Seaman Ship






夏の終わり――、あと数日で始業を控えたは残り僅かな夏休みを存分に謳歌すべく、早朝から家を出ていそいそと東京湾のほうへ向かった。
もちろん、手には例によってスケッチブックを装備して、である。
周辺に広大な都立公園が数ヶ所有り、また湾部にも歩いていけるここ有明は、彼女にとってはまさに絶好の絵描きスポットでもあった。
恵まれた場所に生まれ育った幸福を噛みしめつつ、が有明西ふ頭公園に足を踏み入れると、さっそく朝のジョギングや散歩に精を出す人々が目に飛び込んでくる。自然と口元に笑みを浮かべてレンガ道を歩いて湾部へと出ると眼前には様々な船が停泊しており、海の交通要所である東京湾の変わらない風景が広がっていて――「わぁ」とは呟いた。
千葉の海の、あの水平線の果てまで見渡せるようなパノラマの世界にも圧倒されるものの、こうした都会然とした風景はこれはこれで良い物だ。
「あれ……?」
ふと、海とコンクリートの境目に目をやったの視界に少年のような背格好の男性が一人釣りに興じている姿が映った。
パーカーを羽織って、クラスメイトの宍戸がいつも被っているような野球キャップを被り沖の方を見据えている。随分と小柄に見え……、彼も朝から釣りに興じて残り少ない夏休みを満喫してるのだろうか、などと思ったはいつものクセで手で四角の枠を作ると、その中に釣り人の姿を入れて焦点を絞ってみた。
「んー……、タイトル"釣り人の背中と船"?」
彼の遠方にはうっすらと靄がかった船が見え……くっきりとした背中とフォーカスされた船のコントラストが良く映えるな、などと感じつつ手をスライドさせて様々な風景を吟味していく。
――実は、「夏の思い出 ― 海編 ―」をテーマとする中高生を対象とした絵画コンテストに応募するか否かをはまだ決めかねていた。
そう大きくも優先順位の高いコンクールでもなく見送ろうかとも考えていたものの、やれるものは何でもやっておきたいものである。
しかしながら、この夏の思い出――中体連テニス大会――を描くにはこのコンクールでは少し勿体ない気がするし、何よりいつもテニスばかり描いてもいられないし、そもそも「海」という課題からかけ離れすぎている。実は「山編」もあるものの、この夏は山とは残念ながら関わりがなかった。それに、どんなテーマであれ多彩に描ける技術が欲しいしやはり応募すべきか、と半ば睨みながら目に映る船を見据えていると、ドボン、と海に何かが投げ込まれた音が耳に響いた。
次いで甲高い悲鳴が聞こえ、ハッとしたが声のしたほうを向くと顔面蒼白な女性がいて、その目線の先を追えばコンクリートから海へと落下したのか溺れているらしき男の子がいた。
「ちょ……!」
脳が事実を認識する前に男の子はあっという間に沈んでいき、さすがにギョッとしたは血の気が引いた頭で考える。水泳は、得意な方だ。
なら――と駆け寄ったは確かに海へ飛び込もうとしていた。しかし。
「やめえッ、嬢ちゃん!!」
独特のイントネーションを晒す大声に止められて振り返ると――そこには上半身に着ていた服を脱ぎ捨てながら駆けてくる小柄な男性の姿があり、あ、さっきの釣り人――と理解したときにはもう、彼は海へ向かって競泳選手もかくやというほどの鮮やかな飛び込み姿を残して海面へと沈んでいた。
しかし、その鮮やかさに感心している余裕は今はない。
コンクリートの際に走り寄ってしゃがみ込み、息を呑みながら海面を覗き込むとそこには男の子を確保して海面から顔を出した男性の姿があってはホッと息を吐いた。
「祐ちゃん!」
母親らしき女性が駆け寄って男性の手から泣きじゃくる男の子を受け取り、男性は「よっ」と小さな掛け声と共にコンクリートに手を付くと一気に海面から地へと身体を引き上げた。
「ありがとうございます……! 本当に、なんてお礼を言ったらいいか」
「そんな、気にせんといてください。海水もそう飲んどらんようですし良かったですわ」
