緋色の刻印





あれから、既に二十年――。

シャルルが亡くなり、シュナイゼルをクーデター犯として討ったあの日から、既に二十年近くの月日が流れた。
相変わらず、宰相という仕事は多忙を極めている。生前のシュナイゼルはあの若さでこれだけの仕事を一身に受け、あのような成果をあげ続けていたのだと思うと彼の才覚には圧倒されるしかない。自分とて小さい頃から優秀だと褒めそやされて育ってきたが、シュナイゼルと比べると力量の差を感じずにはいられない――、と血の繋がった兄を思い返しながらルルーシュ・ヴィ・ブリタニアは午前の仕事を切り上げて宰相府の外へと向かっていた。
今日は気持ちのいい天気だ。
オデュッセウスが帝位について、ブリタニアも随分と変わっていった。まずはシャルルの進めていた無謀な侵略路線を止め、和平路線へと緩やかに軌道を変えた。搾取し続けていたエリアに経済的支援を積極的に行い自立を促し、長く衛生エリアを保ったエリアには自治権を認め――オデュッセウスを主君として総督を実質の名誉職と化し、そのエリアの人間に首相を務めてもらって穏やかに「帝国属領」から「連邦制」へと形を変えていっている最中だ。
むろん、賛否両論はある。特にブリタニア本国民からは搾取対象がなくなることへの不満が大いに沸いていたが、和平を望む世界情勢の中でいつまでも他国を蹂躙し続けることが不可能なのは誰しも分かっていることだろう。
そして――、先日、ルルーシュが不遇な少年期を過ごしたエリア11・旧日本がついに自治権を認められ、連邦国家の名の下に「日本」という名を取り戻すに至った。長い間かの地の総督を務めていたユーフェミア第四皇女は政庁及び官邸の引継などに追われてるが、近いうちにこちら本国へと帰国する予定だという。
「ユフィは優秀だな……。そう思いませんか? 兄上」
エリア11は特にテロ活動の活発だった激戦地でもあった。しかし、ユーフェミアが総督へと就任して以降は比較的すぐに治安を取り戻し、以後はブリタニアでも上位クラスのエリアとなっていたのだ。ルルーシュの呟きは、空へとシュナイゼルへ向けて放ったものだ。けれども、脳裏にはもう一人の兄の姿が過ぎっていった。芸術を愛し、けれども愚鈍だと見下げてもいた、かつての「日本」総督だった兄――。
しばし顔をしかめて、ルルーシュはシュナイゼル達の墓標へと向かおうとしていた足を止めた。そして、足先を別の方向へと向ける。

自分は、裁かれるべき罪を犯した。誰も知らない罪だ。
シャルルは、自殺だった。シュナイゼル達は、自滅しただけだ。――時おり、自責の念からそう言い訳して信じ込んでしまいたくなることもある。
けれども、たった一つ、言い逃れさえできない罪状がある。だが彼は殺されて同然だ。殺して当然だ。と、思っていた。――そう、遠いあの日。あの日の空も、今日のように気持ちよく晴れていたものだ、と過去へと遡りそうになる思考に必死にストップをかけて平静を装っていると、道行きに見知った老人の姿が映ってルルーシュは思わず声をあげた。

