぼ、暴君だ。まさに暴君――。そんな言葉を浮かべた者もいただろう。
しかし、開始された以上は前へ進むしかない。
「くっそ……よう見とけや! 大サービスやで!」
嶋本は及び周りのヒヨコ達に向かって叫ぶと一気に前へと飛び出した。
嶋本は基本、彼らに手本を見せることはない。ゆえに嶋本の実力をヒヨコ達が目の当たりにすることは少なく――踊り狂うしか脳のない自身達とは裏腹に鮮やかに波を掻き分けて前へと進んでいく嶋本を呆然と見ているしかない。
はともすればプールサイドを歩く自分に追いつかれてしまいそうで、小走りでゴール側へと先回りをした。既に嶋本は20メートルほどヒヨコ達を突き放してしまっている。
「へえ、さっすが」
とそう身長の変わらない小柄な嶋本は、泳力にしろ走力にしろ良いタイムを出すのは困難な傾向にある。しかし彼はそのハンデをものともしない記録を持っているのはも知っており――ゴール側の縁から無事目標のロープを掴んだ嶋本を労うようにして笑いかけた。
「……よかった、相変わらずの泳ぎっぷりで」
「当たり前や!」
張り切りすぎたのかちょっとだけ声を掠れさせつつ嶋本はロープをくぐって縁へとタッチし、は笑みを消してチラリとA水槽の時計を見つつ「でも」と言い淀むと再び嶋本を見下ろす。
「ベストよりベターね。このタイムなら……特自には、いらない」
「……ッ!」
淡々と言われて嶋本は喉を詰まらせた。そうして一気にプールから上がり「アホ」と小さく呟く。
「行ける行けない以前に、行きたないわ」
それは負け惜しみではなく、本心だった。常に最高を、アベレージ・ベストを求められる特自は自分たちとは違うプレッシャーの中で生活していかなくてはならない。それが日の丸を付けた上に「菊花徽章」と呼ばれる最高のバッジをつけることを許された彼女たちのメンタリティであり自分は決して体験したくないものだ、と嶋本がに視線を流すとは少しばかり俯いて眉を寄せていた。
「私だって、別に望んで入ったわけじゃ……」
風音に掻き消されて、聞き取れないほど小さな独り言だった。
強いから。出来るから。望まれるから。――常に最高の結果と栄誉をこの国にもたらすためだけにが生きてきたことは嶋本とて知っていた。だが、にとって戦場に出ることが天職であったか否かと訊かれたら、嶋本にはそうは思えないというのもまた本心だった。
まだこんな、ほんの少女でしかないというのに――と同情してしまいそうになる自分を叱咤して、嶋本は首を振るう。
「しっかし、アイツらほんまダメダメやな……先が思いやられるで」
「……優しすぎるんじゃないですか? 嶋本さんが」
「そうやろか、やっぱり。根がええヤツやからなー俺は……――ってまたツッコミなしかい!」
声を荒げる嶋本に少しばかり笑みを零してから、はプールに向かって声を張り上げた。
「ほらほら嶋本教官の泳ぎ見たでしょ!? あれがトッキューのスタンダード、最低条件、この程度もクリアできないならオレンジに袖は通せないわよ! ――今日中にロープ掴めなかったら懸垂五十回、いいわね!」
そうして再び操作盤の所に行くと、風速をあげて波高を上昇させる。
当然ながらクリアできた者はおらず――ペナルティの懸垂をやり終えた頃には全員膝も笑う状態で這うようにして次の訓練場所であるレンジャー訓練場へ向かった。
「レンジャー訓練は担当するはずだった浜田特尉が不在のため、武道に続き私が担当します。本日行うのはあなた達も既にこなしたことのあるレンジャーサーキット。ロープ素登り・引き上げ・ロープブリッジ渡過・壁の上り下り・タイヤくぐり、そして手すりを伝って戻ること。――以上!」
「は、はい!」
既に肩で息をしながらヒヨコ達はそれぞれ持ち場に付く。その姿を見送って、あ、とは不意に何かを思いだしたような声をあげた。
「そうそう、トップの人がロープ渡りに入った段階で私があとを追いかけます。追いつかれた人はペナルティとして腕立て100回。最下位の人はそれプラスサーキット三周追加。――レンジャーに関しては浜田特尉より私のタイム良くないから、ラッキーだったわね」