頭を下げる母親に男性はそんな風に答え、再び母親が頭を下げて背を向けたのを見送ってから彼はの方に振り返った。
一瞬、目が合ったは少しだけ目を見開いた。
自身とそう変わらない背格好に見えていたが、間近で見ると普段宍戸や黒羽などを見ていて鋼のような肉体など見慣れているはずのから見てもなお……鍛え抜いていると分かる体付きをしている。海水に濡れた天然パーマと思しき黒髪を鬱陶しそうに上がり眉の眉間に皺を寄せながら掻き上げた彼は――予想に反して、"少年"とは言い難いような雰囲気を醸し出していて、が視線を外せずにいると彼はツカツカと歩いてのそばに落ちていた先ほど彼が脱ぎ捨てたTシャツとパーカーをひょいと拾い上げた。
つい今、目の前で起きた出来事に対して労うべきか誉めるべきか、はたまたこのまま去ればいいのか。が考えあぐねていると、彼は濡れた身体にTシャツを着るのは避けたかったのかパーカーだけを羽織ってに目線を投げてきた。
「飛び込もうとしたやろ、自分?」
「え、あ……はい」
「ええ気構えやけどな、アカンで、素人が素潜りは」
忠告なのだろうか? けれども言葉とは裏腹に彼は誉めるようにニ、と笑ってすれ違いざまに軽くの額を指で弾き、そのまま先ほど釣りに興じていた方向へと歩いていった。反射的にはパッと額を押さえつつ、ずぶ濡れのズボンから海水を滴り落とさせながら歩いていく彼の背を見送ってあっけに取られていた。
何だったのだろう、あの鮮やかな救助行動は。そしてあの、まるで映画に出てくる格闘家のような肉体は一体何なのだろう?
そしてそして、とっさに自分を「嬢ちゃん」と呼んだ彼は――、夏休みを満喫している学生ではないのか? 
過ぎった疑問が多すぎて、は何とはなしにぼんやりと再び釣りに興じている彼の背中をじっと眺めていた。特に凝視していたわけでもなく、当初の目的であったスケッチをするためにスケッチブックを広げ……目に映る風景を書き写しつつ、である。
再び指でフレームを作って焦点を絞ると――先ほどと違って海水を含んだパーカーが身体に張り付いた彼の後ろ姿は、持ち前の筋肉が浮き彫りになってよりがっしりと逞しく見えた。
「……あんなぁ」
あの筋肉、宍戸や黒羽より上かもしれない、などと思っていたの耳にどこか気まずげな声が響いてくる。
「俺の背中、なんか付いとるん? 視線の針が痛うてかなわんわ」
目線だけで振り返られて、パッとは頬を染めた。やっぱり気づかれていたか、というバツの悪い思いが巡ったものの、同時にチャンスだとも思い、せっかく声をかけてくれたこの機会に乗じることにした。自分でも好奇心旺盛だと自覚しているが、気になることは確かめておかなければ気が済まない性質なのだ。
知らない男の人についていっちゃいけません、なんて使い古された言葉ではあるものの……目の前で子供をあんな風に助けた彼が悪い人間だとはとても思えないし、怖い人だとも思えない。ゆえに一歩踏み出すのにそう躊躇はなかった。
「水泳選手なんですか?」
「――は!?」
「だって、さっき海に飛び込んだとき……すっごい綺麗だったから」
思い切って彼に歩み寄りながら話しかけてみると、彼はまさかそんなことを訊かれるとは思っていなかったのかあっけに取られたように口をパクつかせてから数秒後、「ちゃうちゃう!」と首を振るった。
「おっちゃんはなぁ、潜水士やっとるんや」
潜水士、という言葉よりもはその前の言葉によって目を丸める。
「"おっちゃん"――!?」
「あー……嬢ちゃんくらいの女の子から見たら、そうやろ?」
自分としちゃまだまだ若いつもりやがなー、などと彼は続けるも、は「おっちゃん」という単語から受けた衝撃のあまり彼の横に腰を下ろすと思い切り彼を見上げて力説した。
「そ、そんなことないです! 私、最初は自分と同じく夏休みを満喫してる人かなーって思って……でもさっき泳いでる所を見たらもっと年上かもって思い直しましたけど……、でも、おじさんなんて思えません」