「バトレー・アスプリウス?」

するとバトレーと呼ばれた老人は大きな肩をビクッ、と震わせてからルルーシュへと目線を送る。
「あ、これは……ルルーシュ宰相殿下」
「何をしているんだい? 隠居生活をしている身で――」
何気なく話しかけて、バトレーのすぐ側には彼の連れらしき人間が二人いることにハッとルルーシュは気づいた。そして自然とそちらに目をやって、ルルーシュは思わず絶句した。目に入ったのは年輩の女性と、十代後半か否かという年頃の少年だ。会ったこともない、ライトブラウンの色素の薄い髪と目をしていた。しかし――。
「ク、クロヴィス……!?」
その少年の面差しが、あまりに自身の兄であったクロヴィス・ラ・ブリタニアに酷似していて、気づけばルルーシュは震えるような声をあげていた。眼前の三人に緊張が走ったのが明確に伝ったが、それ以上に混乱した自身を誤魔化すように慌ててその場を取り繕う。
「あ……も、申し訳ない。その……あまりに、亡くなった兄に似ていたもので、驚いてしまって……」
亡くなった、などと我ながら白々しい。と内心思う気持ちすら既に慣らされていたものだ。必死にルルーシュが自嘲を浮かべていると、バトレーが案ずるようにして女性の方をちらりと見やった。
殿……」
そこでルルーシュはハッとした。少年に気を取られていて気づけなかったが、殿、と呼ばれた女性はルルーシュにとっては古く馴染んだ肌の色をしていた。懐かしい黒髪をすっきりとまとめ、落ち着いた色合いのスーツがとても小綺麗な印象を与えている。
「あの……、失礼ですが、あなたは日本人でしょうか?」
ひょっとしたら中華連邦の人間という可能性もあったが、””という名といい雰囲気といいルルーシュには確信があった。すると、女性は小さく頷いてルルーシュに向き直る。
と申します。ルルーシュ殿下、お会いできてとても光栄です」
柔らかい、とても心地のいい声だった。ふわりと微笑んだ彼女が、どこか弟を見やるような目線に見えて――ルルーシュは頭を捻ってしまう。
「あの……」
「この子、殿下から見てもクロヴィスに似ていますか?」
「え……?」
殿――ッ、とバトレーが焦ったような声をあげたが、彼女は「いいんです」と彼を制して再びこちらを見やった。
「いきなりで驚かせてしまうかもしれませんが……、彼の、クロヴィスの忘れ形見なんです」
「え……、兄、さん……の……?」
「ええ」
すると惚けた自分に向かっては微笑み、側にいた少年はうっすらと頬を染めてペコリと頭をさげた。その表情もまた少年だった頃のクロヴィスを思い起こさせて――ルルーシュは言葉を失ってしまう。惚けたままでいると、「実は……」とバトレーが言いにくそうに口を挟んだ。
そこで初めて、ルルーシュは今まで微塵も知らなかったクロヴィスの日本での様子を聞いた。カマクラで出会った彼女と恋に落ち、そして子供の顔を見ることなく亡くなったのだと、クロヴィスの将軍を務めていたバトレーは涙を浮かべながら苦しげに語った。クロヴィスを死なせてしまったことが申し訳なくて、彼が息子を残していたことを知って密かに後見を務めていたこと。そして今日は――、ついにクロヴィスの遺体との面会も叶わなかったのたっての希望もあり、二人をクロヴィスの墓前へ連れて行くつもりだった、という話だった。かねてよりエリア11が日本として独立を果たした際にはそうするつもりであった、と聞いてルルーシュは走る動機を抑えるのが精一杯の状態だった。
「殿下……?」
「い、いや何でもない。突然のことに、驚いてしまって……」
胸を押さえた自分をバトレーが気遣ってくれたが、上擦る声に叱咤してルルーシュはこう言った。
「実は、私もちょうど兄さんの墓前へエリア11の独立を報告しに行こうと思っていた所なんだ。バトレー、こちらの二人は私が責任を持って連れて行くよ。その方が面倒も起こらないだろう?」
「あ、はぁ……」
皇族専用の墓地はそう易々と入っていい場所でないことはバトレーも身に染みて理解しているだろう。宰相でありクロヴィスの弟でもあるルルーシュがこう言えば彼も従うしかなく、よろしくお願いいたします、と深々と頭をさげてバトレーはルルーシュ達に背を向ける。
その背を見送って、ルルーシュは二人を先導した。
ルルーシュ自身、努めて平静を装っているが、胸の早鐘はまだ収まるそぶりさえ見せてはいない。もしや何かの陰謀か? と疑ってみた所で、これほどクロヴィスの面影を宿しているのだ。疑う余地さえない。
「"初めまして、父さん"かなぁ……。父上、って呼ぶべきかな」
少年が気恥ずかしそうに一人ごち、微笑ましそうに笑うの声さえ凶器に近い。背中はすでに冷や汗で不快なほどに濡れてしまっている。
「ルルーシュ殿下……」
「――あ、はいッ!?」
呼び声に思わず声を裏返してしまうと、はやはり微笑ましそうに穏やかに笑った。その好意的な笑みさえ、痛くてたまらない。
「あなたも、彼のお葬式には参列できずに……お辛かったでしょう?」
「は、え……あ、ええ。兄さんにはとても……不義理をしてしまったと、申し訳なく思っています」
「クロヴィスが生きていたら、誰よりも殿下の生存を喜んでいたと思います。これほど立派になられたあなたを見たら、悔しがるかもしれませんけど」
「え……!?」
「ずっと、あなたやナナリー皇女殿下を助けられなかったことを彼は悔やんでいました。あなた方の死を悼んでアリエス宮に似た庭園を作らせたり、絵を描いたり……、一日も早く自身の治めるエリアを平定してあなた方が安心して眠れるように、と心を砕いてもいました。ですから、誰より殿下が生きていたことに安堵していると思うんです。彼の遺志は、立派にユーフェミア総督殿下が継いで下さいましたし。クロヴィスは良いご弟妹がいて、幸せだったでしょうね」
「――ッ!」
何を言っているんだ――、とルルーシュは絶句した。
そんなはずがない。クロヴィスは、自分の母であるマリアンヌを――と遠い昔に忘れ去った憎しみを胸に過ぎらせる。
しかし、彼女の言っているようにクロヴィスが政庁の空中庭園をアリエス離宮のそれに似せて作らせていたのはまぎれもない事実だ。彼の遺品に、自分たち兄妹やマリアンヌを描いた絵画があったのもまた事実。
けれども、そんなものはクロヴィスお得意の"人情家の皇子"パフォーマンスだろうと思っていた。いや、むしろそう言い聞かせることで、自身の行為を正当化していた。

