昼下がりのジレンマ。 神聖ブリタニア帝国の首都、ペンドラゴン。 この険しい山脈に囲まれた賑やかな街には、ひときわ豪奢な皇宮が存在している。 その中の宰相府――つまりは宰相閣下が長をなすこの場所が、私こと・の仕事場なのだ。 「、まだここ埃っぽいわよ」 「あ、はーい。すみませーん」 メイド服の裾を翻して私はメイド長の声に大きく返事をした。 そう、私の仕事はメイド。この宰相府の下働き、主に掃除雑務一般である。 毎日毎日同じことのくりかえし。いかにこの場所を綺麗にするかのみに神経を注ぐだけ。 でもでも、この宰相府はメイド仲間の中でも一番人気のある仕事場。それはなぜなら――。 「きゃ、シュナイゼル殿下よッ」 そばで小さい、しかし黄色い悲鳴があがって私はぴくりと反応した。 廊下の奥から歩いてくる渦中の人が見えると、みんな動きを止めて一斉に頭を下げる。もちろん、私も。 「いいよ、そんなに改まらなくて」 頭上に穏やかな声が響いてみんなも私も頭をあげる。すると瞳に穏やかに笑う長身の端正な青年の立ち姿が映った。そう、この人こそがこの宰相府の長でありブリタニア帝国の第二皇子、シュナイゼル・エル・ブリタニア宰相殿下だ。 「今日も我が宰相府は綺麗だね、みなが頑張ってくれてるおかげかな? ありがとう」 殿下は気さくなお人柄だ。私たち臣下のものにも優しく接してくださる。今も柔和な笑みは背景に花でも背負ってるんじゃないかと錯覚するほど圧倒的でみんなが浮き足立ってる気配が伝わる。この宰相府での仕事がメイドたちに人気なのは殿下がいるからに他ならない。 けれど、私の視線は――殿下の斜め後ろに釘付け。 「ああ、殿下……今日も素敵ねえ」 「こうしてお見上げできてお声をかけていただけるだけで幸せ」 殿下が過ぎ去ったあとも周りの黄色い声は止むことはない。 けれど私は、私の瞳は熱い頬を自覚しながら殿下の後ろを歩いていった人のあとを今も追っていた。 カノン・マルディーニ伯爵。殿下の一番の側近で私の憧れの人。 柔らかい笑み、柔らかい声、柔らかい物腰。私の中ではカノンさまこそが宰相府、いえこのブリタニア一素敵なお方。そう――殿下なんかよりもずっとずっと。 けれど身分違いの恋。高望みなんてしていない。カノンさまの近くにいられるだけで幸せなの。なのに――。 「やあ、。今日の君はダリアのように可憐だね」 廊下の花瓶の花――ちょうどダリアの手入れをしていたら聞こえてきたのは穏やかな声。この声は、殿下だ。 いつもいつもいつもいつも、この人はメイドであれ女とみれば誉め倒すのが趣味のような人。先日、実の妹君であるコーネリア皇女殿下を口説いていた場面に遭遇した時はさすがに殿下の頭を疑ったものだ。 けど、世の女が全員自分の言葉でメロメロになると思ってるのなら大間違いよ殿下! ――といけない、口に出したら不敬罪だ。 ああ、殿下の後ろにはカノンさまがいるというのに……ここで喜んだふりなんかしたら、カノンさまに私も殿下親衛隊だと勘違いされてしまうかもしれない。 「殿下は、本当にお口がお達者でいられますね」 しまった。大失敗。お前本心ではそんなこと思ってないだろ? という本音が見え隠れしたような棒読みで返してしまった。 やばいかなぁ、とちょっと焦っていると殿下は肩を竦めて困り顔。 「本心だよ、君はいつも一生懸命でとても輝いていると思うよ」 本当にこの人は口の減らない――でも、一生懸命なのは当たり前。だって常に宰相府を綺麗に美しく保つのが私の仕事だもの。もちろん、殿下ではなくカノンさまのために。 返事に窮していると殿下は穏やかに笑って私の前を通り過ぎていった。 でも。 そのあとに続くカノンさまと目があった、なんて喜べないほどにきつい眼光でカノンさまに一瞬睨まれて私は真っ白に固まってしまった。 がーん。 に、睨まれた……どうして? 殿下の言葉を素直に受け取らなかったから? うう……カノンさまは殿下の一番の忠臣。カノンさまの一番大切な人は殿下。 私なんて……私なんて……殿下に誉められても嬉しくもなんともないただの異端児。カノンさまから見れば、いやなメイドよね。 ああ、もう、私はカノンさまが一番なのに。殿下に誉められても嬉しくもなんともないのに喜ばないとカノンさまに嫌われるなんて! なんなの、この矛盾!? ああ、どれもこれもあれもそれも全て殿下のせいだわ……! あの張り付いたような笑みを崩さない殿下がにくったらしい! 「ハァ……」 私は盛大なため息をついて宰相府の廊下窓から庭園を見やった。 目線の先では今日も殿下が綺麗な女の人と楽しそうにお喋りしてる。毎度毎度、相手が違うのは何かのギャグ? ああでも、殿下って遠い人。そりゃ皇子様だもんね、こんな下々の私なんか取るに足らない相手なんだろうなぁ。それはどうでもいいけど、殿下の側近を務めるカノンさまから見ても私なんて住む世界の違う人間なんだなぁって思ったらちょっと悲しくなってきちゃった。 「ちょうどよかった、」 ああカノンさま……なんて思ってると後ろから一分一秒たりとも忘れたことのない声に話しかけられて私は全身全霊で反応した。 「は、はい!」 うう、我ながらみっともない裏返り声。振り返った先にいたのは、やっぱり――今日も一段と麗しいカノンさま。 「カノ……マ、マルディーニ伯爵、何かご用でしょうか?」 