すると眼前の彼は目を見張って固まり、少しの間を置いて目線を泳がせると「そこ、真面目に返すところちゃうで」などと呟いて視線を沖の方に投げた。その仕草と独特の細い眉、一重の瞳がちょっとだけ宍戸に似てるな、などと感じつつは笑う。
「潜水士さんって……、潜水専門の隊員ですよね、海上自衛隊の」
「あ、ちゃうで。俺は海上保安庁のほうや。トッキューいう所の隊長でなー……今日は待機やし、いつ呼び出しかかっても行けるように基地の羽田に近いここで釣りしよう思てん」
訊いてみると彼は軽くそんな風に答えて、ほわ、とはまたも目を丸める。
海上保安庁、トッキュー、隊長。どれもこれも普段の生活ではかすりもしない単語ばかりだ。
「って、そうや……嬢ちゃん、なんか用なんか?」
そうだ、彼は背中に視線が刺さっていたことを疑問に思って声をかけてきたのだ。は改めて訊かれると返事に窮して「んー」と唸ってからパラパラとスケッチブックをめくった。
「さっき、……えっと……」
「――嶋本や」
あ、とは息を漏らした。なんて呼べばいいのか困っているのを察知して彼は名乗ってくれたのだろう。
「その、嶋本さんの体付き見て……凄いって思ったんです。私の周りにもけっこう鍛えてる人いてみんな筋肉凄いんですけど、もっと凄かったから、一体何してる人なんだろうって気になっちゃって」
さっきは同世代だと思っていたし、水泳選手と勘違いしていたから、と続けると彼――嶋本はこちらに視線を移したと同時にたまたま広げていたスケッチブックが気になったのかそちらに目を落として「お」と声をあげた。
「これ、九十九里浜か?」
そのページは千葉に赴いた際に写生した海の風景で、が頷くと「おお!」と嶋本の声が弾む。
「なんや懐かしいわ、俺、実家は内房なんやけどガキのころはよう外房にも泳ぎにいったで」
え、とはまたも目を丸めた。
聞き間違いでなければ、実家は内房、と彼は言ったのだ。つまり、千葉出身ということで……彼の話す関西弁を思えば驚くのは無理からぬことだろう。
「てっきり、関西の方だと思ってました」
「ああ、よう言われるわ。昔は一応標準語やったんやけどなー……ちっとばっかし神戸におったらあっちゅーまに移ってしもたんや」
「へえ……凄いんですね、関西弁の力って」
の声も少しばかり明るくなる。千葉の出身と聞いて一気に嶋本に親近感が沸いたからだ。
「さっき話した私の周りの人……千葉のテニス選手なんです。本当にすごく鍛えてるし、綺麗な筋肉なんですけど、嶋本さん見ちゃったらまだまだ鍛える余地あるのかな……なんて」
「へえ、千葉でテニスな……。強いんか?」
「はい、千葉では一番」
「おっ、分かったで。六角中やろ?」
先ほど会ったばかりだというのに嶋本に驚かされるのは一体何度目になるだろう? またも目を丸めたに、ニ、と嶋本は人好きする笑みを浮かべた。
「あそこな、公立やっちゅーのにやたらスポーツ強うて昔から有名でな。俺は野球部やったんやけど、何度も試合したことあるで。まあ六角野球部の躍進は俺が封じとったけど、テニス部はやられとったからなー」
「野球……そうなんですか」
「嬢ちゃんは、中学どこや?」
「あ、……氷帝学園です」
「うわ、めっちゃ頭ええとこやん!」
ケラケラと嶋本は笑った。氷帝のことも知っているらしい。
「氷帝とも試合したことあるで。氷帝の女の子は昔から可愛いんやけど、せやから男は全員敵に見えてなー、金持ちのボンボンども絶対負かしたろ思て必要以上に気合い入れてたもんや」
「ウチに勝ったんですか?」
すると嶋本は肯定した。どうやら嶋本は相当に強い野球選手だったらしい。氷帝はありとあらゆるスポーツにおいて全国区ゆえに、氷帝に勝ったことがあるということはそういうことだ。
今も野球の話になった途端に生き生きした表情になった彼は相当に野球が好きなのだろう。
けれども野球選手ではなく、潜水士となる道を選んだ。――自分と同じ年頃のころは彼は野球選手を目指していたのだろうか? そうだとしたら、なぜ潜水士という道に進んだのだろう?