『ル……ルルーシュ……ナ、ナナリーも……、無事、なのかい?』
『そ、そうか……。でも、良かったよ……わ、私と一緒に本国へ……みんな、喜ぶ、から』

死の間際――、撃たれた痛みに呻きながらもああ言っていたのは自分可愛さから来た命乞いではないか。
少なくとも、あの時はそう信じていた。
だが――、真実は、違っていたのだろうか?
初めて会うはずの彼女――がまるで弟を見るような眼差しを向けるのは、他ならぬ自分がクロヴィスの弟で、そしてクロヴィスが自分のことを好意的に彼女に話していたからではないのか? と感じ取ってしまって無意識に拳を握りしめる。
「ルルーシュ殿下?」
「あ、いえ……。すみません、兄さんと過ごした幼い日の事を思い出してしまって」
さすがに宰相として鍛えられた舌だ。意思とは裏腹によくぞ回るものだ――と自嘲気味に感心しているとは同情気味の目線を寄せてくる。
やめてくれ、そんな感情を向けられる資格などない。
外からは見えないように唇を噛みしめていると、は悲しげな目線を遠くに向けてもう一度こちらを呼んだ。
「訊きにくいことをお訊きします。殿下……、クロヴィスは、どういった最期だったんでしょうか? 苦しんでいましたか?」
「え……!?」
「あ、ごめんなさい。殿下は、ご存じないですよね……。でも、突然彼がいなくなって、今もまだ信じられない気持ちがあるんです。"また、会いにくるよ"と、笑って言ってくれた言葉が最後だったから……、また会いに来てくれるような気がしていて」
ふふ、とは悲しげな笑みと共にうっすらと目尻を滲ませている。
彼女は、本当にクロヴィスを愛していたのだろう。いや今も、言葉の端々から痛いほどにクロヴィスを愛しているのが伝ってくる。
それなのに――と押しつぶそうになる自分をルルーシュは必死に叱咤した。答えるべきか黙るべきか。けれども真実を知りたがっている彼女に真実を伝えることがせめてもの誠意な気がして、ルルーシュは抗えないほど歪んだ眉を晒して必死で口を開いた。
「私も、他の兄妹から聞いたことなので……はっきりとしたことはお答えできないのですが……。兄さんは、二カ所ほど撃たれて、政庁の庭園に倒れていたと聞いています」
露骨にの眉が歪んだ。ルルーシュは人ごとのように語りながら、鮮明にあの日の出来事を脳裏に甦らせる。
「一カ所は、右手。おそらく、二度と絵を描けないという絶望を与えるためだったのでしょう。兄さんが絵を好んでいたことは、多くの人が知っていましたから」
「そんな……、よほど、彼を恨んだ人の犯行だったんでしょうね」
だが、彼はその絶望よりも「無事で良かった。本国へ共に行こう」と呟いていた――とルルーシュは苦みを過ぎらせた。
「その後、左胸を撃たれて……。おそらく死因は出血死かと」
そうだ。苦しませて殺すためにあえて頭を撃たなかった。自身が去ったあともきっと意識はあっただろうクロヴィス。その刹那で、彼は何を思っていたのだろうか? 分からない。そもそもあのクロヴィスがナンバーズであるイレヴンを子を成す程に愛していたなど、にわかには信じられないというのに。
「そう、ですか」
は僅かに青ざめて痛ましそうな表情を浮かべたのち、目尻に溜まっていた涙を払ってこちらを見上げてきた。
「ありがとうございます。ごめんなさい……辛いことを話させてしまって」
気遣うような目線だ。おそらく表情を歪めていた自分を「兄の死を思い出して悲しむ弟」だと解釈したのだろう。バッと顔を背けたルルーシュは「いえ」と小さく呟くしかできなかった。
何も知らないからこそ、こちらを気遣えるのだろう。
彼女からクロヴィスを、そして少年から父親を奪ったのは他ならぬ目の前にいる自分だというのに。
クロヴィス――、無念そうな死に顔だった、とユーフェミアたちは話すたびに辛そうに涙を浮かべている。その度、抗えなく襲う自責の念をどうにかやり過ごすことなどとっくに慣れていたはずだ。
今さら、彼を手にかけた過去は変わらない。真実を口にした所で彼が生き返るわけでもないし、廃人のようにして生きている彼の生母が正常に戻るわけでもない。皆が不幸になるだけだ。自身には生涯をかけて無心で宰相を勤め上げるという責任もある。真実を口にして牢に入れられ罪を償えるのならそれでも構わないが――、そういうわけにはいかないのだ。シャルルのことも、シュナイゼルのことも、クロヴィスのことも――真実を胸に留め、墓場まで持っていくと決めたのだから。今さら動揺などするべきではない、とルルーシュは懸命に自分に言い聞かせ続けた。
やがて皇族の遺体が安置してある大聖堂に辿り着き、圧倒される二人にここがどんな場所か説明しながらルルーシュは地下への道を進んだ。神々しいまでのステンドグラスから差し込む光が届かない場所まで歩いていき、重々しい扉の前で二人の方を振り返る。
「さ、ここです」
