――中学にあがったら、凄い選手がいた。

 インターハイ予選の決勝で青葉城西は白鳥沢に負けた。
 そのことを知らされた影山飛雄は自宅への道すがら、及川徹を初めて観た日の事を思い返していた。
 強烈なサーブに力強いスパイク、強力なブロックスキルにレシーブさえ際だって巧く、勝手に目が追うのを止められなかった。
 けれどもその人は性格に多大な問題を抱えていて、いつだって自分に向き合ってはくれない。ぼんやりと嫌われているのだろうと感じていたが、それさえ定かでない。
 分かっていたことはその人は凄い選手で、県で一番のセッターで、いずれ自分はあの人を越えたいと強く思ったということだ。
 及川のような選手になりたい、いやきっと及川を越えてみせると励んだ中学では結局及川を越えるに至らず、ふと足を向けた高校の新人戦ではますます凄くなっていた及川がいて……差は縮まるどころか開いていたのだと愕然とした。
 その及川をいつも抑え負かしている白鳥沢学園に入学して高校ではきっと及川を越えてみせると誓っていた矢先――。

『おやー? そこにいるのはトビオちゃんかな?』

 あれは、冬至の日。自分が唯一、「ナントカの日」を記憶している日でもあった。
 偶然、帰り道で及川に声をかけられた。驚いたが自分たちは同じ中学出身。家同士はたぶん近い。
 久しぶりに話した及川は相変わらず性格が悪く、なぜこの人は自分にこんなに突っかかってくるのか理由さえサッパリ掴めない。
 白鳥沢を受けるといったら機嫌が悪くなり、青葉城西に行かないと言ったら気分を害し。じゃあ青葉城西に行けば今度は自分にバレーを教えてくれるのかと問えば、それも嫌だと言う。
 及川は何かと自分を「天才セッター」だの「ぶっ潰す」だの言ってくるが、どこがだ、と思う。こんなにいまなお及川に追いつけなくてもがいているのに。及川みたいになりたくて、なれなくて、いつもいつも「ああやっぱり及川さんに勝てない」と思い知らされているのに。
 いつも意地の悪い及川は、学ランのみというこちらの格好を哀れんだのかマフラーを貸してくれた。

『それしてな。見てるこっちが寒い』
『やるよ! ソレもういらないし!』

 あれは、冬至の日。及川は知らないだろうが、あの日は自分の誕生日だった。
 別に誕生日に特別な意味なんて見出していない。ただ、チームメイトと仲違いしたまま部活を引退し、人と関わることもなくなっていた自分にとってあの時の及川の気まぐれは、勝手に及川に祝ってもらえた気がして少しだけ嬉しかった。
 もしも青葉城西に進学すれば、今度こそ少しは手を差し伸べてくれるのでは。なんてありもしない期待をしてしまうほどに。

『及川さん!』
『サーブトスのコツを教えてください!』

 時おり、いまでも夢に見る。いつものように及川に教えを請いにいって、及川が振り返って――そこで記憶が途切れて目覚めるのだ。振り返った及川がどんな表情をしていたのか、何を言ってくれたのかはサッパリ覚えていない。
 ただ、たぶん自分は望んでいたんだと思う。及川が自分以外の後輩へ笑みを向けるその姿を見つめながら、「及川さん」と声をかけた背中が同じ笑顔で振り返ってくれることを。
 でも――。