ヒヨコたちはサーッと青ざめるしかない。これ見よがしに作業着にレンジャー徽章を付け、うっすらと口元に笑みを浮かべつつも淡々としているは、常に"軍曹笑み"を浮かべる嶋本よりもよほど恐ろしくヒヨコたちの目に映った。レンジャーこそは勝てる、と意気込むには彼らは道場の訓練でイヤと言うほどの実力差を身体全体に叩き込まれていたのだ。
事実、レンジャーはありとあらゆる特殊部隊の基本中の基本であり――、現役のにトッキュー未満の彼らがハンデありとは言え勝つのは絶望的で、見守る嶋本は口を一文字に結んで腕組みをしていた。
「大羽ッ、遅い! 石井はもう引き上げに入ってるわよッ! ぺーぺーの三士に負けて恥ずかしくないの、一等海上保安士!」
「――はッ、はい!」
長身とはいえ五人の中で一番筋力の劣る大羽は素登りでもたつき、メグルが颯爽とロープを引き上げ終えた段階では一度キュッと唇を結ぶと勢いよく地を蹴った。
――レンジャーで女に負ける。というのはまだ20代の彼らにとってはさぞ屈辱的なことだろう。しかし、現場はそんな理不尽さを汲んではくれない。上には上がいる、という現実を知るのもまた訓練なのだ。
はもたつく大羽を追い越すと、すぐにロープ引き上げにかかった。こればかりは女の力じゃキツイ、と眉を寄せつつもロープを手繰り寄せ、既にロープ渡りを開始していた兵悟・タカミツ・星野を見据える。
これ以上彼らを追いつめるのは可哀想だろうか? ――そんな温情は恐らくの中にはなかった。
タカミツの使っていたロープに手をかけると、は地上から三階ほどの高さに張られているロープ渡りを開始した。これはもう、完全に慣れである。何度も何度も繰り返し訓練を行い、やれる自信が高さという恐怖心に打ち勝てるのだ。
「邪魔だ、タカミツ!」
ひょいっ、とセーラー渡過していたタカミツを器用に蹴り飛ばしてが彼を追い越せば、タカミツは悲惨にも悲鳴をあげてロープから手を離すことになった。
「なにしとんねんタカミツッ! お前が要救助者になってどないすんのやッ!?」
地上で見守る嶋本の良く通る罵声が青ざめて命綱にぶら下がるタカミツに容赦なく突き刺さる。当然誰も助けてはくれず――はロープを颯爽と両手両足を使い渡り終えると、こちらを気にしながらアワアワと壁をよじ登っている兵悟と星野を見上げた。
潜入工作のプロであるから見るとその姿は子供が遊んでいるも同然で――けれどもまだスタートラインにすら立っていない彼らゆえに未熟なのは仕方ないことである。
こればかりは口で説明して上達するものではない。訓練、訓練、反省、そして訓練を重ねて慣れていくしかないのだ。
自分と彼らに差があるとすれば、きっと経験と――気構えなのだろう。どちらも、いずれ追いつけるものだ。けれども、自分の気構えとレスキューマンの彼らが持つべき気構えは全く違っている。自分を参考にして欲しくはないし、むしろしないで欲しい。――と少しばかり眉を寄せ、は一気にロープ伝いに壁をよじ登って飛び降り、その勢いのまま猛ダッシュで星野と兵悟を置き去りにするとタイヤをくぐり終えてギョッとした顔で振り返ったメグルを睨み付ける。
メグルは必死で逃げ――二人は共に最後の障害である階段へと縺れ込むようにして激走する。
「うわああ、来んなさーー!!」
追われる恐怖からか、メグルは情けないほどの悲鳴を零した。
「止まってるとッ、撃たれて、死ぬわよッ!?」
「オイは軍人じゃなかッ!」
「分からないでしょ、準軍人なんだからッ! そんな腑抜けがもし部下になったら私がかわいそうよ!」
「そがんことになったら辞表書くばい!」
「なら今すぐ故郷へ帰れッ――!」
手すりを飛び出してメグルへとタックルをかけたをメグルは紙一重でかわしたものの、は器用に一度足を着いてからもう一度飛び出し瞬く間に階下へと移ってからこう言い放った。
「これで全員、腕立て100回よッ!」
ハナから結果は分かっていたとは言え――腕を組んで見守っていた嶋本の眉間の皺は益々深く刻まれて小さく収縮を繰り返していた。
そのまま有無を言わさず床に膝を付いて、ダッシュでは嶋本のいるスタートラインまで戻ってくる。嶋本は小さくため息をついてからを労い、強い視線を上へ向けた。