もし、どこかのグラウンドで野球に精を出す嶋本少年と出会っていれば、自分は彼の将来が潜水士だと予測することはできるのだろうか? などと自分でも意味の分からない思考に陥ってしまい、は苦笑いを漏らした。
「もう少し、訊いてもいいですか?」
「なんや?」
「潜水士……トッキューのこと。どういうお仕事か、とか」
「なんやー? 夏休みの課題にでもする気か? ほんなら海保のPR兼ねてバッチリやったるわ」
本当によく笑う人だ、といっそ呆れるほどに清々しい笑みを零す人だとは思った。言葉尻も一見キツく見えるが全く嫌味がなく、むしろカラッとしている。とても心地のいい人だと素直に思えて、も自然笑みを浮かべていた。
潜水士というのは、国家試験をパスしたいわば潜水のスペシャリストであり海難救助の要の存在らしい。更に、そのスペシャリストである潜水士の中でももう一段階スペシャリストを選抜して選りすぐったのが特殊救難隊――トッキューと呼ばれる人々だということだった。
日々過酷なトレーニングを積み海難に備えているとは嶋本の話だったが、あえて嶋本は言わなかったもののそんなスペシャリスト中のスペシャリストたちの「隊長」を務めているのだから、嶋本の実力たるや想像を絶するものがあるのだろう。
「凄い、ですね。人命救助のために命がけで……」
「まあ、仕事やしな」
「でも、さっき男の子を助けた嶋本さんは本当に迷いがなくて、鮮やかで、すごく真剣で……私すっごく惹かれたんです」
「――は!?」
「だから……」
「ちょ、ちょお待て嬢ちゃん……俺はこれでも三十路過ぎで――」
「嶋本さんのこと、描いてみたいんです!」
そう。実はが嶋本を観察するように見ていたのは他でもない絵画のモデルとして「良いかもしれない」とピンと来たからに他ならない。その思いを思い切ってぶつけると、嶋本は文字通り目が点な状態をに晒し――十秒ほど固まったのちに「ハァ」と息を吐いた。
「なんや、何の告白かと思たら……」
「私、美術部で……今度"夏の思い出"ってテーマで小さなコンクールがあるんです。応募しようか迷ってたんですけど、嶋本さんが海に飛び込んだ瞬間に、うまく言えないんですけどビビッと来たんです。嶋本さんのお仕事のことも、普段は触れる機会がなくて……でも、あんな風にいつも見えないところで私たちを守ってくれてるんだなって思うと素敵だな……って」
肩を落とした嶋本の発言などものともせずには少しだけ目を伏せて自身の感情を切々と語った。そうして「上手く言えないんですけど」と顔をあげると、嶋本は戸惑ったような呆れたような照れたような微妙な表情を浮かべていた。
「自分、よう恥ずかしい台詞言うやっちゃ、とか突っ込まれることないん?」
「……え?」
は思わず瞬きをしてしまう。確かに似たようなニュアンスを宍戸その他に言われたこともある気がするが、なぜ嶋本が知っているのだろう? と首を傾げていると嶋本はまだ完全には乾いていない頭をガシガシと掻いた。その手首にはゴツめのダイバーズウォッチが付けられており、嶋本の驚くほどに太くゴツゴツとした腕と手にひどく似合っていて――これは女子供には出せないカッコ良さなんだろうな、などとがうっすら感じていると、嶋本はのスケッチブックの方へと目線を流した。
「まあ、そんな大層な台詞なくても絵くらい好きに描いたらええわ。なんや……俺は絵心なんちゅーもん持ち合わせてないんやけど、嬢ちゃんかなり上手いみたいやし」
言われては誉められた嬉しさとアッサリ受け入れてくれた嬉しさからパッと表情を明るくする。すると嶋本は、ふ、と目を細め――「わ、やっぱり大人の男の人なんだ」と、ダイバーズウォッチが似合う腕といいは普段接している同級生たちとは違うものを嶋本から感じ取ってくすぐったさに笑った。
まだ朝靄の残る東京湾には低い霧笛の音が遠くに響き――生まれ育った都会の、大自然とはまた違った情緒も良いものだ、とは目の前の光景を堪能しつつ鉛筆を走らせた。
裏腹に一向に食いつく気配のない嶋本の釣り竿は先ほどから微動だにせず、釣りをする人は釣れない間に何を考えているのだろう? などとチラリと嶋本を見やると今更ながらに嶋本のズボンはまだぐっしょりと濡れていては小さく息を詰めた。
「着替え、大丈夫ですか?」
「ん? ああ、この天気やったらそのうち乾くし問題あらへん」