いけない。心の中では常にカノンさま呼びだということがバレるところだった。 慌てて取り繕うとカノンさまは一瞬眉を顰めたけど、すぐにいつもの中性的で素敵なお顔を素敵なお声に乗せられた。 「三時になったら殿下の執務室へお茶を運んでもらえないかしら? メイド長を探したんだけど見あたらなくて、お願いね」 「あ、は、はい。かしこまりました。お、お任せ下さい」 ああ、どもってしまう自分が情けない。せっかくお声をかけて頂いたのに。しかも邪魔な殿下はいないし。なのに――これ以上何を話していいのかわからない。 「それと、」 「は、はい」 「あなた、少し殿下に対して不敬な態度なんじゃないの? もう少し自分を見直して、反省してちょうだい」 「……は、は……い」 …………。 カノンさまにとっては当然のお説教。言葉を交わせただけで今日は良い日なのかもしれない。 でも、でも、なんだかとてつもなく苦しくなって私は滲んできた涙をグッと拭いつつ言いつけ通りお茶の準備にかかった。 お茶を淹れるのは得意だもん。さっきの説教なんて挽回してみせる。カノンさまが美味しいって飲んでくれたら幸せだもん。 だから頑張ろう。カノンさまのために……! 「失礼します」 執務室のドアをノックして、私はティーカップとポットを乗せた台を押しながら執務室の中へと入った。 見ると殿下は机に座って普段は見せないような難しい顔を浮かべていた。でも、私が入ってきたことで顔をあげた殿下はいつも通り穏やかな表情で話しかけてくれた。 「やあ、わざわざありがとう」 この人のせいでカノンさまに説教くらったのに、この人に粗相をしたらまたカノンさまを怒らせてしまう。 無理やりに笑顔を作った私は殿下のそばにいるカノンさまの方を見ることができなかった。また睨まれちゃったら、やっぱり辛いし。 テーブルの上にティーカップを設置して準備をしていると、こっちへ歩いてきた殿下が穏やかながらもきょとんとした表情で疑問を寄せてきた。 「これは……ティーカップが二つ? 誰の分なのかな?」 「……あッ……!」 しまった。カノンさまのことばかり考えるあまり、カノンさまついでに殿下みたいな用意をしてしまっていた。 お茶は殿下の分だけで良かったのに……。うう、またカノンさまに怒られてしまう。 「も、申し訳ありません。あの……」 思わず涙目になってしまった。ははは、と殿下の笑い声が聞こえる。笑って許してくれる殿下はやっぱりお優しい。――にくったらしいけど。 「いいよ、カノンが君に頼んだんだろう? なら、カノンの分も用意してしまっても不思議じゃないよね」 「殿下、それは――」 「いいじゃないか、せっかくだし君も休憩しなよ」 焦ったようなカノンさまの声を遮って、殿下はカノンさまをお茶に誘った。 カノンさまとお茶なんてなんて羨ましい。じゃなくて、私の淹れたお茶をカノンさまが飲んでくださる? 殿下、あなたって人は……とちょっと感動してたら、殿下はふっと笑って私に意味ありげな視線を向けてきた。――この見透かしたような瞳がまたにくったらしい。 私は予定通りそのままお茶を淹れて、二人にお辞儀をして執務室をあとにした。 午後は階段磨きが残っている。 さっそく掃除を開始して汗を流していると、上の階段から優雅に降りてきたのはカノンさま。 お辞儀をしようとすると、その前にカノンさまに呼ばれて私は顔をあげた。 「さっきの紅茶、とっても美味しかったわ」 「あ……」 まるで天使のような微笑を向けられて私は固まってしまう。ありがとうございますすらとっさに言えない自分が情けない。 でもでも、きっと今の自分はゆでだこよりも真っ赤に違いない。うう、恥ずかしい。 なかなか真っ直ぐカノンさまの顔が見られないでいると、カノンさまはどこか自嘲するような感じに肩を竦めて苦笑いを漏らした。 「殿下に叱られてしまったの、私はちょっとあなたに厳しいって。反省すべきは私の方だったのかもしれないわね、ごめんなさい」 「い、いえ……! と、とんでもないです、そんな」 「あなたのおかげで殿下とお茶もできたし、良いティータイムだったわ。失敗もたまにはいいものね」 …………。 うう、殿下のおかげでお優しい言葉をかけて頂けてるわけだけど、カノンさまはあくまで殿下基準なのが丸わかりで素直に喜べない。 でもでも、あの紅茶を美味しいって誉めてもらえたのは、すごく嬉しい。だから、素直に喜ぼう。うん。 カノンさまはそれだけ言いに来たのか、じゃあね、とまた階段を上ろうとしたけど、ふと足を止めてもう一度私に向き直った。 「あなたが掃除をしたあとって本当に綺麗ね。いつも感心するわ」 手すりに手を乗せて感慨深げに言われて、私の胸は一瞬でいっぱいになってしまう。だってそれは今度こそ、カノンさまからもらった言葉だから。 「あ、ありがとうございます!」 「殿下の宰相府だもの、いつも綺麗にしていたいものね」 けれどカノンさまはやっぱりカノンさまらしい一言を残して、そのまま戻っていってしまわれた。 残された私は……一瞬にして複雑な心境へ逆戻り。 ああ、今日も終わらないジレンマが続く――とくらりとした頭を押さえて私は再び掃除を開始した。 |
続く……?
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