「コラッ、いつまでモタついてんねんタカミツッ! 大羽に追い抜かれるで!? そんなサーキット三周したいんか!?」
やっとの思いで命綱を頼りにどうにか自力でロープに這い戻り、その間に大羽に僅差まで攻め寄られていたタカミツを嶋本が叱咤すれば、もまた軽く息を整えてから上を見上げる。
「大羽! タイムロスした人間抜くくらいの根性は見せなさいッ!」
そんな教官二名の声が更なるプレッシャーとなって二人にのし掛かったのは言うまでもない。
メグルがゴールし、星野、兵悟が僅差でゴールして三人がへたり込んだまま息を整えてると、必死の形相でタカミツと大羽が駆け込んで来て――ダイバーズウォッチに手をかけつつ着順の判定をした嶋本はタッチの差でタカミツの勝利を告げた。
「というわけで大羽、お前は腕立て100回のあとにサーキット三周や」
ニコッと笑って告げた嶋本の顔は大羽には鬼のように思えただろう。
そのまま全員揃って腕立て伏せを100回行い――大羽はヘロヘロの状態でサーキットをどうにか三周してそのまま訓練場に倒れ込むように崩れ落ちた。
魂の抜けたようなヒヨコ達の表情を眺めつつ嶋本は本日の訓練についてミーティングを行うべく会議室に移動する。
水分補給と少しの休息を取らせたものの、相変わらずグッタリとしている自身の教え子を見て情けなさげに嶋本は重い息を吐いた。そうして説教を始めようとする嶋本をが制止し、ヒヨコ達に顔をあげさせると訓練時とは打って変わって穏やかに笑いかける。
「今日はお疲れさまです」
しかし何を言われるかとヒヨコ達は青ざめており――、は思わず苦笑いを浮かべた。嶋本もヤレヤレとばかりに首を振るう。
「なーにビビっとんのや。訓練はもう終いや言うのに……大の男がみっともないで!?」
しかしヒヨコ達にしてみれば今日の訓練は空恐ろしいものだったのだろう。そして大の男だからこそ、年下の女にコテンパンにしてやられたというのはトラウマになっているに違いない。
「――大羽一士」
「はッ、はい!?」
が大羽を呼べば大羽は肩を震わせ、そんな大羽を見ては肩を竦めつつ腕を差し出した。
「腕相撲の相手をしてもらえる? そのくらいの体力は残ってるでしょう?」
「は……?」
ポカンとする大羽を横に、嶋本はハッとした。思わず声をあげて止めようとした嶋本をは制して嶋本に開始の合図をするよう頼む。
大羽は訳がわからないという表情ながらも、こう言われたからにはイエスしか返せずに右腕を差し出した。その手をが取ると、嶋本が腕を振り上げる。
「よーい、テ!」
グ、と大羽とは互いに力の籠もった表情を晒した。
ヒヨコ達は今日の訓練の恐怖からか大羽の更なる公開処刑となるのでは? と青ざめていたものの、数秒後にその表情は驚きへと変わった。
大羽も、一瞬だけ驚いたように瞬きをした。
全力を込めているがゆえに震える二人の重なり合った手。眉間に何本も皺を刻んで汗を浮かべ――傾いた腕を必死で繋ぎ止めていたのはの方だったのだ。
「――止め!」
やがて勝敗が決し、嶋本は終了の合図と共に大羽の勝利宣言をした。
まさか勝てるとは思っていなかったのだろう。大羽は勝利の自覚さえなさそうなぽかんとした表情を晒し、他のヒヨコ達もあっけに取られていた。
「……ん、クタクタの男相手でもダメなものはダメ、か」
はと言うと右手をプラプラとさせながら少しだけ悔しげに唇を尖らせてから、ふ、と口の端を上げてから大羽を見やる。
「びっくりした?」
「え……。あ。はい……その……」
「力じゃね、やっぱり私は勝てないし……あなたたちはちゃんと強いんだってこと。だからあんまり落ち込まないで」
「あ……!」
言われて大羽もヒヨコ達もパッと顔をあげる。そうしながらは「でも」と釘を刺した。
「これが戦場だったら、力の劣る私に今のあなたたちは為す術がないということも……忘れないでね」
「――はい!」
すると引き締まった表情でヒヨコ達は返事をし、見ていた嶋本は内心舌を巻いていた。