『よ、トビオちゃん。今日は天才セッターを倒すのを楽しみにしてきたから。ガンバって食らいついてね』

 白鳥沢に落ちて烏野に進んだ自分は、結局はネットを挟んで及川と初めて公式戦で相対した。
 ほんの少しだけ及川に対する畏怖の念もあったが、試合をするからには勝つつもりで臨んだ。元より及川に勝たなければ県で一番のセッターにはなれない。
 けれども、結果はプレイヤーとしてはもとよりセッターとしても力の差を見せ付けられただけに終わった。
 ネットの向こうで、ほんの少し前まで自分にとってはチームメイトだった国見や金田一と笑い合う姿がいっそ果てしないまでに遠く思えた。
 自分とは上手くいかなかった国見たちが笑っていて、及川も岩泉も笑っていて。はっきりと自分だけが外の世界に追い出されたような、そんな気さえした。まるで永遠に及川の背に届かないような、そんなイメージさえ沸いた。
 懸命に及川を真似て覚えたジャンプサーブも、及川はもっともっと上手くなっていて自分はまだまだパワーもコントロールも足りない。
 まだまだ及川は遠くて、やっぱり凄い人で、けれども――そんな彼も白鳥沢に負けた。
 ――ん? と影山ははたと気づいた。
「あれ……、及川さん、なんで青城行ったんだ……?」
 今さらながら、北川第一のメンバーの多くが青葉城西に進学するためあまり疑問を抱いてなかったが。及川ならば白鳥沢にも行けたはずだ。誰がどう見てもいまの県内トップは白鳥沢であるし……と考えて口をへの字に曲げる。

『高校行ったら今度こそ白鳥沢凹ましてやる』

 確か中三の夏の大会直後はそう言っていた気がするが、まさかそれで白鳥沢を蹴ったなどもったいない話があるわけないし。
 なんでだ……? と考え込むこと数秒。首を捻るも分かるはずもなく、息を吐いてさっさと帰ろうと切り替えたその時。

「影山……?」

 ふと名前を呼ばれて影山が振り返れば、白地のジャージを纏った見知った人影が映って影山はハッと姿勢を正した。
「岩泉さん……! お、お疲れッス!」
「あ……ああ、いや。お疲れ」
 青葉城西の副主将で中学時代の先輩でもある岩泉だ。つい中学の頃のノリで頭を下げると岩泉は居心地が悪そうに苦笑いを浮かべた。
「お前、いま帰りか?」
「ッス!」
「そうか……」
「あの岩泉さん、今日は――」
 決勝戦だったんですよね、と訊こうとしたその時。盛大に腹の虫が鳴って沈黙が走り、目の前には目を見開いたかと思えば笑いを堪える岩泉がいた。

「そこのコンビニで肉まんでも食うか?」
「! あ、あざっす!!!」

 岩泉はというと、ついつい口走ってしまった自分に再び頭を下げて素直に着いてくる影山をチラリと見やった。
 どことなくソワソワしている様子が見て取れ、そんなに腹が減ってたのか、とコンビニに辿り着くと肉まんとカレーまんを購入して手渡してやる。
「あざっす! あの、岩泉さんは……」
「ああ、俺はいま青城の奴らとラーメンたんまり食ってきた帰りだかんな。遠慮すんな」
「は、はい! あ……けど、珍しいっすね。及川さんは一緒じゃないんですか」
 さっそく肉まんに手をつけた影山にそんなことを訊かれ、岩泉は無意識のうちに苦み走った顔を浮かべていた。
「あいつの個人行動に俺はいっさい関係ない。コート外で俺と及川は無関係。いいな?」
 思わず力んで詰め寄れば影山はコクコクと頷き、岩泉は腕組みをして息を吐いた。
「お前……昨日凄かったな。練習試合の時も思ったけど、烏野にいって正解だったみてーだな」
「あ、ありがとうございます! けど俺……第一志望は白鳥沢で」
「ああ、聞いた。けど白鳥沢は県内一の難関だし落ちても仕方ねえ。気にするな」
「決勝戦の結果、聞きました。俺、昨日試合してやっぱ及川さん達スゲーって思いましたし、今日も負けると思ってなくて正直驚きました」
 あまりに率直な物言いに岩泉は大きく目を見開く。そして肩を竦めた。
「お前……相変わらずズバッと来るな。そういうとこ、全然変わってねえのな」
 影山は言われている意味がまるで分からないのか口を尖らせて首を捻った。岩泉はそんな影山を見つつ苦笑いを零す。
「ま、お前も知っての通り相手は白鳥沢だからな」
「俺、思ってたんすけど」
「ん?」
「なんで及川さん……岩泉さんもですけど、白鳥沢に行かなかったんですか?」
 全く邪気のない、当然の疑問と言わんばかりの影山の問いに岩泉はこれ以上ないほどに瞠目した。
「俺には白鳥沢から推薦来なかったけど及川さんには来たんじゃねーかと思って」
 違うんですか? と問う影山の真っ直ぐな瞳は純粋な疑問からの問いだ。何の含みもない。いや、そもそもが影山は元がこういう性格。言葉の裏に意味など持たせるタイプではない。
 だが――。