そうして扉に手をかけ、クロヴィスの名が刻まれた棺の前までを促すと、ゴク、と彼女が喉を鳴らした気配が確かに伝った。動悸が速くなったのか、胸の前でギュッと手を握りしめている。その様子を見つめて、ルルーシュは少しだけ重い棺の蓋をずらした。ははっとしてルルーシュを見上げてきたが、頷いて対面を促す。一度大きく息を吸い込んだ彼女はゆっくり頷いてから真っ直ぐ墓前に立ち、スッと見ほれるほど優雅な仕草で両手を合わせた。ルルーシュにとっては懐かしい、日本人ならではの合掌だ。少しだけ眉を寄せて瞳を閉じる彼女の横顔でサイドの黒髪がわずかに揺れた。
少年も母に倣い手を合わせており――、しばしルルーシュはその光景を人ごとのように眺めていた。
程なくして、ゆっくりと瞳を開いた彼女はそっと手を下ろし、真っ直ぐクロヴィスの顔を見ながら小さく唇を震わせた。
「……クロヴィス……ッ」
痛いほどにその一言だけでクロヴィスへの感情が伝った。そして、クロヴィスの方も疑いようもなく彼女を愛していた事も同時に悟った。声を出そうとしても言葉にならないのか口元を押さえて震える彼女を少年がそっと支えた。
「母さん……」
「話したいこと、たくさんあったのに……、なにから話せばいいのか、分からなくて」
クロヴィス、と語りかけるように彼女はもう一度掠れた声でクロヴィスを呼んだ。
言葉にならない想いを、無言で彼女はクロヴィスに語りかけているのだろうか? 彼にそっくりな息子のことや、彼の死後の自分のことや、先ほど訊いてきたように死に際に苦しくなかったか語りかけているのかもしれない。そんな彼女を支えて、少年の方も緊張気味に墓前に向き直っていた。
「やっとここに来られたけど、やっぱり一度、お話したかったな……父上。でも心配しないで、母さんのことはちゃんと守っていくから。ね、父さん」
彼はまだ父親への呼び方を決めかねているのだろう。緊張からかぎこちない声で語りかけている少年の面差しはやはりクロヴィスに似ていて――ルルーシュは目を伏せた。
クロヴィスも、やはり息子に生きて会ってみたかっただろうな、と遠く思う。おそらく存在すら知らないまま死んだのだろうから。――死んだ? 否、自分が殺した。兄を殺したのだ。実の兄を――この手で。
「殿下、ルルーシュ殿下」
「――えッ!?」
「どうかなさいました?」
「あ……いえ。次は私の番ですね、私も、伝えるべきことが山ほどありますから」
呼びかけにハッとしたルルーシュは、取り繕うようにしてクロヴィスの棺の前で跪き、内心の白々しさを押し隠してエリア11の独立とユーフェミアの功績を報告した。そうして棺を閉じ、独特の霊気漂う地下室を抜けると、降り注ぐステンドグラスの光を浴びながらがこんなことを言った。
「殿下……。もう一つ、お願いしてもよろしいでしょうか?」
「なんでしょう?」
「シュナイゼル殿下と、皇女殿下の墓前へも手を合わせさせて頂きたいんです」
「え……、シュナイゼル兄上へ……? しかし……」
「クロヴィスを暗殺したのがシュナイゼル殿下だという話は知っています。でも……私にはそうは思えないんです。それに、例えそうであっても、お二人がいなければ私はクロヴィスには出会えなかったんですもの」
思ってもみない話にルルーシュが目を見開くと、は持ち前の柔らかい笑みを浮かべた。恐ろしいほどに差し込む淡色の光が似合っている。説明を求めたルルーシュには柔らかい口調のまま静かに語ってきかせた。シュナイゼルと、クロヴィスのすぐ下の妹にあたる第三皇女が彼の誕生日に紅葉をプレゼントしてきたこと。その紅葉を実際に見るためにクロヴィスがカマクラに足を運んで、そこで自分と出会ったこと。そうして彼がどんなことを思い、どのような生活を送っていたかもルルーシュは初めて聞いた。
「そ、そうですか……、兄さんは、そんなことを……」
懸命に平静を装って相づちを打つのが精一杯だった。そう言えば彼の遺品に見慣れない盆栽があったような気もする、と記憶をたぐり寄せながら唇を噛みしめる。自分が憎んでいたクロヴィスと、断片的に見えてくる彼の真実がまったく重ならない。
そもそも、自分は一体クロヴィスの何を憎んでいたのだろう? 遠く幼い日、まだブリタニアで「皇子」だった頃……よくチェスをして遊んだ。兄のくせに子供っぽくてチェスも弱くて勉強嫌いで絵ばかり描いていて――、だが、けっして仲は悪くなかった。真に邪険にされた覚えなどない。
しかし母であるマリアンヌを殺されて、全てが憎くなった。忘れられた皇子と化した自身が身を隠す日本でのうのうと総督面しているクロヴィスが憎かった。ブリタニアへの憎しみを募らせることでしか――生き抜くことができなかったのだ。数多いる腹違いの兄妹のことも信じられなくなっていた。幼い頃に親しくしていた彼らのそれは表面だけの幻想で、いつかは自身もマリアンヌのように殺されるのではと恐怖に怯えもした。
けれども――。