と割と親しいと自覚のある嶋本は、彼女の力がやはり男――ましてや鍛えている男に及ばないことは知っている。けれども、仮にもこの国のトップを担う軍人だと自覚のある人間は……普通は他人に弱みを晒さない。それはプライド・負けず嫌いゆえもあるし、なにより弱さを晒すことが常に死へと直結すると分かっているからだ。
けれども、こうしてあえて負けると分かっていて腕相撲で大羽に挑み、そして皆に見せた。
その意図が、他ならぬ今日の訓練でどん底を突き破って奈落の底まで落ち果てたヒヨコ達の自尊心を回復させることであったことは明白だ。そうして調子に乗らないように釘を刺すことも忘れない。
ほんま、かなわんわ、と嶋本は肩を竦める。
カリスマ性……というものが存在するのならば、こういうことを言うのだろう。一瞬にして畏れられながらも彼らを惹きつけてしまったを教官として羨ましく見つめた。
けれども――やはり、天の邪鬼はどの世界にもいるものだ。
「オイはやっぱり、認められんばい」
呟いたのはメグルだ。
「あんたがどがん強かっちゃ所詮は人間たい。ピンチにもなるし、なったら男は無意識に女ば庇うばい。やけん前線で女は邪魔にしかならん」
石井――、と嶋本が止める前には意外にもあっさりそれを肯定した。
「そうね、私もそう思うわ」
「――は!?」
「でも……私が前線に出るのは、そう命令されるからだし。実際、私が行った方が良いと判断した上の指示なんだから……私に言われてもどうしようもないわね」
「ハァ!?」
「強くなってよ、石井。女の私を出した方が戦果が得られるって上に判断させないくらいにね」
サラッと言ってかわしたにもはや何を言っても暖簾に腕押しだとはメグルを含めて誰もが悟っただろう。
「そ、そうじゃな! ワシ、頑張りますけぇ!」
一人、メグルが言葉に詰まる横で大羽が拳を握りしめて宣言し――、は少しだけ目を見開いたあとにほんの僅か頬を緩めた。
そんな彼女の笑顔をもらってガラにもなく照れた様子を見せた大羽をチラリと見つつ、無駄口叩いてないでさっさと着替えてこい、と嶋本はヒヨコたちをどつき倒して帰宅の準備をすべくロッカールーム散らせる。
「ったく、ほんまアイツらは……先が思いやられるわ」
その背を見送りつつ嶋本が溜め息を吐くと、は肩を竦めた。
「まあ、出来が悪い分……数ヶ月後の着任が楽しみですね。どんなトッキューに化けるか」
「せやな。――全員残れるといいんやけど」
「大丈夫ですよ、きっと」
ヒヨコ達はなにも自動的にトッキュー隊員への道が約束されているわけではない。この研修をパスしなければトッキューのスタートラインに立つことは出来ず、当然脱落するということもありえる。
教官である嶋本は自らの教え子に引導を渡すような真似は出来るならば避けたいことだろう。
嶋本は口では厳しく指導するものの、その実甘さが見え隠れしていることはには良く分かっていた。情に厚すぎるせいでどこか非情になりきれないのだ。
嶋本のことは何度も共に訓練をし――よく知っているつもりだ。スキルも高く、判断も速く、優秀な潜水士だと思っている。彼の優しさは人命救助ということにおいては必要なことだろう。故に自分とは――住む世界の違う人だ、と思いつつは少し笑ってみる。
「嶋本さんも次の隊編成では隊長に昇格でしょ? やっとというかようやくというか……おめでとうございます」
「……特自怖いわ。そんなことまで把握しとんのか」
「楽しみですね、嶋本隊。副隊長や隊のメンバーまで指名できるなんて、面白いというか……嶋本さんが誰を選ぶか、今から楽しみですよ」
頬を引きつらせた嶋本の言葉を、ふふ、とが笑って受け流すと「んー」と嶋本は目を泳がせながら頬を掻いた。
「せやなぁ……。もし、トッキュー以外から指名して良いんやったら俺、副隊長にお前欲しいわ」
「……え?」
「お前、部下になったらちゃんと言うこと聞くやろ? それに有能やし、考えてみんか?」
は一瞬ぽかんとした表情を晒し、次いでどこか寂しそうな表情を浮かべたものの――すぐに、ふ、と笑みを浮かべた。
「良いですね。そうなったら私、どこまででもついて行きますよ……嶋本隊長」
すると今度は嶋本が一瞬だけ目を見開き、から視線を外して僅かに照れたように宙を仰いだ。