『及川は……なぜ白鳥沢でなく青城に行った?』
『もしも及川が白鳥沢に来ていれば少なくとも奴は全国ベスト4の正セッターだったことは確かだ』
『及川は……白鳥沢を選ばなかった事でハンデを背負った』

 どうにも春先に告げられた牛島の言葉が脳裏に過ぎって、岩泉は懸命に顔を歪ませまいと拳を握りしめることで衝動を逃がした。
「岩泉さんが及川さんと小学校のクラブチームから一緒だったのは知ってますし、二人の連係スゲーし……白鳥沢でも十分やれますよね?」
 何の含みもない言葉の一つ一つがトゲとなって突き刺さるとはまさにこのことか。と岩泉は眉を寄せた。
 及川は確かに白鳥沢でも間違いなく正セッターを務めるだろう。現に今日、及川はベストセッター賞とベストサーブ賞を受賞した。どう言葉を取り繕っても、その賞は単純に及川の個人としての能力の高さを示すものだ。
 そう。及川は白鳥沢に行ってもレギュラーを張れる。そのつもりで白鳥沢も彼に推薦を出したはずだ。が、自分はどうだ? 白鳥沢で、牛島を抑えて「エース」を名乗れるか? ――否だ。勝てないと理解していたからこそ中学時代に及川に告げたのだ。牛島に勝てる選手なんか北川第一にはいない、と。
 とんだお笑いぐさだ。目の前の「天才」は、元先輩の自分の能力も見抜けないらしい。いや、そもそも影山の視界に映っていたのは及川ただ一人だしそんなものか、と岩泉は懸命に自分を抑えて肩を竦めた。
「ウシワカ個人に俺が対抗できるかは分かんねえけどな」
「牛島さんはスゲーっすけど、岩泉さんもカッケーです! エースはカッコイイです!」
「だから、そのエースになれねぇんだっつの、ボゲ」
 しかし肉まんを頬張りながら力説する影山を見ていると苛立つのもバカらしくなって、自分と目線が変わらないほどに育った元後輩の頭をペシッと軽く叩けばなぜだか影山は少し嬉しそうにソワソワした表情を浮かべた。
 それを見て、やっぱりこいつも俺の後輩なんだな、と岩泉は今さら自分自身でも呆れるほどに身勝手な思いを過ぎらせた。
 ただただ「天才」というだけで、ただただ及川の脅威となる存在というだけで、自分は「先輩」であることを放棄した。あれほど純粋にただバレーをすることが嬉しくてたまらないことを全力で表現するほんの子供だった後輩を、と今さらながらに思っても後悔など一つもしていない。
 影山がいれば及川は焦るし、混乱もする。良いことなど一つもない。及川の影山に向かう本音がどうであれ、だ。
 だが影山を個人的にどうこう思ったことはないし、及川がいないいまこの場だけは。普通に接しても罰は当たらないだろうと解釈するのはやはり都合が良すぎるだろうかと岩泉は自嘲した。
「烏野のメンバーとは上手くやれてるみたいだな」
「はい。一年は腹立つヤツもいますけど、先輩たちのレベルは高いです」
「すげーリベロいるもんな、烏野は」
「ッス! 西谷さんカッケーです!」
「お前、何でも”カッケー”だな」
「うぐッ……!」
 すれば肉まんを詰まらせてバツの悪い顔を浮かべた影山を見て岩泉は笑った。――ああ、普通の後輩だ。金田一や国見たちと何も変わらない。そう思った。だが、自分たちはそうはなれなかったのだ。
 分かれ道が見えてきた。どちらかと言えばの家寄りの岩泉の家は、秋山小学区の影山とは1ブロック先の交差点で確実に道が違う。
「俺んち、交差点左だけど、お前んちは真っ直ぐだろ?」
「あ……はい」
 訊いてみれば図星だったらしく、岩泉は「じゃあな」と一言告げて分かれようとした。
「あ、岩泉さん!」
「ん……?」
「肉まんあざっした! それから……春高予選であたった時は今度こそ負けません!」
 すれば影山が律儀に頭をさげて挨拶をくれ、岩泉は少々面食らったものの「おう」と応じた。
「じゃあな、気を付けて帰れよ」
 そうして再度声をかけてから影山に背を向ける。
 そうして岩泉は一つため息を吐いた。――素直な後輩だ。素直に誰でも「格好いい」と湛えて憧れてくれる。だからこそ思い知った。そんな影山にとって、絶対的に特別な人間が及川なのだと。
 一つ岩泉は舌打ちをした。