『ル……ルルーシュ……ナ、ナナリーも……、無事、なのかい?』

もうやめろ。思い出させるな。思い出すな。クロヴィスは、帝位を狙うシュナイゼルに暗殺されたのだ。それでいいではないか。
歩き慣れた皇宮の庭園は今日も色とりどりのバラが咲き乱れている。噴水の飛沫が眩しくて、ルルーシュは眩しそうな笑顔を懸命に作りだしてみせた。
「このバラ園は兄さんのお気に入りだったんです。いつも晴れた日にはキャンバスを持ち出して絵を描いているのをよく見かけました」
「そう、ですか。本当、クロヴィスが好きそうな庭園……、ここで彼は生まれて、ここで育ったんですね」
するとはすっと頬を緩めた。噛みしめるように辺りを見渡しては、遠い目をしている。自分の知らないクロヴィスの姿でも追っているのだろうか? フワッと薔薇の香りが風に乗って、ふいに彼女は神妙な表情を浮かべた。
「殿下……、クロヴィスのお母さまにあたる后妃さまは今どうなさっているのでしょう? 聞いた所によると、お加減がよろしくないとのことですが」
「あ……ええ。兄さんが亡くなってから后妃さまはその、気落ちされていて……ほとんど自身の部屋からお出になることはありません」
「お気の毒に……。バトレーさんから何度も后妃さまに息子を会わせてやってはどうかと言われていたのですが、息子が幼い時分はずっと断ってきたんです。私たちは公に認められた仲でもなく、私はイレヴンという立場で……もしも息子のことが知られればどうなるか分からないという恐怖もありました。でも、日本人の血が半分混じっているとは言え后妃さまにとっては唯一の孫となりますし……、一生黙り通すべきか、お話しすべきなのか、迷ってしまって」
相談めいたことを話されてルルーシュは返答に詰まる。クロヴィスの母親にあたる后妃はクロヴィスの死を知って以降ショックで病みがちになり、ルルーシュが正式に皇宮へと戻った頃には精神を病んで廃人と化していた。確かに息子の忘れ形見に会えば正常に戻る可能性もなくはないが、正常に戻った所で彼女は典型的なブリタニア人だったと記憶している。最愛の息子が軽視の対象だったイレヴンの女を愛したと知れば再び病の床に逆戻りだというのは容易に想像できる。むろん、としてもおそらくそれは予想の範囲内なのだろう。それでもクロヴィスの母を気遣うのは最愛の者を失う苦しみを理解しているからなのか。
「やはり、伏せておかれるべきだと思います。今は……」
「そう……ですね。いつかお会いできれば、と思っておきます」
クロヴィスが生きていた頃――、とクロヴィスの間にあったものは絶望に近かったに違いない。帝国の皇子と、帝国に従わされるナンバーズ。しかし、あれから長い月日を経てようやくの祖国奪還が叶い、連邦国家とは言え日本は「日本」という名を取り戻した。今の彼女はようやく日本人として、外国の一皇室であるブリタニア皇室を見ることが出来たのだろう。畏怖が薄れれば、愛したクロヴィスに繋がるもの――、自分たち兄弟や彼の母にいずれは会ってみたいと思うのも自然なことだ。特に、息子の方は明確にブリタニア皇室の血を継いでいるのだ。そうだ、自分にとっても――彼は甥にあたることになるのか、と考えることさえ苦痛を伴ったが、慣れたように受け流してルルーシュは皇宮の外れの寂しげな場所へと足を踏み入れた。
他の皇族と違い、シュナイゼル達の墓は人目に付かない場所にひっそりと設けてある。
周りの木々に紛れるようにして置かれている二つの墓標の前にはまだ色あせない白バラが添えてあり、ルルーシュの隣では意外そうに息を漏らしていた。