「アホ」

ロッカールームに向かったの背を見送って、嶋本は少しだけ眉を寄せる。
「ほんま、部下にできたらええんやけどな……」
そうしたら、絶対死なせへんのに――、と拳を握りしめる。
生きて帰ってくるのがトッキューの誓約。自分たちは生かすために、そして生きるために出動をする。しかし彼女は――いつか死に場所を求めて、遠く戦場から帰ってこない日が来るような気がして嶋本にはやるせなかった。
あかんあかん、と嶋本は首を振るう。
自身の教え子だけで手一杯だというのに、余所の人間まで気にしている場合ではない。――というのに、性分ゆえに今更どうしようもないのだろう。
切り替えるように嶋本はシャワールームへ駆け込んで汗を流し、着替えて羽田基地への報告を済ませつつ防災基地の外へと出た。
すると同じく特自の作業着から私服へと着替え、帰宅しようとしているを見つけて呼び止める。
ー」
「はい……?」
「お前、このあとオフか?」
頷いたに「そっか」と嶋本は持ち前の明るい笑みを浮かべた。
「夕飯食いに行かへん? 俺もオフやし」
キョトンとしたは一瞬考え込んだあと、チラリとどこか試すような目で嶋本を見やった。
「良いですけど……。それって嶋本さんのおごりで?」
「は!? ……や、まあ……別にええけど」
そのくらい、と狼狽えつつも嶋本は頷き、はパッと明るい顔で「やった!」と言うと嶋本の遙か後方に向かって思い切り手を振った。
「みんなー! 嶋本教官が中華街で高級中華奢ってくれるってー! 行くー!?」
「ハァ!?」
驚いて嶋本が後ろを振り返ると、こぞってロッカールームから出てきたヒヨコたちが「マジっすか!?」と目を輝かせている所が映り――。
「ゴチになりまーす!」
小走りで近付いてきたヒヨコを前に嶋本はわなわなと拳を震わせると思い切りを睨み付けた。
ー! なに晒しとんねん勝手にー!」
「いいじゃないですか、この中じゃ嶋本さんが一番立場上なんだし」
「んなもん、俺とお前じゃ階級変わらへんやん!」
「え、嶋本さんのほうが先任でしょ?」
「ま、まあ……そうやったかもしれんが」
「大丈夫ですって、私、飲めませんし」
「お前は良くてもやなー! コイツら食うで絶対!」
ああもう、と頭を抱えつつももはやあとの祭り。諦めつつ中華街への道をみなで歩いているとはこんな事を言ってきた。
「嶋本さんが一正に昇格した時にはすぐに駆け付けてお祝いしますね」
今日のお礼に、と笑うにピク、と嶋本の眉が反応する。
「ほーう、言うたな。言っとくがそう先の話やないで?」
「そうですよね、順当に行けば来年あたり……ですしね」
「ん。せやからなー……」
言いかけて嶋本は口を噤み、首を捻ったに「なんでもあらへん」とだけ返した。

――死ぬんやないぞ。

そう言ってしまいそうになった自分の声を、嶋本はあえて呑み込んだのだ。
絶対に死なない。と言い切れる自分たちトッキューに対しては恐らく「そんな約束はできない」と言うだろう。
自分たちと正反対の。本当に自分たちにとっては悪い手本だ。
こうして見ていると、どこにでもいる普通の少女だというのに。できれば、こうして日々を笑って過ごしていて欲しいというのに。
笑うにかかるオレンジ色の西日がやけに目に痛くて――、嶋本は無意識に目をすぼめて手を翳したまま歩いていった。


この日より数ヶ月後――。


「特尉は……無事なんじゃろうか……」
「心配あらへんて。あのやぞ?」


嶋本の懸念とは裏腹にもっとも過酷な最前線に留まることになった彼女を遠く羽田から見上げ――、自身と同じく彼女の身を案じているらしき大羽の背を叩いて嶋本は深く眉間に皺を刻んだ。
口約束など何の意味もないが、昇格祝いをしてもらわなくてはならないのだ。
だから絶対に帰ってこい。との言葉は口に出さず、ただジッと無言で空を睨み続けていた。











"嶋本進次を色んな女の子と絡めてみよう"兼トッキュー布教の第二弾。
のはずが、案外メグルとフラグ立つかも? と思いきや一方的にフラグ立てたのは大羽だったという。

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