確かに夏の終わりとは言え今日も残暑の厳しい日になりそうだ。しかし気持ち悪くはないのだろうか、などと思いつつ昇り始めた太陽の眩しさに手を翳していると不意にポスッ、と頭に何かが被せられてはぽかんと前を見上げた。
「被っとき。今日の日差しは若いお嬢さんには天敵やで?」
ニ、と笑った嶋本の笑みを見て、彼が自身の野球キャップを被せてくれたのだと気づいたのは数秒後。
「あ、ありがとうございます」
本当にいったい幾つなのだろう? 下手を打てば十代にすら見える笑みだというのに、ふとした拍子にもしかして父親ほど離れているのか? とも感じてしまう。
不思議な人だな――とは思った。
小柄なのに大きく見えて、少年のようなのにちゃんと大人で。いっそ逞しいほどに要救助者を見据えて海に飛び込んだイメージとは一転、こうして話している彼は常に笑みを絶やさない。
カラーが拡散しすぎて、まとまりがつかない。
けれども、こうして誰かに興味を示して関わって、そうして絵を描こうとしている今の自分もまたには不思議に思えた。あれほど他人に興味を持つことなどなかったというのに、それはやはり黒羽春風という少年に出会ってしまったがゆえなのだろう。
ふ、と口元を緩めてなおも鉛筆を滑らせていると隣で「お!」という明るい声があがった。見ると嶋本の手元の釣り糸が引いている。
「来たで来たでーー!」
嶋本は獲物がかかった嬉しさからかノリノリでその場に立ち上がると、グイッ、と勢いよく釣り竿を引いた。
しかし。
現実にこういうことが起こりえるのだろうか? 釣り糸の尖端にはまるで漫画の一コマのように錆び付いた空き缶が引っかかっており――不意をつかれたは一瞬の間を置いてたまらずに噴きだしてしまった。
「……そないにオモロイか?」
「だ、だって……!」
ごめんなさい、と謝りつつ必死に笑いを堪えていると、嶋本はまるで子供のようにムスッとして再びドカッ、と腰を下ろした。
「ま、これで一つ東京湾のゴミが減ったことやしこれもレスキューマンとしては立派な仕事や。これぞ真のシーマンシップっちゅーヤツや」
嶋本としては悔し紛れの言葉だったのかもしれない。しかし、は今の言葉にハッとして思わず訊き返していた。
「シーマンシップ……?」
「ああ、海の男の掟っつーか、海では誰もが平等やからこそ互いに助け合ってこうって意味でな……要は常に俺のようなええ男であれ、ってことやな」
ワハハハ、と笑いながら嶋本は自身を指さし、は「へえ」と感心しつつ頷いた。
すると嶋本は口元を引きつらせながら苦しそうに言う。
「――って、いつまでツッコミ待ちさせる気やねん! 放置プレイか!?」
これは関西かぶれのノリゆえなのだろうか? きょとんとしつつは少しだけ首を傾げた。
「そんな……私、嶋本さんのこと素敵だって思います。だから今のお話、すっごく納得したんですけど……」
そうして嶋本を真っ直ぐ見つめると、グ、と嶋本は喉元を詰まらせて目を瞬かせ、少しだけ頬を紅潮させてからハァと溜め息を吐いた。
「嬢ちゃん、ほんまええ子やなぁ……若いのに見る目あるで」
「え……?」
「あー、俺があと15歳くらい若かったらほっとかんのになぁ……惜しいわぁ」
「え――!?」
「あ、そういう事言うところがオヤジくさいとか思ったやろ今?」
い、いえ、と呟きつつは目を見張った。眼前の彼が15歳ほど若くて自分と同じくらいということは――少なくとも嶋本は30代前半ということなのだろう。ということは自身の母親と、数歳程度しか違わないということだ。
「見、見えません」
「は……?」
「てっきり25歳くらいかな、って思ってました。うわぁ……ホントに若い」
やはり鍛えていると若々しく見えるものなのだろうか? マジマジと嶋本を見つめていると、嶋本はどこかバツが悪そうにプイッと前を向いた。
「ま、まあ、若く見られるんは嬉しいんやけど……限度があるで? ま、この童顔やからこそ嬢ちゃんと変わらんくらいの背でもそうおかしないんやけど」
あ、とは息を漏らす。から見てもこれほど若く見えるのだから、これまで彼は幾度となく同じようなことを言われてきたのだろう。しかも、若く見られるのが低身長のせいだとも思っているようで――コンプレックスなのかもしれない。
そんなつもりはなかったというのに、と自省しつつは嶋本を見上げた。
