及川にとって梅雨は憂鬱な時期だ。
 なぜならば天然パーマの髪がいつも以上に好き放題跳ねまくるからに他ならない。
 しかしながら今年の梅雨はと付き合い始めて初めての梅雨でもある――、つまりは、と及川は自身のスマホで天気予報をチェックした。
 明日の予報は曇り時々雨。特に午後からの天気は不安定という予報を見て人知れずガッツポーズをする。

 及川家で一番の早起きは及川だ。むろん朝練のためである。両親の起床時間はまちまちだが、いずれにせよ及川が家を出る頃には基本的に起きている。
 翌日、及川は起床して一番に窓を開け天気のチェックをした。どんよりとした曇り空だ。梅雨入り直後という事も相まって大抵の人間は折り畳み傘を携帯するというチョイスをするだろう。きっともそうだ。
 だからこそ、と顔を洗い朝食を取って出かける準備をしている間に起きてきたらしき父親の姿をダイニングに確認して及川は声をかけた。
「おはようお父ちゃん! 夕方から雨降るらしいから一番おっきい傘は俺が持ってくねー!」
 じゃあ行ってきます、と家を出る。
 朝練時の通学服は及川にとってはジャージにローファーというちぐはぐな格好か着がえる手間をかけての制服かの究極の2択だったが、薄着の季節に突入してジャケットに皺の寄る心配のない今は前者を選ぶことが多くなっていた。
 月曜と週末を除いて始発かその次には乗るようにしている及川にとって、閑散とした地下鉄駅は見慣れた光景だ。つまりはちぐはぐな格好でも見咎められる心配はほぼないと言っていい。それでも幾人か視界に映っている人々の手にはいずれも傘は握られておらず、やはり折り畳み傘の携帯が主流なのだろう。
「おめー何でわざわざでけー傘持ってんだよ」
 雨降ってねえだろ、と後ろから見知った声が話しかけてきて及川は反射的に振り返った。
「岩ちゃん、オハヨ。天気予報観てないの? 夕方から雨降るってよ」
「部室に置き傘あんだろ。つーか俺はこの時期は合羽一択だしな」
 折り畳み傘も持ってっけど、という岩泉に及川は肩を竦める。
「そういういかにもモテない選択しちゃうところが岩ちゃんだよね。――あいたッ! 朝から暴力やめてよッ!」
 いずれにしてもこうして岩泉と通学途中に会うことは珍しくなく、そのまま岩泉と共に学校へ向かいつつ及川はホッと胸を撫で下ろしていた。話題がそれたおかげで、いま現在の天候に似つかわしくない傘を持っている理由を突っ込んで聞かれずに済んだからだ。
 ――なぜなら、と朝練明けに教室に向かいつつチラリと空を見上げる。いまだ雨は降っていない。
 土砂降りだと困るケド。ちょうどイイカンジに小雨くらい降ってくれるといいんだけどな……と願う。ていうか「ソレ」がないと梅雨なんてただ髪が爆発するだけの一年で一番憂鬱な季節じゃん、なんて考えつつ教室に入る。クラスメイトに挨拶をしつつ、の前の席が空いているのを確認して及川は一限目の数学のノートを手にとっての元へ向かった。
「おはよー、ちゃん!」
「及川くん……、おはよう」
「一限であたりそうなトコなんだけど確認させてもらってもいい? 夕べ急いでやったから自信ないんだよね」
 席に座りつつノートを差し出すと、は「うん」と頷いた。その髪がいつも以上に波打っていて、及川は改めて湿気の多さを実感した。にとっても梅雨は憂鬱な季節に違いない。むろん人のことは言えないのだが、と過ぎらせつつ「ね」と及川は囁くほどの声でを呼んだ。
「今日、一緒に帰ろ? 俺、迎えに行くから待ってて」
 ぴく、と数式に目線を落としていたの頬が撓る。顔をあげたに笑いかければ、うん、とが頷き「へへ」と及川は頬を緩めた。
 梅雨入りしたばかりの今、雨乞いというのもおかしな話だが。土砂降りでもなく曇りでもなく、イイカンジの小雨になりますように……! と祈る。だって、だって。
「俺も相合い傘したい……!!」
 そうして放課後。ついにパラパラと降り出した小雨の中、部室から第三体育館まで小走りしつつさっそく一つの傘に身を寄せ合って下校しているカップルを見やって及川が言えば、隣にいた岩泉が吐き捨てるように言った。
「おめーのあの傘はそのためかよ……」
 クッソくだらねえ、とでも言いたげなその声に及川は「だって!」と反論する。
「梅雨って言ったらソレくらいしか楽しみないじゃん! 髪は跳ねるしロードワークとか制限されちゃうし! あ、カノジョいない岩ちゃんには関係ないよね、ゴメンゴメ――あいたッ!」
 ともかく。梅雨に楽しみが出来たのは人生で初めての事だ。――と及川はいつも通りに部活・居残りをこなしてすっかり暗くなった頃に体育館を出た。雨はまだシトシトと降っており、ホッと息を吐いてタオルを被り部室を目指す。