それもそうだろう。シュナイゼルは歴としたクーデター犯だ。忘れられたようにしてひっそりと作られた墓前に花があることに疑問を持たれても不思議はない。
「姉上は、とても不幸な形で亡くなってしまって……せめてもの慰めにと花は絶やさないようにしているんですよ」
「そうですか……。皇女殿下は、とてもクロヴィスに似ていらして……彼も美しい妹だといつも自慢げに語っていました」
すっと同情を寄せるように眉を寄せたは二人の墓前へ一歩進み出ると、先ほどと同様にそっと手を合わせてしばし祈りを捧げていた。そうして手を下ろすと、先ほどとは違って穏やかな表情で二人の墓前へと微笑みかけ、同じように墓前に立っていたルルーシュを見やった。
「紅葉……」
「え?」
「いつか、カマクラの紅葉を見に来てください。クロヴィスが見ていたものを……。もう、シュナイゼル殿下達を招待することは叶わなくなりましたから」
「あ……」
「日本は、お嫌いですか?」
「いえ……。長く住んでいましたから。世話になった人や、日本人の友人もいます」
「そう……、よかった」
深い、穏やかな黒い瞳だ。もしや、彼女は全てを知っているのではないのだろうか? 知っていてこちらの反応を窺っているのでは――とありもしない疑念と悪寒に震えるほど、全てを許容したような深い瞳をしている。事実、クロヴィス暗殺の犯人はシュナイゼルとして表向きは通っているのだ。彼女がどれほど直感で「違う」と感じていても、真実の咎人は眼前の自分であっても、クロヴィスを手にかけたのはシュナイゼルという公然の事実があるというのに――、彼女はそのシュナイゼルにこうして手を合わせ、冥福を祈った。
これが――兄の、クロヴィスの愛した人。人種も立場も何もかもを越えてまで愛さずにはいられなかった人なのか……と二十年近く前の光景が見えるようでルルーシュは思わず逃避するように瞳を閉じた。
すると、ハッと頭に記憶の断片がもやがかったように過ぎる。
クロヴィスの生前当時、「イレヴンの女にたぶらかされた皇子」という噂が流れていた、と聞いたことがある。あのクロヴィスに限ってナンバーズと関わるなどとも思えず、ありもしない妄想を流すものだ、と鼻で笑ったものだ。
そうだ、確か、彼の遺したスケッチブックや絵画の中にはイレヴンと思しき黒髪の女性もいたような気がする。クロヴィスのことにはあまり触れまいとして生きてきたため記憶が曖昧だが――確か、と繋がらない記憶に支配されていると、そばから急かすような声があがっった。
「母さん、あっちの花園を見てきてもいいかな?」
瞳を閉じていると声さえもクロヴィスによく似ている――、と顔をあげると少年が庭園の一角を指さしていて、は「そうね……」と呟きつつ困ったように視線をこちらへ流してきた。ふ、とルルーシュは笑みを浮かべてみせる。
「構わないよ、好きなだけ見てくるといい」
そう言うと、少年はうっすら頬を上気させて無邪気な笑みを見せた。
「ありがとうございます、叔父上!」
そしてはにかんだ表情のまま庭園の方へ駆けていき、あっけに取られたルルーシュには申し訳なさそうな苦笑いを浮かべた。
「すみません、父親の弟なので叔父にあたると教えてしまって以来……あの子、殿下に憧れてしまっていて……。殿下がご活躍なさるたびに大騒ぎしているんですよ」
「そ、そうですか」
「にしても、家では"ルルーシュ叔父さん"って言ってるのに……あの子ったら」
くすくす、とが肩を揺らし、ルルーシュは愕然として少年の行った後を目で追った。