「あの……私の学校に、すごく小柄だけど、すっごくその身体を活かしたアクロバティックが得意な人がいるんです。それはその身体でしかできないことで……レスキューのことは良く分からないんですけど、嶋本さんにも嶋本さんだからこそ出来ることってあるんだと思いますし、だから隊長さんなんだと思いますし……えっと、そのままの嶋本さんがきっと一番素敵です」
上手く言えませんけど、と遠慮がちに、けれども真摯に訴えると……やはり嶋本はキョトンとして、どこか気恥ずかしそうに視線を泳がせた。
「……アホ」
そう呟いた嶋本はやはりクラスメイトの宍戸にちょっとだけ似ていて、は淡く頬を緩めた。
シーマンシップ――、ようやく嶋本のイメージが明確に掴めた気がした。すれば、自然創作意欲も格段に上がると言うことで……は今日でもっとも気合いの籠もった表情で手でフレームを作るとその中に嶋本の姿を納めて焦点を絞った。
なんや? とこちらを見た嶋本を枠の中に収めたまま宣言する。
「私、って言います」
「は……?」
「今度のコンクール、絶対トップ獲りますから……! きっと覚えててくださいね」
すると嶋本はフレームの中であっけに取られた表情を晒してから、ハハッ、と破顔した。
「――ええ根性やなぁ! さすが、さっきは海に飛び込もうとしただけあるで!」
そう言って誉めてくれたらしき彼はやっぱり童顔で。でもやっぱり大人の男性で、もつられて笑っていると急に嶋本の着ているパーカーの内ポケットから携帯の着信音が鳴り響いた。
「羽田からや」
ハッとしたように嶋本は携帯を取り出し、折り目を開いて耳に当てる。
「もしもし! ――はい、え? はい、有明ですけど……え!?」
これもシーマンシップなのだろうか――、先ほどまでずっと笑みを浮かべていた嶋本の表情が紛れもない"海の男"に変わった瞬間には再び立ち会うこととなった。
「すぐ行きます!」
パタン、と勢いよく携帯を閉じてからの彼の行動は瞬きする間もないほどに速かった。
「嶋本さん?」
「海難や! 当直隊が出てしもうて俺の隊も行かなあかん!」
やはり、トッキュー基地からの呼び出しの電話だったのだろう。バタバタと釣りセットを片づけて風のように行ってしまおうとする嶋本にハッとしては今まで日除けの役目を果たしてくれていた帽子に手をやった。
「待って……! これ――」
「ああ、ええて、プレゼントや」
「え……!?」
「ほならちゃん、元気でな!」
駆け去ろうとする嶋本にそんな風に言われて、はこれで彼とはお別れなのだと強烈に自覚した。そうして彼は日常に戻るのだろう。先ほど男の子を鮮やかに助けたような、危険で命がけで、そしてとても重要な場所へと行ってしまう。
「――気を付けてください!」
とっさにはそんな事しか言えなかった。しかし嶋本はその声にグッと指を立ててニ、と笑うとそのまま風のように駆けて行ってしまった。
あっという間に背中が見えなくなり、しばしその場に立ちつくしては小さく息を吐いた。そうしてクルクルッと手に残った野球キャップを回して、ポスッともう一度深く被ってみる。港の方へ振り返ると、もうすっかり朝靄も晴れ――船の行き交ういつもの東京湾の風景がそこにあった。
この海の続く先で起こったであろう事件も、さっきのあの力強い笑みを見てしまえばきっと大丈夫だと確信できた。
「シーマンシップ、かぁ……」
きっと彼は先ほど男の子を助けたように颯爽と力強くレスキューして、そしてあの満面の笑みを浮かべるのだろう。
――夏の出会いは一瞬。そして情熱的。――まるで使い古された雑誌のコピーのようではあるが、本当にあっというまで――ともすれば白昼夢だったのかと勘違いしそうになってしまう。けれども、今も日除けの役目を果たしてくれているこの帽子が幻ではなかったことを確認させてくれ、は潮騒に踊るウェーブがかった髪を押さえるように鍔をグッと押さえて深くキャップを被ると「よし!」と顔を上げた。

『海の男の掟。……要は常に俺のようなええ男であれ、ってことやな』

この夏、最後の不思議な出会い。――美術雑誌に「Seaman Ship」と名付けられた小さな絵が掲載されることとなるのは、これから数ヶ月後の話である。











"嶋本進次を色んな女の子と絡めてみよう"兼トッキュー布教の第一弾。

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