『牛島くんはいまは敵同士だったかもしれないけど、同じチームになったら頼もしい選手だったりするんじゃないかな……』

 揃いも揃って、お前らは……と思わずにはいられない。
 なぜこぞって及川を上のステージに連れて行こうとするのだろう? そいつは「個」では決して天才に勝てない、才能溢れる凡才だ。だから徒党を組んで「天才」を打ち破ろうとしている最中なのに。放っておいてくれ、と思う心に岩泉は矛盾も覚えていた。
 及川は自慢の相棒で、自分にとっては最高のセッターだ。誰よりも努力を惜しまない、体格にもセンスにも人一倍恵まれた優等なプレイヤー。「飛雄にはかなわない」と零すたびに叱咤をしていたのは他ならぬ自分だ。だってそうだろう。自分にとって最高のセッターが「かなわない」などと簡単に言うことがどれほど腹立たしいか。
 ――お前は最高のセッターだ。だから白鳥沢に行け。
 そう言って背中を押すのが正しかったというのだろうか? 及川は自分の言葉にひどく影響されやすいというのを知っている。自分がそう突き放せば、及川はおそらくそうしていただろう。
 ――大学で一緒に日本一目指すべ。
 そう言えば、それこそ及川はその通りにしてしまうだろう。けれども自分の実力で「一緒に」コートに立てるような場所では、おそらく確実に日本一にはなれない。
 もしも白鳥沢に行っていれば、今ごろは牛島のように約束された道を歩んでいただろう彼を、今度こそ本当に永久に埋もれさせることになるだろう。
 それでも――。

『バレーはコートに6人だべや!?』

 このまま一緒にプレイし続けるのが正しいのか。今なおあの言葉に縛られている及川を、自分は何もせず見守っていていいのか。
 バレーを始めたその瞬間から一緒にバレーをしてきた。最初に始めたのは及川。追うように自分もバレーにハマった。及川がいなければ、自分はおそらくバレーという競技にのめり込むことはなかっただろう。
 その張本人が「天才」の壁に阻まれ壊れていくのを見ていられなかった。自分にとって及川は幼なじみで相棒で、バレーを始める切っ掛けをくれた恩人で、腐れ縁の親友。ずっとずっと及川のトスでスパイクを打ち続けてきたのだ。これからもずっと……そう思う気持ちに代わりはない。
 けれども――、誰よりもずっとそばで及川を見てきた。及川徹の才能を誰よりそばで感じてきた。少しばかりの悔しさと、けれども何倍にも勝る誇らしさと共に「俺の相棒はスゲーだろ」といつもいつも思っていた。
 それはこれから先も、変わらない。――と思い至って、岩泉はハッとした。
 そうして小さく笑う。――なんだ、簡単なことだった。といままさにはっきりと気づいた。

 ――俺の相棒はスゲーだろ!

 その気持ちが全てだ……と。
 それが自分の隣に立っているときでも、どんなに遠く離れていたとしても一つも変わらないのだ……と。



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