 部室で着がえつつに今から行く旨をメールすればも帰宅準備をするということで、及川は下駄箱にてを待つことにした。
「お待たせ」
 そうして待つこと数分。やってきたが靴に履き替え、バッグの中から折り畳み傘を取り出そうとしたため及川は慌てて止める。
「俺おっきい傘持ってるから一緒に使お!」
 ていうかそのために大きな傘を持ってきたんだし、とは言わずに訴えればはきょとんとしたものの特に抵抗はされずに「うん」と頷いてくれた。
「濡れちゃったら困るから俺にくっついててね」
「う、うん」
「ていうか……ちゃん寒くないの?」
「少し……」
「じゃあやっぱり俺にしっかりくっついてて」
 相合い傘なんて数えるほどしかしたことはないが、憂鬱な雨を吹き飛ばすほどにオイシイものだと言うことを及川は実感としてよく知っていた。
 まずお互い濡れたくないため密着することに抵抗感が薄れる。現にの肩を抱き寄せれば、もギュッとこちらの腰あたりに手を回してくっついてくれた。それに、だ。及川自身は制服のベスト使用率が高かったが、はあまりベストを好んでいないのか滅多に着ていない。つまりはシャツ一枚の薄着で小雨の今は寒いらしく、いつもよりぴったり寄り添ってくれて色んな意味でオイシイ。と、及川は内心ドキドキしつつバス停に向かった。
 そして何より――傘のおかげで周りの目を遮断出来るんだよな、とを見下ろす。とはいえ道路を通る車のライトが自分たちを照らす以外はこの時間帯はほぼ人目はないのだが……と思っていると「あと一分くらいかな」とが自身の腕時計に目を落として言った。バスの事だろう。
 あと一分か……と及川はグッとの肩を抱く手に力を込めた。
「ね、ちゃん」
「ん?」
「キスしよっか」
 ニコ、とに笑いかけた及川は道路側を傘で遮るようにして身を屈めると、チュ、との唇に軽くキスをした。
「え……」
 なに……? と目を瞬かせつつも周囲を確認しなかったに及川は「何でもない」と笑った。たぶんも傘のせいで人目を避けられるということは理解しているのだろう。――連日雨だとさすがに困るが。やっぱりたまにはオイシイ、とやってきたバスに乗って仙台駅で地下鉄に乗り換え、の降車駅で及川も降りて共にの家を目指した。
「折り畳み傘持ってるし、いいのに……」
「いいのいいの。ていうかちゃんも俺と一緒の方があったかいしイイよね?」
 すんごいくっついてるし。と何気なく言うとはカッと頬を染めてパッと及川から離れようとした。
「なんで離れるのさ」
 としては無意識だったのか、及川はグッとの腰を引き寄せて元の位置に戻させる。すればは気恥ずかしそうに小さく唸った。
「お、及川くん温かかったから、つい……」
「イイじゃんそのままくっついてれば。ていうかむしろソレが正しいカレカノ的相合い傘だよね?」
 上機嫌のまま言い下しているとの家が見えてきた。こうしてを送っていくのは珍しいことではないが、やはり今日はちょっとだけ特別だ。手を繋いでも腕を組んでもいつもは僅かながらある二人の間の距離がゼロなのだ。それだけに離れるのが口惜しい。
「玄関まで送る?」
「ううん、ここまでで大丈夫。ありがとう」
 門の前で及川はそう言ってみたが、にそんな風に返されてついつい肩を竦めてしまう。例えほんの数十秒だとしても少しでも長く一緒にいたかったのに、という思いからだ。が、少しまごついて自分の腰に両腕を回したまま離れ難そうなそぶりを見せたに気づいて及川はハッとした。
 あ……コレって。コレってきっとも自分と同じ気持ちなんだな、と勝手に理解して、ほぼ吸い寄せられるようにの唇に自身の唇を重ねた。
 車の通りすぎる音がやけに大きく耳に響いた。傘に落ちる雨音を聞きながら、ただ無言で唇を重ね合って――及川は思った。もしかして自分は想像以上にに好かれているのかも……などと過ぎらせつつゆっくり瞳をあける。
「お、おやすみ」
 間近でが少し照れたようにはにかみ、門をくぐってパタパタと玄関に小走りで向かっているだろう足音を惚けたように聞きながら……及川はハッとして思わず首を振るった。
「い、いやいや、ちゃんが俺を好きなんてそんなの当たり前だし今さらだし!」
 でも。だけど。ソレは大前提として、でも。やっぱり自分はものすごく愛されているに違いない。といつものポジティブ思考の結果、勝手に頬が緩んでいくのを自覚しつつ及川はの家に背を向けて歩き出した。
 うん。憂鬱な梅雨にとっておきの楽しみを見つけちゃった。なるべく雨の日は一緒に帰るようにしよう、と誓って及川は鼻歌を歌いつつ自宅を目指した。

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