受け継いだ血がそうさせるのだろうか。年頃の少年にしては珍しいほどに生き生きした表情で草木を愛でる彼は、あまりにクロヴィスに似すぎていた。クロヴィスの血――、燃えるような紅い血。弟である自分自身にも確かに流れているものだ。彼に関する最後の記憶は、そうだ。彼の右手からあふれ出した鮮血と苦悶の表情だった。実にいい気味だった。二度と筆を握れない絶望の中で死ね、と。
「……あ……!」
そこでルルーシュは断片的な記憶の欠片が細い一本の糸で繋がったことに気づいて声を漏らした。どうかしたのかと視線を流してきたの方は見ずに額に手を当てて呟く。
「そうだ、兄さんの……遺体の側に……」
「え……!?」
「兄さん、庭園で絵を描いていた。いや、描こうとしていたんです。遺体の側に立ててあったキャンバスは真っさらで……でも、兄さんの血痕だけが赤く残っていた」
直接見たわけではないが、オデュッセウスやユーフェミアが痛々しそうに教えてくれた記憶がある。クロヴィスが最期に触れた遺品がそれだ、と。遠いあの日、彼らの話に痛ましそうな表情を作りつつ思った。どうせ今際の際の悪あがきだったのだろう、と。自分が去った後、苦痛に耐えかねて側にあったキャンバスに縋った。あるいは自分への憎しみを刻みつけた。そのような取るに足らないものだと考えていた。しかし――。
「ルルーシュ殿下? 今のお話……」
「あ、いえ……私も、そのように聞いただけですので実際の所は詳しく知らないのですが……。今日、あなた方にお会いして、兄さんが最期に何を思って何を残そうとしたのか……少し分かった気がして」
一人ごちていたルルーシュは慌てて「兄の死を悼む弟」の顔を作ってに向き直った。するとは瞳を大きく見開いていて、まるで遠い記憶を呼び起こすように少し眉を寄せてからフッと遠くを見やった。
「昔、彼に……こんな話をしたことがあります。赤い色は、緋色は、日本では"思ひの色"と言って情熱を表す色なのだと。紅葉が、青葉から徐々に赤く染まっていくというのは殿下もご存じでしょう?」
「ええ……」
「それを見て、彼は怯えていたんです。紅葉を美しいと思うのに、まるで自分の手が赤く罪に汚れていると告げられているようで怖い、と。だから……私はその話をしました。あの時の、怯えた顔が瞬く間に笑顔に変わったことは今も忘れられません。クロヴィスが最期に何を思っていたのかは、知るよしもありませんけど……、自身の赤い血の色を残すことで、自分の強い気持ちや無念を表したかったのかもしれないですね」
そして痛ましそうな表情を浮かべたは、すぐにまた穏やかそうでいてルルーシュを慰めるような表情に変えた。おそらく、ルルーシュ自身は気づけなかったが自分でもよほど愕然とした表情を浮かべていたのだろう。
事実、ルルーシュは愕然としていた。
罪の意識に怯えていた……? 誰がだ……? クロヴィスが、か? 
自分が憎んでいたクロヴィスと、断片的に見えてくる彼の真実がまったく重ならない。
ただ、記憶の欠片がうっすらとだがハッキリ繋がった気がした。全ての疑問は目の前の彼女――に繋がっていたのだ。
彼の残した鮮血の跡は、彼女への変わらない愛を懸命に訴えたのだ。自分はここに生きていたと、せめて自分の想いだけは残していきたいと。彼女に向けて残した、精一杯の愛の証だった。
さん」
「はい」
「兄さんの遺品は全て、皇宮の中に残してあります。見ていかれますか?」
兄を撃ったサイレント・ガンのトリガーを引いた手を人知れず痛いほど握りしめてルルーシュは懸命に表情を保ったまま呟いた。すると彼女は小さく唇を揺り動かし、しばし逡巡するような様子を見せた。

「母さーーん!」

しかし数秒間の沈黙を打ち破るように花園の方から少年の声が響いて、二人はハッとそちらに意識を戻した。
少年は何やら懸命に母親を呼んでおり、一度返事をしたは先ほどの返答をするべくルルーシュに向き直る。
「今は……あの子を連れて皇宮の中までは行けません。ですから、いつか……」
そうしてお辞儀をして、彼女は呼ばれたままに少年の方へと向かう。その背をルルーシュは無言で見送った。色とりどりの花が咲き乱れる様子に少年は瞳を輝かせて何かを母親に語りかけ、彼女は笑って頷いている。
無性に見つめているのが辛く思われて、ルルーシュは自然と瞳を落とした。しかしその刹那――、フワッ、と柔らかい風が誘うように過ぎって思わず顔をあげてしまう。
「ッ――!」
すると視線の先でと少年を側で見守る在りし日のままのクロヴィスの姿が映って、ルルーシュは息を呑んだ。
見たこともないほどの優しげな瞳で、でもどこか寂しそうで……ゴクリと喉を鳴らすと、まるでそれが伝ったように彼はふわりと日に透ける金髪を揺らしてこちらを振り返った。
「兄、さ――ッ!」
気圧されるように後ずさってルルーシュはこれ以上ないほどに瞳を見開く。そこでハッと我に返ったようにルルーシュは一度瞬きをした。確かに目線の先のクロヴィスと瞳がかち合った気がしたというのに――瞬きの先にはただの虚空があるのみだった。
チッ、とやり場のない舌打ちをした。クロヴィスは既にこの世にはいないというのに、畏怖から幻覚でも見たのだろう。
けれども――今も瞳に映っているたちを見て思う。本来なら、あの傍らにはクロヴィスがいたはずなのだ、と。彼女たちからクロヴィスを理不尽に奪ったのは他ならぬ自分だ。おそらく、地獄のような苦しみだっただろう。かつてマリアンヌを失った自分が同じ思いを味わったように。
「兄さん……」
先ほど、確かに目が合ったと恐怖した彼の瞳は――憎しみで染まっていたのだろうか? 無念だったと、自分を恨んでいるだろうか。

赤は――、思いの強さを表すのだと、情熱の色だとは言っていた。

しかし、やはり――罪の色なのだ。少なくとも、クロヴィスの残した跡は――自分にとっては消えることのない罪の印。
死ぬまで贖い続けてもなお、消えないのだろう。
兄を殺し、その罪をもう一人の兄に被せ、自分は今なお被害者面でブリタニアの宰相をしているのだ。滅私奉公すればするほどに、世論は自身を評価し、彼らを蔑む。いつか、いつの日か物好きで研究熱心な史学家たちが真実を紐解くその日まで――偽りの歴史を刻み続けるのだ。

だが、既に覚悟を決めた身だ。
もはや許されようとは思わない。この身に宿った赤を抱えて、この国の宰相として生きていくと誓ったのだから。


「ルルーシュ殿下、お忙しい中……本当にありがとうございました」
帰り際、深々とした挨拶をにもらってルルーシュは恐縮の表情を浮かべてみせた。
そして二、三と言葉を交わしてから少年の方へ笑いかける。
「何か困ったことがあったらいつでも連絡しておいで。全力で力になるよ、兄さんのかわりに」
すると少年は日が差したように笑って明るく返事をした。
彼らの背を見送って、ルルーシュはもう一度小さく呟く。
「そう、だな。せめて、兄さんのかわりに……」
こんな事、罪滅ぼしにもならないと分かってはいるが、せめて叔父として甥のために出来ることはしていこうと遠く誓う。
クロヴィスが聞いたら、「当然のことだ」とふんぞり返るのか、それとも「ありがとう」と笑ってくれるのか。
我ながら自分に都合の良い妄想だ。

許されようとは思わない。語られない真実を背負ったまま、ここで生きていくと決めたのだから。
死を偽り、名前を偽り、経歴を偽って生きてきた。そしてクロヴィスを殺したあの日から、偽りを捨てて仮面をつけた。

いつの日か地獄へと堕ちて、未来永劫の汚名を歴史に刻みつけることになろうとも――、赤く染まった道行きを一人歩み続けるのだ、とルルーシュは落日に染まる空へと背を向けた。










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